「観光客」と「家族」を繋ぐはずだった「書かれざる章」とは―東浩紀さん『ゲンロン0 観光客の哲学』ブクログ大賞受賞インタビュー前編

8月28日ついに発表された第5回ブクログ大賞7部門。その人文書部門を制したのは、東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』でした。あらためましておめでとうございます!

今回もブクログ大賞受賞にあたり取材依頼したところ快諾いただき、ゲンロン本社にて東浩紀さんの独占インタビューとなりました!前・中・後編三回にわたりインタビューをお届けします!
前編では、読んだ方は誰もが驚く「読みやすさ」の理由、また第1部「観光客の哲学」と第2部「家族の哲学」の間に本来あるべきだった「書かれざる章」(!)について語られています!

取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 大矢靖之 猿橋由佳

「語り下ろし」のスピードで書かれた「書き下ろし」

ゲンロン本社にて東浩紀さんからさまざまなお話をお伺いしました!

―このたびは『ゲンロン0 観光客の哲学』第5回ブクログ大賞受賞おめでとうございます。僕も刊行早々に拝読しまして、非常に感銘を受けました。

ありがとうございます。

―読んだ僕の率直な感想から始めさせていただくと、この本の「読みやすさ」に非常に驚いています。世の批評系の本の中でも随一といいますか、ここまで読みやすくてかつ内容が濃いのかと。もともと東さんの著作は非常に読みやすいという認識はあったんですけども、さらにアクセルを踏んで読みやすく、自覚がないとここまで「文体」を作れないだろうなと僕は思ったんですが、ここに至るまでにはいろいろな試行錯誤があったのか、それともワーッと一気呵成に書いたために「結果として読みやすかった」のか。どちらなんでしょうか?

はい、もちろん読みやすさは意識しましたが、どう答えればいいかな(笑)。これは前書きにも書いていますが、基本的に最初は「語り下ろし」で出そう(『ゲンロン0』p8参照)と企てていて、口語そのままの「です」「ます」調の原稿が最初に手元にあったんですよね。そこから文末を「だ」「である」の文章に組みなおす作業を行っています。

簡単に言うと、論旨の進んでいるスピードとしては「語り下ろし」のスピードなんですよ。対談とかインタビューのときは、話を端折ったり要約したりして簡単にしてしまうことが多いんで。つまり骨格としてはその対談、インタビューの形に近いわけですが、文末を「だ」「である」にすることによって、内容をよりクリアにしたというものになります。

ですので、僕が最初から「だ」「である」の文章を書いたとすると、もっと説明が細かくなると思うんですよね。だからこの速度感っていうのは、大雑把に言えばベースが「語り下ろし」から出ているからだと思います。ただ「語り下ろし」のそのものだと、やっぱりそんなにクリアにならないんですよ。だから「語り下ろし」を「書き下ろし」に書き換えたというのが、「読みやすい」速度感を出せたんだと思うんですよね。

―なるほど、「語り下ろし」の速度だから、ある種のグルーブ感があって一気に読めてしまうんですね。そしてそのままだと薄くなってしまう部分に「書き」が加わることで内容がクリアになって、ちゃんと重力が発生したかのような内容になったということですか。この「語り下ろし」版は2015年に出される予定だったんですよね。

そうです。ただ、自分で「語り下ろし」の原稿も見て、「これでは出せないな」と思っていたので、実際本当に出すつもりだったのかといえば、結局あのままでは出せなかったんだと思っていますけどね。当初は「語り下ろし」で一冊出すという計画ではあったんです。でも自分の原稿を見て「これで本にするにはしっくりいかないな」と思って、結構長い期間放置していたんですが、しょうがないから直す、となった段で、文末はやはり「だ」「である」にして、もっとクリアでもっと本格的な内容にせざるをえまいと思った、というわけですね。

―『思想地図β』と『ゲンロン』の隙間で出る予定のものだったと書かれていましたが、その「語り下ろし」の段階で、すでに今の『ゲンロン0 観光客の哲学』の骨格はすべて決まっていたのですか?

そうですね。骨格自体は2014年の夏くらいにほとんどの目次ができていたと思います。夏休みにフロリダのディズニーワールドにいったんですよ。その往復の飛行機の中で目次を作ったという記憶がありますね。その時に、ほとんどの構想はできていて、それに沿って「語り下ろし」をして、2015年には出す予定だったんですね。まあそれが延びてしまったということですよね。なのでその2014年の段階で、いろんなところで僕がしゃべったことを総合すればこのような構造になるな、ってのは自分の中で見えてきたんですよね。

―「観光」に関しても、『福島第一原発観光地化計画』(『思想地図β』vol.4-2)の頃から「観光」というキーワードが出てきましたよね。2013年11月になりますか。

そうですそうです。

―その後の2014年7月の『弱いつながり』(幻冬舎)が『ゲンロン0』のプロトタイプ的な感覚なんですかね。

はい。『弱いつながり』を書いたときも、福島だけ出してきていきなり「観光」とかいってるのもちょっと単なる思いつきみたいに思われるかなと思ったので、もう少し後ろに肉付けのあることを言わなければいけないと思ったんですね。

―なるほど。

指摘いただいた「読みやすさ」云々ということに関しては、おそらくもう一つ理由もあって、僕は大学の外に出ていて、いろんな人としゃべる機会が多いんですよ。生徒に教えるのだけではなくて、さまざまな仕事をしている人や、さまざまな年齢の人に会っているので、やっぱりアカデミズム側にいて本を書いている人とはかなり違うのではないかな、と思います。僕がベースとして想定している読者は、そういう人たちとは違うって感じがしますね。

なので今回の本は「学生」に向けて書いている、というつもりもあまりないんですよね。もう少しこう、なんて言うのかな。社会の中で実際に生きている、経験を積んでいる人が、自分の頭を少し柔軟にして、いつもと違うところで頭をほぐすために読む。そういう読者層を想定しているところがあります。だからそういうところが「読みやすい」といわれる要因なのかなと。

ただ、「読みやすい」といえば確かに、スーッと読めるんですが、よく読んでみるといろんなところで議論を補足しなきゃいけないところ、穴みたいなものがいくつも空いていて、僕にはその穴が見えています。ですから、スーッと読めるというのは、技術的に作っているという感じですね。僕としては論旨的に入れられなかった部分ってのはいっぱい残っています。

―なるほど。『ゲンロン0』の末尾で挙げられている参考文献の倍以上、もっと奥に書籍が控えているって感じはしていまして、確かに見えている箇所はわかりやすいのですけど、たぶん、これからの時代のひとつテーマセットになる本なんだろうな、ここからいろいろ派生していくのだろうな、ということを感じています。とくに「観光客」というキーワードは、さまざまな解釈の余地を残していて。例えば「大衆」とか「市民」とか、そう表現してしまうと違う重力に囚われるところを、一つのキーワードだけで違う文脈へとズルッと引きずり出したように思うんですね。そこで新たな議論の流れが生まれていくんじゃないかなと感じています。

ありがとうございます。

「郵便的マルチチュード」と呼んだものは「持続可能な原理」

―今話されていた部分で、今回の読者として想定しているのは、アカデミシャンでも学生でもないという点がとても面白いですね。もっとリアルに普通に働いている、生きている人たちに向けていると。

そうですそうです、一般公衆です。

―読んだ僕の印象論になってしまうんですけど、たとえばROMユーザー(※インターネット上のコミュニティにおいて自らは書き込みをせず、他のメンバーの書き込みを読むだけのユーザー)といいますか、「観光客」とは、例えばYoutubeでもニコ生でも「ユーチューバー」でも「ナマ主」になる人でもなく、ただ視聴しに来て、コメントも残すこともなく、PV・UUと「数」でカウントされるだけの人。だけれども少なからぬ影響を相互に受けていて、そういう世の中に圧倒的に数で存在する普通のインターネットユーザーというイメージをすごく感じました。

そのイメージ通りです。問題ありません。僕はこの本でもう少しアクチュアルに今の現実に対して言いたいこととしては、やはり僕たちの世界ってのはすごく二極化が激しいので、やっぱり「友」と「敵」が明確になりすぎていますよね。それは国際的にだけじゃなく国内でも、ヘイトデモがあって、そのカウンターデモがあって、最近でも北米でその二つのデモが衝突した痛ましい事件もありましたが、そういうふうに「友」と「敵」を分けることが政治的であると思われていると。そういう主張は、僕は非常に硬直した発想であまり生産的だと思わないんですね。

そういうことを改めて「原理」から説きたかった。つまり「『友』と『敵』を分けないで是々非々でやっていきたいんですよね」なんて発言しようものなら、「お前は政治が分かってない」って言われてしまう世の中で、「いやいやそれは政治の定義そのものが間違ってるんだ」とちゃんと説明したい。今、「政治とか社会について考える」際の枠組みそのものが貧しいんですよ。「貧しいからそう見えるんだ」ということを理論的に説きたかった。というのがこの論ですね。

―確かに「観光客の哲学」の章は、今の政治文脈ではない「政治」のあり方をもろもろ模索されていると思いました。変な例ですが、僕は国会前デモに参加してはいないんですが、近くに行ったんで物見遊山で観に行ったことがあるんですけど、そういう野次馬的な視点もまた一つの「観光客」と考えてもいいのでしょうか。

それでいいと思いますよ。というか人間のあらゆることに関して、多かれ少なかれ私たちは「野次馬」なのであって、「野次馬」であることを否定して、「参加するかしないかはっきりしろ」と問い詰めることをやると、結局どのような運動も、どのような行為も、非常に受け手が狭くなると思うので、そういう「狭さ」に対して、より広い視点を持ってもらいたいな、と思って書いたんです。

―「観光客」だと、そういう社会運動にならないものですよね。「観光客」が国会前を包囲しても「観光」になるだけですよね。その意味では安易な運動に結びつかせないためのキーワードだったのかなと。

僕はあんまり「運動」ってものが…「運動」自体を否定する気はないですが、やっぱり今はSNSを使って簡単にいろんな人が動員できる時代で、そしてまた人がすぐ忘れてしまう時代なので、単に「運動」すればいいとは思わないんですね。現実に日本においても3.11以降さまざまな動きがありましたが、結果的に持続はしていない、と思います。

つまり僕は「持続」するためにはどうしたらいいのかということも考えているんですね。この本の中では、あまり「持続」のテーマは出てこないのですが、僕が本の中で「郵便的マルチチュード」と呼んだものは、「否定神学的マルチチュード」にはありえない「持続可能な原理」として出したつもりなのですね。

それは第2部の「家族の哲学」というテーマと結びついているのですが、ただそこの結び目の部分は空白があって、あまり十分に展開できていないんですよ。

―第1部「観光客の哲学」の、その「郵便的マルチチュード」の部分でも、さまざまなパースペクティブを提示されていましたが、ここからまた発展していく形で終わっていたと思うのですけども、第2部「家族の哲学」のほうも、さまざまに広がりがありながら、そのすべては語り切らず「序章」として完結されたものと思います。これはつまり、第1部「観光客の哲学」=政治で、第2部「家族の哲学」=文学で、全体の構成としては「政治と文学」ということですよね。

そうです。

―第2部は、その「文学」で、「実存」といえば「実存」なんですけども、ある種の「テロリスト側の論理」に対してワクチン的なものを提示されていようとしているのかな、と思っているんですけども。

そうですね。その通りです。

―その政治領域における「観光客」と、文学領域における「家族」の間にも、十分に展開できていない空白があるとのことですが、「観光客の哲学」のほうでは、最後ある種のヒントとして持ち込んだのが、リチャード・ローティが提唱した「憐れみ」という振る舞いでした。

そうですね。本当はそのローティのあとに、かなり長い議論があるはずなんです。それはこの本で本当は書くべきだったことではあったんですが、「時間性」の問題だったんです。

「後からしか分からない」ということは「間違えることもある」ということ

―なるほど「時間性」ですか。

「時間性」とはどういうことかというと、本の中で「否定神学的マルチチュード」と呼んだ連帯の形式を僕がなぜ否定しているのかといえば、それは「今ここで連帯を確認する」という行為だからなんですね。例えば「愛」とか「正義」とかいうことを考えるとき、「今ここに『愛』がある」とか、「今ここに『正義』がある」ということが果たして言えるのか?という僕の疑問があるからです。

例えば「私は君を愛している」とか「君は私を愛している」とかって人は確認するだろうか。仮にしたとして、それは「愛」なのか?っていうことですね。僕はむしろ「愛」、もしくは「正義」というものこそそうだと思うのですが、それらは「後から振り返ってからしか存在しないもの」だと思うわけですよ。「今、僕たちは『愛』をやっているよね?」「今、僕たちは『正義』をやっているよね?」っていうことは言えず、これは「後から振り返ってみれば、我々は『愛』し合っていたのである」「後から振り返れば我々は『正義』をやっていたのではないか」という形式でしか存在しえないのではないかと、思います。

そういうある種「後から振り返る」という「時間」を作るっていうことが重要で「今この瞬間を俺たちは連帯しているんだ」という強迫観念的な「つながり」というのは、そういう「時間性」を壊してしまう。

「後から振り返る」ということでもう一つ重要なことは「人は間違うこともある」ということです。どういうことかというと、「今この瞬間、愛し合ってる」というときでも、後から振り返れば「愛し合っていなかった」ということもある。またその逆もある、ということです。つまり「今この瞬間正しい」ことをしていたと思っていても、あとから振り返ればまったく違うかもしれないし、そう自覚していなくても「後から振り返れば正しい行為だった」かもしれない。

そういうことがあるわけです。そういうものに対して開かれる感性でないと、本当の意味で人々は繋がることができないんだよ、ということが僕の言いたいことなんですね。

ローティの話のあと、実はそういう議論が続くはずだったんです。その議論があって「家族」の議論につながるわけですね。それが実はこの本の一番欠けているところです。第1部「観光客の哲学」と、第2部「家族の哲学」っていうのが飛躍しているように見えるのは、それは錯覚でもなんでもなくて、あるべき章がないんです。「時間性」に関する章がない。で、これは単純に間に合ってない、ってことです。

―なるほど。

実はだからあそこの部分は繋がっているんです。「観光客」の話と「家族」の話、飛んでいるように見える。これはよく質問されるんですが、本当は繋がっているんです。それはその「郵便的」であるってことは「間違う」ということなんです。「間違う」ということが、どういうものかというと「本当に重要なものは事後的にしか発見できない」ということです。

たとえば「法」と「正義」。正しいことっていうのは「法」と「正義」の二つがあるわけですが、今「法」に従っているかということは、今この瞬間確認はできる。「法」とは有限の規則に従っているものです。しかし「正義」というのは、その定義上、「法」から逸脱することもあるんですね。したがって、今やっていることが「正義」なのか、単なる「違法行為」なのかということは後からしか分からない。「後からしか分からない」ということは「間違えることもある」ということですね。

でも「この後からしか分からない」というものに、投企(とうき)していかないと、人は実は「正義」を実行できない。「いま正しいことをやっている」という確信できることだけをやるのであれば、それは現状肯定にしかならない。新しいことはできない。ものを生み出すってことはできないんですね。

最後、「親」としてというテーマがずっと出てきますが、「親」であるってことは「未来の不確定性に賭ける」という意味で使っているということなんですね。

ですから結局、「郵便的」というテーマと、第2部の「家族的」もしくは「親的」というのは、実は一直線に繋がっているテーマです。そこで僕が言いたいテーマは、一言で言い切ってしまえば、「今この瞬間正しいか正しくないか」ではなくて、「未来から見て正しいか正しくないかを考えて行動するべきだ」ということですね。

しかしそれは「原理的に間違えることがある」ので、その「間違える可能性」を引き受けなければいけないと。引き受けなければ常に、今この瞬間の正しさだけを気にするようになると。

非常に哲学的な言い方をしていますが、きわめて具体的な話でもあって、結局SNSが発達して、ユーザーが相互に監視して非常に小さな揚げ足取りをしあうような時代になっている今、人々は「今この瞬間、自分が人に責められないだろうか」とか「今この瞬間、人々に好かれるであろうか」ってことばかり気にして行動するようになっているんですね。

そういう瞬間だけの時間っていうのは、どんどんどんどん過ぎ去ってしまう。たとえば政治運動があったとしても「今この瞬間これをやるのが正しいんだ」と思ったらバーッとデモに集まるんだけども、数ヶ月したら忘れてしまうんですね。そういうような時間、そういうリズムでの行動はやめるべきである。と、いう呼びかけでもあります。

ですから、これは非常に哲学的な問題であると同時に、僕はきわめて具体的な問題であると思っています。

―今ですとポリコレ(※ポリティカル・コレクトネス「政治的に正しい言動、振る舞い」)的な振る舞いも、あからさまに未来から考えるのではなく今を…

そうです。定義的に、「今の基準に照らして正しいか正しくないか」ですから、今この瞬間のコレクトネス(正しさ)です。そこには「正しいか正しくないか分からない未来へ行動する」というモチーフはもうないんですね。いつの間にか、倫理や道徳というのはそういうものになってしまったので、僕はそれがとても嘆かわしいことだと思います。

―なるほど。今の時代「社会的に正解」や「社会的に安全」があるものと多くの人が信じていて、そう振る舞わないでいることを極度に恐れている傾向がありますよね。

人が「リスクをとる、とらない」という話は、僕はとてもビジネス的な話だと思っているんです。それこそネオリベ(※ネオリベラリズム「新自由主義」)とかベンチャー経営者みたいな話になってしまうのですが、僕は「リスクをとる」ってことはすごく大事なことだと思っています。でも、リスクって言葉で語られると、いかにも計算できるように見えるんですが、リスクって計算できないんですよ。ただ単に「未来に向けて何かをやる」ってことなんですよね。簡単に言うと。それは当たり前ですが「失敗する可能性もある」ってことなんです。

たとえば今は結婚しないとか子ども持たないって話もいっぱいあるんですが、それは結婚したり子どもを持ったりして「幸せ」になる保障があるかといえば、ないに決まっているんです。そんなことを誰も保障なんてできないんです。またその経済的な利益で考えたところで、子どもを持ったほうが経済的な利益は出るなんて計算が成り立つわけがない。

「じゃあ結婚しない、子どもを産まないでいいじゃないか」と言われるならば、僕はそう思う方はしなくていいと思います。実際そういう考え方であれば、子どもを持つ、持たないとか考える以前に、ほとんど何もできない。率直に言って、もう生きていくこと自体がむずかしいと思います。すべてがリスクだということになります。

こういう話を突き詰めていくと、人間は合理的に動いているようでいて、そういうところの罠にただ嵌っていってるだけではないかと思います。僕のこの本では「人間っていうのは合理的と非合理的な部分があって、それを二つ混ぜ合わせ、区別できないからこそ人間なんだ」ということをテーマとしています。合理的でしっかりした人間というものが人間のあるべき姿ではない。それだけを追求すると、人間は非常に窮屈な世界を作ってしまうんです。人間はもっと間違えるもので、いい加減なもので、その間違えたりいい加減だったりする部分が、人間の「人間性」を支えているんだと。というのが僕の重要な議論です。

だから「観光客の哲学」も、間違えるし、いい加減な存在だからこそ「公共性」を作るんだ、というのが僕の考えですね。それは僕の哲学全体の構造がそうなっています。つまり、人間ってのが、間違えなかったり、しっかりした大人になったりすることで、人間が人間になるのではなくて、子どもっぽさを持っているからこそ人間になれるんだ、って構造です。


この続きはインタビュー中編で!第2部「家族の哲学」について掘り下げたお話をお伺いしました。『ゲンロン0』が大きな「間違い」だった?!衝撃的事実(?)が!乞うご期待!

ゲンロン0 観光客の哲学

著者 : 東浩紀

株式会社ゲンロン

発売日 : 2017年4月8日

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