楽しい事は正しい事なんだと教えてくれる、素敵な一冊。エロも本も音楽もファッションも、全ては人生を楽しくする為に存在するんだ。

困ったお姉さんの失恋ぐだまきかと思いきや、後半の「軽蔑と尊敬の間、いたわりと攻撃性の間」というフレーズが出てきて、ぐっと面白くなった。先生との関係。SMという関係。ドラッグ、セックス、アルコール、キューバ、先生。何をやっても救われない。

危険な匂いのするおじさんにホイホイついてったキャリアウーマン。性愛とか母性とか知的好奇心とかマゾヒズムとか、そういうあらゆる欲望に勝てなくて、ホイホイついてっちゃった。ついてったら、やっぱヤバかった。おじさん怖い人だった。

日々の労働や将来への不安だけでなく、性愛の自制さえも優しくいなしてくれる一冊。人間的であれ、文化的であれ、そう洗脳されてきた私たちが、今更「動物的に生きる」なんてことはできそうもない。しかし、幸福・道徳・健全を是とする現代社会を、これほどバッサリ切ってくれる文章は痛快この上なく、まさに快楽である。

人は人を救うことはできないが、人に救われることはできる。
セックスは女を救うか、壊すか。

前作同様、少年二人が事件の真相を怖いくらい凝視する話。見つめすぎた挙句、見なきゃ良いものまでうっかり直視しちゃって、二人して傷付いてしまう。傷心の二人が、不器用に痛みを隠す仕草が胸を打つ。

突如ある一家を襲う五億円遺贈事件。様々な情報や感情、人々の思惑が交錯する中にあって、少年達だけが遠くおぼろげに漂っている事件の真理を真っすぐ見つめている。

抑制がきいている文章である。過剰な情感や思考の暴走もなく、物語後半の山場さえあっさりしている。太っちゃんが最後まで守り通した秘密とは何だったのか。そんな当たり前の謎を煽る一文すら見当たらない。盛り上がりどころを掴めずに最後まで観てしまった映画のようで、なんとなくスッキリしない読後感である。

詩的である。詩とストーリーテリングのバランスが悪く、そこがこの本を大変読み辛くしている。おそらく翻訳の問題ではないだろうか。原文で読みたかった。

本書を読むのに想像力は必要無い。あくまでストーリテリングの面白さ、これ一本で最後の一行まで読者を引っ張って行く。身勝手な自分語りのつなぎ合わせが、ある不条理な悲劇の整合性を取っていく皮肉。

幼い愛の起伏と、二人を取り囲む島の自然がシンクロする刹那、また乖離する無常さ、そこに文学がある。二人の若い五感には、森羅万象全ての事象を、ドラマティックな性質のものに変換していく力がある。ただ、そんな力も遠く及ばないものが唯一つ存在する。不可侵の海。三島の海。

神の裁きも救いも忘れて生きている人々。腐敗している教会や司祭。そんな時代に絶望しながら生きる主人公の小説家は、遥かなる古きよき時代を想う。中世フランス。その時代には神秘主義や悪魔信仰があった。占星術、魔術、呪詛といった超自然的現象が起こった。人は神を敬い、時には恐れ、時には冒涜した。信仰心と背徳と倒錯が隣り合わせで存在していた。そんな時代が生んだ稀代の大量異常殺人者・ジル・ド・レイ。小説家は、ジルが見た神を、狂気を、快感を、神秘を、想像する。

後半はかなりのご都合主義。特に主人公の血統に関する設定は、必要無かったように思う。墓に施された装置や仕掛けが大掛かりになればなるほど、陳腐に感じてしまうのが残念だった。なにはともあれ、この作品を映画化したら大層な娯楽作品になるだろう。

インディ・ジョーンズ的な歴史浪漫謎解きエンターテーメント。頭が良くて身体能力にも優れている登場人物達が、キリスト教や聖書の薀蓄を垂れながら、銃撃戦を繰り広げたり、秘密の暗号を解読していったりする。飛行機の座席に付いている小さいモニターで洋画を流し見ている、あの感覚。しっかりエンターテイメント小説としての仕事をしている。

叔父の手記(日記?)に入ってからやっと面白くなる。作品を制作する上での苦悩、所謂「生みの苦しみ」も含めて、一つの小説に仕上たということなのだろう。私は、「生みの苦しみ」は作品の中では隠しきってこそ、作家だと思う。そういう意味では、前半はあまり気分の良い文章ではなかった。

事件の外殻だけを提供して、その内側を嫌らしい、残酷な想像で埋めていく過程は、なんという快感だろうか。知的探究心と性が結合したこの誘惑に、私は逆らうことができない。主人公は、この想像する快楽の道具として、多くの人の前に存在する。そのことに傷つき、絶望する一方、自らも想像の快楽に没頭していく。世間は被害者の少女を想像し、少女は加害者を想像し、加害者もやはり少女の想像に耽るのである。この終わりのない螺旋の先で、想像の先で、主人公が何を思って失踪に至るのか、私には検討もつかない。しかし、彼女の失踪の理由でさえも、私の想像を艶やかに育む事象でしかないのである。

学生時代、シスターから「一人一人の中に神はいます。沈黙の中で神の声に耳を傾けなさい。」と言われた言葉を思い出す。あの頃、毎朝礼拝をしていたけれど、私には結局一度も神の声は聞こえてこなかった。ただ、神の不在という存在感は圧倒的であった。神の存在を疑うこと、これこそが他の何よりも神の存在を証明しているように思えてならなかった。

感情を乗せ、血肉を吸い、歴史を背負った言葉が相手に届かないはずがない。そういう言語表現が、人を救ったり慰めたりしないわけがない。フィジカルな言葉の勝ち。そう思えるラストだった。

オオスズメバチの生態を物語として読ませてくれる、非常に親切な一冊。設定や演出が少々やり過ぎた感があっても、スズメバチの生き様が過度にドラマチックなので、後半はほとんど気にならなくなった。

少女性の一つの究極の形としての小説。美しいものしか目に入らない。あらゆる合理性、生産性、社会性から飛翔したところに、「美」は気だるく横たわっている。

食の快楽に酔う事を「是」としないキリスト教。西洋絵画の中の食物に付帯する宗教的意味あいを検証。つまらなくも無いが、面白くも無い。

言語化することで、漫画版よりクリアに見えるもの、ぼやけたもの、見えなくなってしまったものがある。
漫画を何百回と読んできたにも関わらず、このノベライズで新たに気づかされる事もあった。ただの漫画版のトレースではない、ちゃんと森博嗣氏が感じている「トーマの心臓」になっていて、それでいて原作を曲げていない。良い塩梅と言ってしまえば簡単だが、難しい作業だったと思う。
同じ萩尾信者としては、このような形で萩尾作品と関われる森博嗣氏を羨ましく思う。

神の名の下に行われている殺人の方が、圧倒的に多いと思いますが。作者の主張には同意しかねるが、読み物としてはとても面白い。

ツイートする