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ヤシマダナ(トヨタヤスヒコ)


矢印

ヤシマダナ»

読んだ本と観たDVDです。

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グラン・トリノ [Blu-ray]

クリント・イーストウッド

Blu-ray / ワーナー・ホーム・ビデオ / 2010-04-21 発売



いい年をして、クリント・イーストウッド作品を初めて観る。出演したものも監督したものもまるきり初めてだ。特に理由はなく、ただ観ていなかっただけだ。世の中には何となく観てしまうものよりも何となく観ていないものの方が多い。黒沢清の映画を観ていないと思っていたが、かつて何気なく観た『ドレミファ娘の血は騒ぐ』は黒沢清作品だった。

昔かたぎの偏屈爺さんと隣に越してきた少数民族の子供たちとの交流を描く感動のヒューマン・ドラマ。

こう書いてあったら観る気が失せるのだが、一行でこの作品の内容をまとめなければならないとしたら間違ってはいない。だが何という違和感だろう。間違ってはいないが、正しくない。むしろ以下のように書いた方が正しいかも知れない。

行き過ぎた暴力が頑固親父を先鋭化させる!吠えろグラン・トリノ!俺なりの落とし前の付け方を教えてやる。

あおり過ぎのキャッチコピーで、なんだかスティーブン・セガール(もしくはジャン=クロード・ヴァン・ダム)の映画の宣伝みたいだ。どちらかというとこちらが雰囲気だが、正しいとは言い切れない。「ほえろグラン・トリノ!」は間違い。これでは爆走するグラン・トリノ(1972年に発売されたフォード社の車種。イーストウッド演じるコワルスキー老人が大事にしている)からガトリング・ガンでもぶっ放しそうな勢いだ。確かにコワルスキーは往時のダーティー・ハリー(当然、観ていません)よろしく黒人のチンピラにピストルを向け、モン族の不良にライフルを向ける。やたらつばを吐くし、神父(牧師だったかな?)に悪態をつく。排他的で差別的な言動を繰り返す。いつか街の若者や外国人を機関銃で皆殺しにして胸を撫で下ろすのではないかという狂気さえ感じさせる。車の名前がタイトルだからといって車好きしか受け付けない映画ではない。むしろグラン・トリノは倉庫にありぴかぴかに磨かれたままだ。コワルスキーはフォード社に勤めグラン・トリノの製造に携わっていた。それが彼の唯一の誇りである。他に出てくるのは普段使いのピックアップ・トラック。白人のギャングが乗るアメ車、コワルスキーの息子が乗るトヨタ、モン族のギャングが乗るヤン車くらいである。車よりも少数民族の問題に焦点が当たっているのに、特典映像ではスタッフの車に対する愛着インタビュー映像が満載で辟易した。
モン族は中国、タイ、ベトナムなどに住む民族だが何故大挙してアメリカのデトロイトにいるのか?次第に親しくなるコワルスキーと隣家のモン族の姉弟(外の家族は英語すら話せない)。内向的な弟との交流は『ベスト・キッド』を思わせる。

最高の師匠がくれたもの。それは、逃げずに立ち向か勇気。(これはリメイク版『ベスト・キッド』のコピーだが、けっこう合ってる)

モン族の内輪もめで隣家が銃撃を受け、姉がレイプされてしまう。今までおとなしくしていた弟は怒り心頭。コワルスキーは黙って考える。男は黙って考える。
俺なりの落とし前の付け方を。

エンドロールで号泣してたらチャイムが鳴って宅急便が届いた。亡き祖父のハンチングが入っていた。彼もまたコワルスキーに似て不器用な男だった。
そのハンチングはクリーニングで縮んだのかかぶることはできない。


2012-02-02 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2012年02月02日) |

バットマン・アンソロジー コレクターズ・ボックス (初回限定生産) [Blu-ray]

ティム・バートン,ジョエル・シューマカー

Blu-ray / ワーナー・ホーム・ビデオ / 2009-04-08 発売



最初(正確には四度目)の映画版『バットマン』の実写シリーズ四本が収められたボックスセット。『ダークナイト』を観たいがために『バットマン・ビギンズ』を観たのだが、前作を一通り観なくてはいけない気持ちになった。このままだと『キャット・ウーマン』とか『バットマン・オリジナルムービー』まで観てしまいそうで怖い。しかしそんなものを観ている暇があったらコミック版をこそ読むべきだろう。

ティム・バートンが監督した一作目の『バットマン』(1989年)は当時映画館に観に行った。ビジュアルのイメージは良かったが、バットマンがただの奇矯な変態にしか思えず、以降のシリーズは一切観ていなかった。改めてこの第一作を観ても変態感はつきまとう。バットマンことブルース・ウェインを演じるマイケル・キートンの顔つきがやはりどこか変態じみている。あの特異な目つきに神経質そうに吊り上がった眉、人付き合いが悪そうでいながら愛に飢えた態度。そしてあの黒装束でゴッサム・シティをうろつき、時には特殊なデザインの車や戦闘機で飛び回る。普通に考えてあのデザインの 戦闘機(バットウイング)を(おそらく)自らデザインして作らせている金持ちは変態としか言いようがない。悪党を倒すためにバットマンの黒装束は必要でもロゴマークはいらないのではないか。まして夜闇にひそむのに
黄色は何だ。利点といえばロゴマークだけで威嚇することで抑止となるとは言えるが。このバットマンが発する変態性の表れは監督がティム・バートンだからだろう。
幼い頃に両親を目の前で殺されたということがちらりと出てくるが、ブルース・ウェインというキャラクターが抱えるトラウマが、警察から独立して悪党を倒すという行動を認める理由となるだろうか。しかもバットマンと連絡を取れるのはゴードン総監だけ。バットモービルなどの設備を整える金が無ければ即刻アーカム送りだ。
後のジョーカーであるジャック・ネイピアが薬液に落ちた後、逃げ場を失ったバットマンが煙幕を張るのは何故だろう。煙幕が消えた後いなくなっていれば理想的だが、追っ手からも丸見えのまま煙とともに上がっていく。『ビギンズ』のように忍法修業中、煙幕の大切さを教えられるという伏線があれば別だが(むしろ『ビギンズ』には特に煙幕は使われなかったが)、いきなりの挙動に面食らった。
ラストの舞台となる鐘楼にジョーカーの手下が潜んでいるもはおかしい。バットマンより先に上っていたなんてのは無理がある。
前半のシーンで半月刀を両手に振り回す悪漢と対峙する直立のバットマンはかくあるべき姿。ファイティング・ポーズとかとらなくていい。一撃で相手を倒すのだ。たぶん修行時代に詠春拳を習ったに違いない。
当時は知らなかったことだが、80年代後半にフランク・ミラーによって『ダークナイト』、『イヤーワン』が発表され、バットマンのコミックに革命が起きていた。その流れを受けて製作されたのがこの映画だ。だから昔のテレビシリーズとは違うアプローチがなされ、その流れはクリストファー・ノーランの『バットマン・ビギンズ』以降の映画にも受け継がれている。ゴッサム・シティにガスをまくというシチュエーションも『ビギンズ』に出てくる。またロビンを出さないと決めた点も同様だ。ティム・バートンのコメンタリーでサム・ハムの脚本には「バットマン誕生の心理的根拠がしっかり描かれている」と言っていたが、その点を拡張したのが『ビギンズ』となる。つまりこの映画があって『ダークナイト』が誕生した。 バットマンのコスチューム(バットスーツ)が鎧のようになって表現されたのもバートン版が初めてだ。革命と言われたコミックでも昔ながらのタイツのようなデザインであったから、ファンにとっては衝撃だったのではないか。以降のバットスーツに踏襲されているが、首回りが固いのか天を仰いだり振り返ったりする動作の場合、寝違えた人の動きになり、観ていて気が抜ける。
バットモービルはクラシック・カーをプロトタイプ・レーシング・カーにリアレンジしたようなデザイン。バットスーツの表面素材に合わせたようにマットに仕上げられているので、かえってバットスーツにも重量感を与えている。 コメンタリーでバートンは「時代を超越した感じにした」と言っていたがファッションや街の雰囲気は40〜50年代だ。それでいて近未来的ガジェットが登場したりと、極端に言うと時代劇の長屋ににテレビがあるような独特の世界観を提示している。
ジョーカーを演じたジャック・ニコルソンの怪演は見事。目に耳に残る。執事のアルフレッドを演じるマイケル・ガフも素晴らしい。見るからに理想的な執事だし、パーティー会場でのブルースがボールペンやグラスを手近な場所に置いたりするのをすかさず受け取るシーンはたのしい。ブルースが何かに集中すると周りが見えなくなることも表現できている。
実はのちにトゥー・フェイスとなるハーヴェイ・デント検事も出ているが配役は『バットマン・フォーエヴァー』のトミー・リー・ジョーンズではなく黒人のビリー・ディー・ウィリアムズ(『スター・ウォーズ』のランド・カルリシアン役など)だった。ウィリアムズのトゥー・フェイスは実現されなかったが、コメンタリーでは続編があった場合、トゥー・フェイスを彼が演じたら面白いと思っていたと語っている。
世紀を越えて続くバットマン・シリーズのエポックメイキングとなる重要作品。

まさにティム・バートン監督作と呼べるのが二作目の『バットマン・リターンズ』(1992年)だろう。ゴシック調がより強調された雪景色のゴッサム・シティやペンギンの外観や生い立ちなどを含めたデザインの不気味さ、キャット・ウーマン誕生のゾンビ表現、そして表層的な態度をとる一般市民描写など、ティム・バートンらしい世界観が存分に発揮されている。オープニングの33年前の寓話ふう残酷描写からいきなりティム・バートンだ。一作目はジョーカーがかなりカラフルだったが本作ではペンギンもキャット・ウーマンも白黒なので色彩的に落ち着いた雰囲気になっている。悪役が二人と紹介されることが多いが、漫画にはないオリジナルキャラクターであるマックス・シュレックもカウントしたい。キャット・ウーマンが生まれるきっかけを作り、ペンギンを手玉にとり、電力過剰のゴッサムに原発を建てようとする男だ。演じているのはクリストファー・ウォーケン。見るからに冷徹なデパート経営者の悪党ぶりは相当なものだ。
そのシュレックの元で働くドジっ子メガネ秘書がミシェル・ファイファー演じるセリーナ・カイル。やがてキャット・ウーマンとなり豹変する。バットマンにまたがりアゴから鼻の頭にかけてぺろりと舐め上げる。そのあと自らの唇を舐めるバットマンが可愛い。引かれあう二人が仮面パーティで再会するシーンは印象的だ。コメンタリーでも監督が語っていたが、廻りで踊っている人々と対照的にバットマンとキャット・ウーマンは素顔のままなのだ。まるで二人だけで踊っているように感じられる(ただ仮面パーティーなのに素顔でやってくるとはどういう了見なのか判らない)。
前回恋仲になった報道カメラマンのヴィッキー・ベール(キム・ベイシンガー)と別れたことも語られる。また、前作で映画的にも内外から非難を浴びたアルフレッドがヴィッキーをケーブ(洞窟:バットマンの秘密基地)に案内してくるという大失態をブルースがなじるシーンも出てくる。
ちなみに今回の失態はラスト近くででバットマンとキャット・ウーマンが対決するシーンで、シュレックの前にも関わらずバットマンがマスクを取る。キャット・ウーマンにだけばらすのならまだ許容範囲だったが、危険人物のシュレックに弱みを握られるような真似をするのはいただけない。シュレックは直後に死ぬことになるが、正体を明かした時点ではそのことは予見できなかった筈だ。しかもマスクを取る直前に目の周りの黒塗りが消えていた(些末事ではあるが気になるじゃないか)。
これは失態とは言えないが、エンディングのキャット・ウーマンの後ろ姿なんて蛇足以外の何ものでもない。ブルースが黒猫を拾った段階で終わりにすればよかった。
ペンギン役のダニー・デヴィートの怪演ぶりは前作のジャック・ニコルソンに引けを取らない、あるいはそれ以上かも知れない。恐怖と悲哀を抱えて尋常ではない人間を見事に演じている。そして最期の悲愴感。
キャット・ウーマン役のミシェル・ファイファーの変貌ぶりもたまらない。猫の魔力で蘇る時の目の動きは特殊効果ではなく演技だったとバートンは興奮しながらコメンタリーで明かしている。
ペンギンとキャット・ウーマンの悲しみや苦悩がバットマンのそれと二重写しになって描かれる。
一作目を超える二作目はないというが、個人的には『リターンズ』の方が好きだ。もっと早く観ておけばよかった。
今作ではCGを利用するようになり、ペンギン軍団や前回光学合成されていた表現、例えばバットモービルのロック・オン/オフの変形とかが画面になじんでいて違和感がなくなっていた。
コメンタリーによるとバートンは三作目もやる気だったが、口から黒い液体を出す人形を売ることはできない、とスポンサーに止められた。ファンからバートン版バットマンを奪ったのも、シュマッカー版バットマンを生み出したのもスポンサーだ。とはいえ黒歴史とも呼べるシュマッカー版の失敗があったからこそ後のノーラン版が誕生した。だがシュマッカー版のあと二度と作られなくなった可能性もあり、目先の金に動かされるワーナーの姿勢をこそ糾弾したい。

三作目『バットマン・フォーエバー』(1995年)で監督が交代してジョエル・シュマッカーとなり様変わりする。二作目がダーク&ダーティで不評というワーナーの判断でファミリーで楽しめるようにと明るくしようとしたらしい。コメンタリーでもシュマッカー監督は「ノリは軽めにして、子供が楽しめるようにしろ」とスタジオに言われたと語っている。前作よりも興行は良かったらしく、おかげで四作目も制作されることになる。
バットマン/ブルース・ウェインも新たにヴァル・キルマーが演じる。今回の敵はトミー・リー・ジョーンズ演じるトゥー・フェイスとジム・キャリー演じるリドラー。物語途中でクリス・オドネル演じるロビンが誕生。恋の相手はニコール・キッドマン演じる精神科医チェイス・メリディアン。トゥー・フェイスの二人の愛人のひとりシュガー役にドリュー・バリモア。トレッキーには嬉しい『ディープ・スペース・ナイン』のオドーでおなじみのルネ・オーベルジョノワがアーカム・アサイラムのバートン博士役。アルフレッドだけは引き続きマイケル・ガフ。
オープニングではバートン版との違いを高らかに宣言する一新されたバットスーツ、バットモービル、バットラン、バットケーブが登場し、期待は高まる(驚いたことにバットスーツには乳首がついている!)。後半バットケーブもろとも破壊されたために登場するバットスーツ(プロトタイプ)は角張っていていまいち。出かけようとするバットマンにアルフレッドが「サンドイッチをお持ちになっては?」と投げ掛け「外食にする」とバットマンが応えるスマッシュ・ギャグでも前作との違いをアピールしている。ダークでゴシックなイメージを覆すようにネオンで彩られたゴッサム・シティは東京をイメージしたとのこと。ネオン看板に指圧、スラムダンクなどの文字が見られる。武器にLEDが点いていたり透過光かCGによるエレクトリック表現、蛍光塗料とブラック・ライトなど全編を通して異様にカラフルな世界に一変している。一応、バットケーブやウェイン邸は落ち着いた色調になっており、ブルースとゴッサム・シティとの乖離が大きくなっているように感じられる。また、ナイフを振り回す悪党に対峙する時にバットマンがファイティング・ポーズを取っているのに違和感を覚えた。直立不動の方が不気味でかっこいい。
昼間のゴッサム・シティや自在に飛ぶヘリなどまだ完成度の低いCGで作られておりちゃちさに萎える。破壊されるビルの壁も薄く見える。実際の比率であの薄さなのかも知れないが、なるべく厚めに作っておけば凄みも出ると思う。閉じこめられた金庫(?)の蓋を開ける時の軽々しさは何だ?もっと全身を使って、せめて両手、両肩、後頭部から首などを使って這う這うの体で開けてくれよ。発泡スチロールじゃないんだから片手でぱかっと開けないでくれ。バットマンは超人じゃなくて人間だ。
唐突にトゥー・フェイスが登場して暴れまくる。最初、ただれてない方の真横からのショットで始まり、徐々に反対側のただれている方も見えてきてトゥー・フェイスと判る初登場シーンは、ライティングや見せ方でもっと驚きに満ちた登場シーンにできた筈なのに、もったいない。何者か判らないが風貌から悪役とは判るものの、なにゆえトゥー・フェイスなる者が誕生したのか描かれていない。一応、中盤にニュース映像でハーヴェイ・デント検事が硫酸をかけられるシーンが挿入されるが、「それが原因で精神に異常をきたしてトゥー・フェイスとなった」と要約されても、(バットマンと協力関係にあったデント検事が)どのような思いを抱え、事件をきっかけにどのように変化があったのかが全く語られない。コメンタリーでシュマッカー監督はオープニングにトゥー・フェイスがアーカムを脱走するシーン(特典映像で観られる)も撮影していたが時間の都合でカットしたと語るが、どちらにしろ誕生の経緯を描いていないので、そのシーンをカットしようが盛り込もうが、トゥー・フェイスという悪人が悪役として唐突に立ち現れることに変わりない。
ロビンことディック・グレイソンの初登場場面となるサーカスにトゥー・フェイスは何しに来たのか?そんなところでバットマンは名乗り出ろって言っても意味なくないか。市長などが来ているというのもあるけど、そんなとこに爆弾仕掛けるなら誰か誘拐して引き換えにバットマンは名乗り出ろとテレビで流した方が効果的だ。ロビンの登場シーンが割愛されることになるが、別な流れでサーカス会場に流れ込めばいいだけのことだ。オープニングの無駄なアクション・シーンで家族が巻き込まれれば、トゥー・フェイスとともにバットマンに対する恨みも深くなると思う。 のちのリドラーことニグマがウェイン社の研究所でブルースと対面するシーンで、ブルースが連れなさ過ぎ。自社の研究員が間違っているとはいえ驚くべき研究の成果を出したのであれば、的確な指示を与えて研究方針を変更させるよう勧めるべきだろう。その上で社長は何も判ってないとねじれるニグマにした方が異常さが出る。まともじゃないと思わせる大事な場面だったのに。ジム・キャリーの動きや変顔の面白さは判るが、バットマンの世界ではまるで浮いている。だんだん狂っていく状況を見せてくれないとおかしな人がおかしな格好でリドラーと名乗ってるだけではバットマンのテーマでもある人の二面性を描けない。ニグマがリドラーになった後の雰囲気は柳沢慎吾にしか見えない。
リドラーとトゥー・フェイスによってウェイン邸があっさり侵入お許し、むざむざバットケーブを破壊されるというのはどうしたものか。
キッドマン演じるチェイスが事件でもないのにバットシグナルでバットマンを呼び出すのだが、勝手に警察の施設を使うとは何事か。呼び出しておいて屋上で服を脱ぎ出して誘惑するなどどうかしている。何が「堪能してほしい」(コメンタリー)だ。きちんとゴードン総監の許可を得て(あるいはだまして)、バットマンに対してももう少し控えめに興味を示して欲しかった。仮にも精神科医なのだから社会と自己との折り合いをつけた対応をお願いします。
ブルースがアルフレッドを連絡をとる際にウルトラ警備隊のような腕時計型テレビ電話を使っていたが、外部に音声が漏れるというどうしようもない仕様だ。格好をつけずに携帯か補聴器型にすればよかったのではないか。補聴器型ならオープニングのアクションで出てきた補聴器からブルースが思いついたに違いないと穿って見られることもあったかも知れない。
ケチばかりつけてきたようだが、映像は美しい。例えばブルースが幼少時代を回想するシーン。アニマトロニクスのコウモリなどコントラスト強めで美しい。またロビンがウェイン邸に始めてやってきた時の陽射し(これはコメンタリーでシュマッカー監督も撮り逃がすまいと焦ったと語っている)も素晴らしい。CGでもヘリがネオン看板をぶち破ったり自由の女神に衝突するシーンなどはよくできている。後半に登場するバットウイングのコウモリのようにぶら下がった格納のされ方がいい。バットウイングのデザインに関しては初代のものより格段に良い。
バットマン/ブルースの振られ方がいい。ブルースとしてサーカス会場ではバットマンが好きと言われ、がっくりする。のちにバットマン姿でブルースが好きと言われ、にんまりするバットマンは可愛い。総じてヴァル・キルマーのバットマンは悪くない。やや陰鬱ではあるがそれがバットマンには似つかわしい。
こうして見るとシュマッカー監督は作家性は薄いが商業監督としての手腕はあるように思える。スポンサーやスタジオの無理難題を受け入れ、役者やスタッフの意見を取り入れ、ファンの期待に応えようとする。

駄作の誉れ高い四作目『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997年)は明るい雰囲気が突き抜け、おばか映画に成り下がっている。更にバットマン/ブルース・ウェイン役が交代し、ジョージ・クルーニーを抜擢。どう見ても悩み無いだろうとしか思えない様子がまたどうしようもない。日中のブルースは女をはべらしたりする演技をしているのだが、クルーニーのブルースでは本気で遊んでるようにしか見えない。
Mr.フリーズにアーノルド・シュワルツェネッガー、ユマ・サーマン演じるポイズン・アイビー/パメラ・アイズリーは『リターンズ』のキャット・ウーマン同様、さえない女性から怪人へ生まれ変わる。アリシア・シルヴァーストーン演じるバーバラ・ウィルソン/バットガールはアルフレッドの姪には若すぎ。アイビーの手下ベインはジープ・スウェンソン(プロレスラー、別名アルティメット・ソリューション)。新恋人ジュリー・マジソン役にエレ・マクファーソン。今回は恋人の重要性は薄い。前作のチェイスのことも触れられず。ロビンは引き続きクリス・オドネル。アルフレッドはマイケル・ガフ。ガフ萌え。実はゴードン総監役のパット・ヒングルも最初から替わっていない。

前作同様のオープニングタイトルから、はやり前作同様の新しいバットスーツから始まる。今回はロビンスーツも新調される。コメンタリーでシュマッカーはロビンの新しいスーツをコミックの「ナイト・ウィング」を参考にしたと言っているが、それはディック・グレイソンがロビンを卒業したあと名乗る全く別のヒーローだから、参考にする意味が判らない。あるいはスピンオフでも考えていたのかも知れないが、今となっては謎のままだ。笑いをとるためか女性ファンに訴えるためかクローズアップで二人のお尻を強調。後半のバットガール誕生シーンで同様のお尻アップ。こちらは男性向けか。
悪趣味な新しいバットモービル、バットケーブ、レッドウィング(ロビンのバイク)で予算の無駄遣いをしている。コメンタリーでシュマッカー監督は「オモチャを意識した」と語っている通りで、バットモービルは無駄に大きな尾翼がついていたり、LEDが点いていたりと非実用的。後半には更に三台の乗り物、三人分の新しいスーツが登場する。デザインもほんと「オモチャ」で、予算無駄過ぎ。シュマッカー監督は子供向けにはオモチャを、大人向けにはお色気を出せばいいと思っているようだ。ワーナーから子供が怖がるから、子供に愛される作品にしてほしいと言われたとコメンタリーで語る。大人になっても愛される作品を目指さなかったことにワーナーの判断ミスがある。そもそもバットマンでそれをやろるのは明らかに間違い。シュマッカーも『イヤーワン』をやりたかったが、それが無理だと判って引き受けたのは「いい経験になる」からと語る。ファンにけなされるのも判って、ワーナーとスポンサー(と彼らが想定するファミリー層)と自分のキャリアアップのために作られた作品がラジー賞以外に評価はされなかった。

※以下くだくだとつっこみどころを2500字ほど書いたが無駄なので割愛する。

各特典映像のインタビューでは映画に関わった人たちはもちろんだがコミックス界からフランク・ミラー(『シン・シティ』など)、アレックス・ロス(『キングダム・カム』など)、マイク・ミニョーラ(『ヘルボーイ』など)などなど(いずれの作家もコミック版『バットマン』に関わっている)、そして原作のボブ・ケインらの話しも聞けて嬉しい。

余談だが、Amazonのマーケットプレイスで安いのを頼んだら新品だったがUK版だった。外装の仕様には音声・字幕ともJapaneseの文字が無かった。正直、やられたと思ったが、プレイヤーに入れたら問題なく日本語の字幕も音声も出た。そういったことは明記しておいてもらいたいものだ。


2012-02-01 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2012年02月01日) |

バットマン イヤーワン/イヤーツー

フランク ミラー,マイク W バー,デビッド マツケリー,アラン デイビス,トッド マクファーレン

大型本 / ヴィレッジブックス / 2009-12-19 発売



バットマン「イヤーワン」、「イヤーツー」とその続編「フルサークル」を合冊したもの。
「イヤーワン」は前年の『バットマン: ダークナイト・リターンズ』の好評を得て1987年に発表された。昔ながらのいわゆるアメコミとは違い、リアルでハードな内容。このような兆候は世界的な潮流で、フランスではエンキ・ビラル(『ニコポル』三部作 1980-92年)、日本では大友克洋(『童夢』 1983年)、谷口ジロー(『ブランカ』1984-86年)などが同時期に台頭し、後進に多大な影響を与えた。1982年公開の『ブレード・ランナー』のビジュアルもあげておきたい。
評判通りの佳作だが、バットマンとしての活動一年目というよりゴードン警部補が中心の物語となっている。ゴードン警部補がシカゴからゴッサムに赴任してくるところから始まる。同時にブルース・ウェインも長旅から帰ってくる。
「イヤーワン」のライターは『シン・シティ』や『300<スリー・ハンドレット>』などでもおなじみのフランク・ミラー。アーティストはデヴィッド・マズッケリ。ミラーの絵はクールだが、マズッケリの線は起伏があり暖かみがあるが、読者の感情に訴えるものがある。
「イヤーツー」は「イヤーワン」から名前を借りただけの全く趣きの違う作品で、良くも悪くもアメコミ。トラブルがあったらしく、チャプター毎にライターもアーティストもばらばら。「CHAPTER 2」でアーティスト達が変更になり、「CHAPTER 4」ではペンシラー(鉛筆、つまりコマ割りと下描きをする人)とインカー(いわゆるペン入れをする人)が同じになるので回毎に絵柄が変わり読みにくい。アーティストにはのちに『スポーン』シリーズで名を馳せるトッド・マクファーレンが名を連ねている。『スポーン』のシャープなイメージとは違い、ペンシラーとインカーの両方を務めた「CHAPTER 4」の線はふわふわしていて平口広美の絵に酷似している。
「フルサークル」は「イヤーツー」の続編。「イヤーツー」で死んだはずのリーパーが復活する。更に「イヤースリー」も存在するらしいが、邦訳されていない。
はっきり言って先に刊行されていた「イヤーワン」だけで充分だった。


2012-01-31 | comments(0) | 漫画 | 読み終わった (2012年01月31日) |

バットマン ビギンズ [Blu-ray]

クリストファー・ノーラン

Blu-ray / ワーナー・ホーム・ビデオ / 2008-07-23 発売



クリストファー・ノーラン監督作を初めて観る。次々作『ダークナイト・ライジング』を映画館で観たいがために次作『ダークナイト』の前哨戦として観たのだが、かなり気合いが入っていて相当疲れた。同じくらい楽しかったけれども。ティム・バートン版の『バットマン』は、金持ちの暇人が奇怪な変装趣味で正義を笠に悪党狩りをしている道楽にしか見えなかったが、『ビギンズ』では変態性に確かな裏打ちを与え、説得力を持っている。140分を超えるちょっとした町の予算くらいあるビッグ・バジェットで、大掛かりなセット満載。前半は子供時代(トラウマ)〜修行時代(トラウマ克服)、後半はバットマン誕生〜活躍という二部構成になっている。悲しみと苦しみの前半と暗黒ゴッサム大破壊祭りの後半。
後半は適度なとぼけた笑いも随所に配置されていて楽しい。ゴードン警部補が疾走するタンブラー(バットモービル)を目撃して「俺も一台買おうかな」とつぶやくとか、執事のアルフレッドがバットマンのマスクを海外に発注する時、疑われないようにと一万個も発注するなど。

バットマンの敵が多すぎたかも知れない。ラズ・アル・グール、デュカード、スケアクロウ、ファルコーニ、アール、ついでにフラス。影の軍団は後半に出さずに悪党退治はゴッサム内で完結していれば良かったんじゃないか?影の軍団の使命を知っているデュカードがウェインを誘ってラズ・アル・グールを殺して脱出ってことでもいいんじゃないか?息が掛かっている者が既にゴッサムにいるとかってことで。とはいえデュカードとのせめぎ合いもまた一つの軸になってきているから、おいそれといじれないな。脚本は難しい。

繰り返されるメッセージ「人は何故落ちるのか?這い上がることを学ぶため」という滋味のある科白はそのまま『ビギンズ』のテーマになる。長い間、ブルースは悲しみとともに恐怖の穴に落ち込んでいた。彼は這い上がることを学んだ。同じように繰り返される「まだ見放さないのか」というブルースがアルフレッドに言う科白は、悲哀と恐怖を克服した前後では全く違っている。他にも繰り返される科白は「周りを見ろ」や「人の心は判らない。でも本性は行動に出る」などはウェインが言われた言葉を違う状況下で返すことで観る者の心に刻まれる。

前半の修業パートをもっと観たかったわけではないが「青い花を探して頂上まで持って来い」というのも試練の一つと思ったのだが、花はすぐに見つかり、登頂もあっさりし過ぎている。なんなら花探しと登頂、修業だけで一本の映画にしてもいいくらいだが、それだとバットマンが出てこないので金のかかったB級忍者映画にしかならない。四時間ノーカット版とか作りゃいいんだろうけど。ひどく疲れるに違いない。後半のゴッサム祭りは楽しいんだけど、後半は後半でもう少し短くても良かったような気がする。

主演のクリスチャン・ベールは顔に似合わず水泳選手のようにむちむちしたマッチョでバットマンには合っているが、前半の修業中はもっと痩せていた方がいいと思った。ベールは『マシニスト』の撮影で不眠症の男を演じ、ガリガリだったので太らせたらしいが、それは程々にすべきだった。
執事のアルフレッドはマイケル・ケインが演じている。二十年前から風貌が変わらないのでせめて髪を染めるとか何かしても良かったんではないか。また、襟元など若干緩めでだらしなく見え、タブロイド紙のデスクって感じだ。前に演じたマイケル・ガフはその点きちんとしていた。ただ、ブルース・ウェインの父親代わりとしての人間味は溢れんばかりだ。
珍しく善人役のゲイリー・オールドマン(ジム・ゴードン警部補役)は漫画『イヤー・ワン』から抜け出たようにそっくり。
幼なじみのレイチェル役のケイティ・ホームズは可愛いんだけど次回作『ダークナイト』では降板。

新生バットモービルはそれまでの奇矯で悪趣味なスポーツカー(それはそれで良いのだが)から、実戦向けの装甲車のようなデザインに変貌している。前輪同士をつなぐ車軸が無く、中央部はがら空きだから正面からの攻撃には弱いような気がする。また、運転席が変形するのは何故なのかよく判らない。バットマンも面倒くさそうだったよ。

評判もそこそこだったので期待していなかったが、主人公ブルース・ウェインの深い掘り下げ、複雑な悪の有り様、萌えるガジェット類、キャラクターなどが描かれていてかなり見入ってしまった。ただやはり盛り込み過ぎて輻輳していたかも知れない。盛り込む内容の量としては二部作にしてもいいくらいだった。


2012-01-02 | comments(0) | 映画 | 観終わった |



シーズン2から突然たくわえたライカー副長の髭とともに完全に安定期に入ったシーズン3。傑作も多い。
ビバリー・クラッシャーの復帰が大きく、クリンゴン星の様子を見ることができたり、ヤー大尉が出てきたりとファンサービスも満載。ジョナサン・フレイクス(ライカー役)の初監督作品「アンドロイドのめざめ」は感動作に仕上がっているし、締めはピカード艦長がボーグに取り込まれる「浮遊機械都市ボーグ(前編)」。
もう好きなものに言うことはない。


2012-01-01 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2012年01月01日) |




2012-01-01 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2012年01月01日) |

草原の子テングリ デラックス版 [DVD]

大塚康生

DVD / ジェネオン エンタテインメント / 2007-12-21 発売



1977年の原案・手塚治虫、演出/作画監督・大塚康生による短編アニメーション。何の前情報も得ずに観てたらあっという間に終わって驚いた。22分しかなかった。雪印のPR作品であるため劇場やテレビでは公開されていない。
主人公の少年テングリの可愛さはハイジの可愛さに通じ、全体も『ルパン三世』シーズン1のアクションたっぷりのコミカルな雰囲気。脚本はチーズに関する考察が弱すぎたりして荒く、作品としての完成度の高くはないが、個々のシーンなどは出色であり、特にアニメーション制作に携わる者なら特典映像も含めて観ておいて損はない。

アニメは動いてこそと言い続ける大塚康生。当たり前に聞こえるが、動きの少ないアニメが多くなってきたことへの嘆きだ。予算や時間の制約で、セル画の枚数を減らしたり描く枚数を減らしていった結果だ。例えば顔のアップで口だけ閉じたり開いたりして喋らせれば、ベースとなる顔、閉じた口、開いた口の三枚のセル画の組み合わせるで可能だ。本来、人が喋る時は唇だけではなく、アゴも動く。アゴが動けば顔全体を書かねばならず、そのぶん手間も時間もかかる。あるいは人が走るシーンでは真横のアングルで走り抜けた方が楽だ。奥から手前に来るアニメーションを見せるにはカメラまでの距離に応じて全身を描かなければならないが、左から右へ走り抜けるには四枚程度で走る動きを描いたセル画を真横へずらしていけばよい。予算や進行具合なども含めての演出なのだが、それによって「動き」がを嫌って何とか動きのあるアニメーションを作り続けている。(逆に先頃亡くなった出﨑統という演出家はストップモーションを効果的に多用した独特な演出を武器とした。)

特典映像では「『草原の子テングリ』のできるまで」として大塚康生、松谷孝征(手塚プロダクション)、椛島義夫(当時・シンエイ動画)、村山英世(桜映画社)、花崎哲(桜映画社)らのインタビューによって、企画の発案から手塚治虫への打診、から大塚康生にいたるまでの紆余曲折が語られ、当時のPR映画制作の流れが判って興味深い。
大塚康生によるオーディオ・コメンタリーではクレジットはないものの後半の群衆アクションは宮崎駿の手によるものだと明かされている。
また、関係ないが大塚康生は『ルパン三世』原作のモンキー・パンチのことを「モンキーさん」と呼んでいたり、手塚治虫に何度も誘われたが、手塚さんと違って自分はリアル指向だから断ったと言っていたのも印象的だった。

観ていて手塚治虫っぽいところと言えば牛のタルタル。大人になってからのデザインは手塚ふうで特典映像で観られる手塚治虫のオリジナルキャラクター原案を完全に踏襲している(実際のところ興味深いのは三パターン描かれたテングリの原案ではあるが)。『ボンバ!』の馬を彷彿とさせるダイナミックな動き、荒々しい獣の中に宿る知性的な眼光。タルタルが大人になって登場すると追って来た人間を暗闇の中返り討ちにするシーンでは手塚治虫の漫画のようだった。ただ手塚漫画なら無残な殺戮シーンになるはずだが、追っ手は川に落とされるだけにとどまる(企業PRだから仕方ない制約の一つ)。
ラストシーンの西へ向かうというあっけなさは、うーん、ページ数が足りなかったのかな、と思う。


2011-12-31 | comments(0) | 映画 | 観終わった |

家族ゲーム [DVD]

森田芳光

DVD / パイオニアLDC / 2001-08-24 発売



森田芳光が急逝されたこともあり、観た。当時観たきりで、もう一度と思っていたら監督が亡くなってしまった。当時(高校生くらいの頃)から奇妙な映画だと感じていたが、再見してやはり奇妙だと判った。クールな笑いは都会的であり80年代最新バージョンだったはずで、それだけをピックアップして解説したら当時の「笑い」の一側面を担えると思う。しかし笑いを除いた部分の奇妙さはホラー的とも言える。楳図かずおの言葉を借りるなら「笑いと恐怖は表裏一体」だ。
この奇妙な映画のあらすじを二つの側面で表現すると「乱暴で粗野な家庭教師が落ちこぼれ少年を志望校に合格させる」あるいは「平凡(そう)な一家が崩壊してゆくさまを描く」。両方とも合っているが両方とも違っているように見える。そんな映画が『家族ゲーム』だ。
一見して誰もが奇妙に思うのはあの有名な食卓のシーンだ。長いテーブルの片側に家族が並んで食事をする様子は繰り返し出てくる。ちょっと普通の家庭では見かけない光景だ。
奇妙ではあるが、我々はそれまでに似たようなシーンを違和感なく見ていたはずだ。『寺内貫太郎一家』や『ムー』などの久世光彦演出による一連のホームドラマで、ちゃぶ台を囲む食事シーンだ。何気なく登場人物が座って食事をしているのだが、ある一方向だけは誰も座らず大きく空間があいている。これは実際テレビカメラが登場人物全員の顔を撮影しやすいようにしているので、現実の生活にあてはめると極めて不自然な状況だ。演劇的と言ってもいい。しかし隣接する人物間に適度な距離があればさほど不自然さは感じさせない。つまりホームドラマでは不自然さを隠そうと演出していることが判る。
この映画の場合円卓ではなく、長辺が極端に長い長方形のテーブルである。その長辺に四人の家族が並んでいる姿の不自然さは恣意的だ。さらに家庭教師を加えて五人での食事は窮屈であり、何を無理して並ぶのだと観ている者は思う。なぜ並ぶかと言うとこの家庭の<ルール>だからだ。横並びで食事を摂る。窮屈だろうと間違っていようと幻想だろうと共同体として<ルール>を守っている。安直だがこの家族の抱える不自然さを具体的に表現していると言っていい。あまりにも不自然であるにも関わらず、この相互理解を失った家族が、暗黙の <ルール>を疑いもなく守っていることがひどく滑稽に見える。既存のホームドラマの不自然な食卓シーンの批判になっている。(※書いたあと検索したら黒沢明『赤ひげ』に同様のシーンがあるということを知った。)
実はこの家族の<ルール>を破壊するのは家庭教師だけではない。途中、戸川純演じる同じ団地の主婦が相談に来て、例の長テーブルに母と並んで話しているのだが、「慣れていない」という理由で反対側に対峙するように座り直すシーンがある。この時、母はこの家庭の<ルール>が外部からは奇異に映るのだと知ったのではないか。
そこに喧嘩に負けた弟が帰ってきて来客中にも関わらず裸になり布団を敷いてくれとせがむ。子供が帰ってきたからと主婦を追い返そうとすると電話が鳴る。弟は電話も出ずに主婦を見送る母に布団を要求し続ける。電話は鳴り続ける。母の中で<ルール>は崩壊し始めたに違いない。
家庭教師が来ずとも家庭は崩壊していたのだ。
舞台となる家庭の父、母、兄、弟それぞれのあり方の奇妙さは核家族化が進む(当時の)世相を反映しているとも言え、共同体にありながら違う方向を見ている、崩壊しかけている家族の持つ奇妙さでしかない。各個人が抱えている普遍的な悩み自体はとりたてて新しくも珍しくもない。落ちこぼれの主人公にあてがわれた家庭教師の奇妙さも文字化することで簡単に色褪せてしまう。「粗野で乱暴な家庭教師」と言葉にすれば凡庸になってしまう。松田優作だけが体現できる人を人とも思わないような不気味な奇妙さだ。主人公とその家族にとってこの家庭教師は目的不明の異形の生命体だ。

全編通して気付くのは音楽が一切使われていないということだ。中盤にレコードをかけるシーンがあるが、ここでも音声はカットされている。そのかわり摂食音だけは通常のSEよりも強調されている。がつがつむしゃむしゃぼりぼりずーぞぉーぼりむしゃがりごりばりぼりずーといった具合だ。音に関して言えば無駄な音や会話にあふれているのに一部無音の部分が気になる。阿木燿子演じる家庭教師の恋人の声は一切聞こえず、兄が好意を寄せる同級生の姉との何気ない二言三言が無音になっている。取り立てて必要ではない箇所ではあるが、他のシーンでは使われていない手法なので目立ってしまう。

家庭教師役に松田優作、主人公の少年に若き日の宮川一郎太。父役はのちに『お葬式』や『タンポポ』で監督として名を馳せる『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の怪演も懐かしい伊丹十三。母役はiTunesで世界的ヒット中の由紀さおり。助監督には平成『ガメラ』シリーズの金子修介も名を連ねている。

船に乗ってやってくる家庭教師、繰り返される校庭の鳥瞰の構図、後半で明らかになる冒頭の女子の目配せという長い割に意味のない伏線、兄が好意を寄せる同級生の自宅の構造の不可解さなどこの映画の持つ奇妙さは限りない。冷めた視点の笑いが随所に折り込まれ、静かだが暴力的で奇妙だが魅力的な作品になっている。


2011-12-24 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2011年12月23日) |

シークレット・サンシャイン [DVD]

イ・チャンドン

DVD / エスピーオー / 2009-01-01 発売



原題は『密陽 Miryang(ミリャン)』という釜山の近くだと本編で語られる地名。夫を失って子連れで引っ越してくる主人公は、永作博美を濃いめのいとうあさこで希釈したようなチョン・ドヨン。そこで偶然知りあった太った豊原功補ふうのソン・ガンホ演じる自動車修理工社長が絡んで物語は進行する。チョン・ドヨンという女優は知らなかったが、ソン・ガンホは『グエムル』や『殺人の追憶』などで知っていた。
主人公は様々な出来事に翻弄され穏やかではいられない。冒頭から車が故障したこともあり不機嫌な母親として登場する。狭い町でのうわさ話やおせっかいに苛つきを覚え、誘拐に動揺し、見栄に泣かされ、息子を失うことで希望を失う。付け焼き刃の宗教で救われた気になり、神の大いなる御心に絶望する。二時間強とは言え、ジェット・コースターに乗せられた彼女の魂は右へ左へ揺さぶられ続ける。
ストーリー展開の割に、映像に派手さはなく静かに語られる。最低限必要なシーンだけで情報を伝え、出来事を画面の外に置くことで、主人公の心の孤立感を際立たせている。
夫の死に何か謎があるのかと思いつつ観ていたが、事故死という以上には語られない。息子の葬式の際に義母が「夫を殺し、息子も殺し」と(よくニュース映像で見かけるあの感じで)泣き叫ぶが、これも謎ではなくあて所のない怒りを嫁にぶつけているだけだ。この義母ら親族は、ミリャンは亡夫の故郷なのに葬式シーンで初登場だ。反対された結婚で邪険にされていたのか、それとももちろん挨拶に行ったりしていたのだが画面の外に置いていたのかは判らない。どちらにせよ物語に関係ないものの、見知らぬ土地であっても親族とは疎遠であった。
息子が行方不明になり、誘拐犯からと思われる電話の声は聞こえない。主人公の返答により推察するしかない。どこかで重要な(ボイスチェンジャーで歪められた)音声だけ聞こえてくるようなクソ演出はない。電話の声を聞いている彼女だけがひとり、恐るべき情報を知らされている。
暗闇でただひとり、自分と闘っている彼女の姿を周囲の人間が理解するのは難しい。一方で彼女とは対局にある、がさつでおせっかいな「俗物」である社長の献身を理解できる者はいない。彼の献身は「俗物」であるがゆえに「ヤリ目」とだけ思われているからだ。
彼は都会的で疲れてはいるが清楚な主人公に何かと世話を焼き近づくが、その都度、断られ、あしらわれ、冷たくされる。それは彼女が宗教に目覚めた(と勘違いした)後でも同じで、慈愛もへったくれもない冷遇っぷりだ。それでもなお彼女の助けになるように努める。ピアノ教室を開きたいと言えば不動産屋を紹介し、土地を買うと言えば地主に口利きをし、彼女が教会へ通うようになったら自分も通い、服役中の誘拐犯を許すために面会に行くという彼女を車で送り、入院した彼女の退院の日には彼女の弟を連れて迎えに行く。
彼が全編を通して表現する優しさを履き違えたおせっかいという献身は、ラストで鏡を持ってあげるよというシーンに凝縮される。彼女は彼の写し鏡であり、彼もまた虚栄心と虚飾に満ちた暮らしの中で彼女という光を見つけるのだ。『シークレットサンシャイン』はこの田舎の俗物社長の物語でもある。
彼の献身こそが意図せず隠された陽光だった。それこそが彼女に必要な陽の光なのかもしれない。

製作・脚本・監督はイ・チャンドン。
丁寧でかつ無駄を省いた佳作だが、観ていて作品世界に取り込まれてしまうようなトリップ感は無い。ドキュメンタリーふうのカメラワークと長回しが一定の距離感を保っているように感じられ、それを客観性と言ってもいいが、そのせいでどこかに嘘っぽさを感じてしまったのかもしれない。


2011-12-17 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2011年12月17日) |

エンバー 失われた光の物語 [DVD]

ギル・キーナン

DVD / Happinet(SB)(D) / 2009-10-23 発売



最近、本も映画も観ていないので、何かと手近にあったので適当に観始めた。そこら辺に置いてあったのも何か観たい要素があったに違いないが、もはや覚えていない。
物語は単純なディストピア脱出モノ。そこにマーティン・ランドー渋かっこいいねとかシアーシャ・ローナンかわいいねとか地下都市描写が割といい、かなりいい、とか脚本いまいち詰めが甘い、ちびモスラ登場!モグラでかい、などが添えられている。
詳細は明かされないけど人類の一部が地下都市エンバー(町くらいの感じ)で暮らし始めて200年が過ぎたところが舞台。エンバーの街と手作りガジェットみたいなモノの感じだけは、監督が力を入れたのか美術さんが素晴らしいのか判らないが、良かった点。『ヘルボーイ2 ゴールデンアーミー』のトロル・マーケットくらいいい。モンスターどもがいない分、魅力が薄いといった程度か。衣装もいい。市民が貧しくもつましく暮らしている様子がうかがえるし、主人公のリーナがメッセンジャーという職業にあこがれるのもあの真っ赤なガウンのためだ。
地下都市の天蓋には無数の電球がぶら下がっていて、蛾などかたかっている。時々停電するのは発電機の調子が悪いらしい。建物も古くいい感じに煤けていて、室内も生活感を通り越して歴史さえ感じる散らかりようだ。それだけにラスト近くの地下水道をボートで流れるシーンのCG合成のちゃちさは悲しい。
脚本についてになるが、歴代市長が受け継ぐ箱をなぜ探していたおばあさんに渡さず持ち去ったのか?カウンターをなぜカウンターと判ったのか?そこにおびえる必要があるだろうか。巨大モグラを見たリーナとドゥーン。リーナがドゥーンに尋ねると「見当もつかない」と言っていたにも関わらず、直後に「モグラは食べ続けないといけない」などと解説できるのはなぜか。就職祝いにドゥーンの父がくれたガジェットがつっかえ棒としてしか役に立たないとか、鍵となるプレートが分散されていたのは何故かなど、気になるポイントがいくつかあった。単純な話なのでディテールはしっかりしてもらいたい。
「創設者」が残した謎解きや仕掛けをあそこまでややこしい仕組みにしておく必要があるのか疑問だが、ギミックなどは楽しめた。マーティン・ランドー扮する配管工のじじいが散々、自分の受け持ちじゃないから知らないなどとうそぶいていて居眠りばかりしてたのに、とんでもない時にこれは俺の仕事だ!と張り切るところは泣けるし笑える。


2011-12-11 | comments(0) | 映画 | 観終わった (2011年12月11日) |



2003年大阪府立体育館でのダイナマイト関西。4500人の前での大喜利という前代未聞のイベント。吉本勢に加えて人力舎からおぎやはぎ小木とドランク塚地が参加。次課長河本とたむけんのスペシャルマッチは不要。2枚組で5時間超。府立出場権獲得トーナメント退会は一応先に見れるようにしておくべきではないか。


2010-08-01 | comments(0) | 演芸 | 観終わった (2010年08月01日) |

サイボーグ009 (16) (MFコミックス)

石ノ森 章太郎

コミック / メディアファクトリー / 2002-03-23 発売




2010-07-31 | comments(0) | 漫画 | 読み終わった

サイボーグ009 (15) (MFコミックス)

石ノ森 章太郎

コミック / メディアファクトリー / 2002-03-23 発売



「天使編」の後半と「神々との闘い編」。やっかいである。この辺りは厄介である。石森章太郎の石森章太郎らしさがフルスロットルなので、とっつきにくい。雪山に現れた原人たちに対峙する天使が登場する。原人たちをいっせいに眠らせ、忽然と姿を消してしまった。何事なのか。目撃したジョーは肝を抜かれたようになっている。仲間を招集して再び雪山を訪れると村人が何事もないと語る。実は天使たちが村人を原人にかえたり人間に戻したりしていた。地球は彼らの実験場であり、出来が悪く収穫がないので「ヤリナオスコトニシタ」と語る。世界中に現れる天使たちの円盤。何らかの迷い。迷走。絶対の力を持っている天使たちに立ち向かう術はない。滅ぼされると判っていても抵抗しない訳にはいかない。レジスタンスがはじまる・・・ところで終わっているのが「天使編」である。編末やコミックス化の際には「長いすさまじい戦い」の記録、これまでの全巻よりも長くなるが、しばらく休んで再開すると閉められている。
『COM』に連載された「神々との闘い編」は「天使編」の構想を改めて描き直したもの(wikipedia)だそうだが、よりいっそうの深みにはまっているようだ。『COM』という雑誌ゆえに自由にやらせすぎたのではないか。やはり宮崎駿をコントロールする鈴木敏夫が必要なのではなかったか。


2010-07-31 | comments(0) | 漫画 | 読み終わった |

サイボーグ009 (14) (MFコミックス)

石ノ森 章太郎

コミック / メディアファクトリー / 2002-02-23 発売



「海の底編」と「天使編」のプロローグ。原潜や漁船の行方不明事件が頻発する。調査に乗り出したジョーはブラックゴーストとおぼしき潜水艦に捕らわれる。しかし人類とは別の進化を遂げた魚竜(イクチオサウルス)の島と呼ばれる海底都市に住む人々に潜水艦ごと捕らわれてしまう。掌編。


2010-07-31 | comments(0) | 漫画 | 読み終わった |

サイボーグ009 (13) (MFコミックス)

石ノ森 章太郎

コミック / メディアファクトリー / 2002-02-23 発売



「移民編」後半と「ローレライの歌編」の全部。未来から過去への移民・・・。未来の世界は行き場を失った人々のディストピアであることが語られる。当時も今も未来に希望を持てないというのは悲しい気がする。途中から登場する指揮官の悲哀。「ローレライ」はゴシックホラーのような掌編。


2010-07-31 | comments(0) | 漫画 | 読み終わった |


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