本書は、国家が統治を進める過程における「単純化ないし画一化」という作業がもたらす影響について論じたものである。スコットと言えば農村において農民が経済合理的ではなく倫理的規範に乗っ取って生活していることを主張した”Moral Economy Peasant”[Scott, 1977]が有名である。本書では、対象を農民からよりマクロな視点、すなわち国家に焦点を当て、「なぜ国家の統治政策は成功しないのか」という疑問に答えるものとなっている。
本書の最重要概念は、上記で述べた「単純化ないし画一化」であり、文中ではsimplificationという語で登場する。これは、管理者が対象を管理またはコントロールしやすくするために、対象が持つ多様性を無視し、「画一化された一単位」として可視化することである。本書では、国家がこの概念を用いる主体として扱われている。すなわち、様々に分裂し、個としての多様性を持った国民をsimplificationすることで一単位として扱い、国家による統治を容易にするということである。国家がsimplificationを行う方法は様々に考えられるが、本書では主に絶対的な力としての法律や戸籍制度としてそれを述べている。
このようなsimplificationは国家にとって様々なメリットがあると考えられる。一つは管理にかかるコストの削減である。国家内に様々な「個」が存在している状態では、その対象ごとに管理の方法を微妙に修正する必要があるため、行政にかかるコストは割高になる。一方で、法律や国家による公式的な規則によって、ある共通項でまとめられた国民を「一単位」として扱うことで、国家が国民の管理にかかるコストを大幅に削減することができるだろう。また、政府歳入の増加という点も見逃せない。国民が何らかのタグ付けがされていない「個」の状態である限り、国家は「徴税」によって効率的に歳入を増加させることができない。無数に存在している「個」はそれぞれ生活環境がバラバラであるために、国家による公式的なルールをそれぞれの「個」に当てはめることが困難だからである。そこで国家が国民に対してsimplificationを用いて「一単位」とすることで初めて徴税の対象が生まれ、このシステムを活用することができるのである。以上のように考えると、国家が国内統治を強める過程におけるsimplificationの必然性が理解できる。
このように、simplificationは国家にとって様々なメリットをもたらすものとして捉えられる。しかし、スコットが主張しているのはそのようなポジティブな部分ではなく、simplificationによるネガティブな部分である。このネガティブな部分とは、多様性を持った「個」が持つローカル性に関連づけられるものである。すなわち、本来は「個」はそれぞれ異なった価値観や技術、文化などを有しているにも関わらず、国家によるsimplificationによって画一的に扱われることで、それらが本来持っているローカル性が喪失してしまう。この状況が過度に進展していけば、いずれは国家と画一化された国民との間の乖離が肥大化し、そのギャップが何らかの問題をもたらすだろう。スコットは「個」が持つローカル性をmetisとして表現し、これが社会を構成する重要な要素として述べている。スコットは、このmetisの喪失によって国家の政策が失敗することの危険性を本書で指摘しているのである。本書におけるスコットの主張は、このようなsimplificationの概念を明確化し、国家と国民という二つを、法律などのルールや規範に基づく関係性からさらに深化させたものとして興味深いものである。
このsimplificationの概念は、実生活並びに歴史上の様々な事象においても用いることができよう。例えば、東南アジアにおける国民国家の形成過程が挙げられる。かつて19世紀初頭の東南アジア諸国において、現在使われている●●人といった呼称は用いられていなかった。当時の東南アジア諸国は王の力を中心とした不明確な範囲によって区切られており、現在の国境線が示すように具体的な範囲を持つものではなかった。王国を統治する王の力が弱くなればこの範囲は相対的に矮小化し、逆もしかりだったのである。この世界において国家と民族的なカテゴリーは存在しない。当時の東南アジアでは●●人という呼称は単に文化的なものを示す言葉であり、現在のように運命的・先天的なものではなかったのである。しかし、このシステムはヨーロッパ諸国の植民地化によって激変することになる。まず植民地化によって王国は廃止された。このため、東南アジアという地域に具体的な国境線を持った国々が誕生していく。そして、そのように具体的な国境線によって区切られた内部に対しても、ヨーロッパ諸国は制度変革を行っていく。それはすなわち、民族的カテゴリーの形成であった。ヨーロッパ諸国は植民地統治をより容易にするために、植民地が内包していた多様性を民族的カテゴリーの形成というsimplificationによって管理したのである。これが、東南アジアにおける近代国家形成の始まりであった。
スコットによればこのようにmetisが喪失した状態では、何らかのギャップが問題を引き起こすという。欧米諸国によって植民地化された状態が近代国家の始まりになった東南アジアでは、それがナショナリズムのズレとして顕在化してくる。独立後の東南アジア諸国において、達成されるべき直近の課題は強力な近代国民国家の建設であった。ここで「国民国家」とあえて記述することはすなわち、国家を支える国民によるナショナリズムの昂揚が不可欠であることを意味する。だが、独立後の東南アジア諸国が内包していたものは、植民地時代の遺産にすぎなかった。すなわち、それは旧宗主国によって上から人為的にsimplificationされた民族的カテゴリーであり、東南アジア諸国が必要とした国民国家を支えるナショナリズムを持ったものではなかった。つまり、旧宗主国によるsimplificationは、独立当初の東南アジアという国家と、人為的に可視化された民族的カテゴリーとの間にギャップを作り出したのであった。このように考えると、1980年代から東南アジア諸国で見られた開発独裁体制は、そのギャップを埋め、強力な近代国民国家を建設するために必然的に誕生したとも考えられるだろう。
以上のような性格を持った本書は、国家と国民の関係を再定義するものであり、ある程度はsimplificationの概念に疑問は残るものの、開発研究をする者にとっての必読書であるといえるだろう。経済学的アプローチによる開発経済学は、モデル化の過程での抽象性の高さから対象となる貧困層のmetisを無視しがちである。実際、これが原因で頓挫した開発プロジェクトも少なくないだろう。スコットが主張する多様性への配慮といった点は、開発研究において、対象となる貧困層が置かれた状態を正しく認識するためにも必要であると私は考える。