- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000002110
感想・レビュー・書評
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1992~93年、イタリアの作家ウンベルト・エーコは、米国ハーバード大学で、通称ノートン・レクチャーズを行った。1920年代から続くノートン・レクチャーズは、詩人のT・Sエリオットやボルヘス、オクタビオ・パスやストラビンスキーといった、世界で活躍している詩人や音楽家あるいは小説家や批評家などを招いておこなわれる、詩的コミュニケーション形式の講義。
本書はその講義録で、テクスト(本)を広大な「森」とみたて、そこを楽しく散策してみよう、というもの。とりわけ物語に流れる「時間」という概念を深く考察しているところは素晴らしい。
もちろん私の頭では、彼らの講義録を一度読んだだけで理解できるわけがないので――というか何回読んでも理解できない、いわゆる噛むほど味が出るスルメのような本――好きな作家や詩人の作品を再読したり、ほかの本を読んでいる際にふと繋がりができたとき、何度も触れてみる。その講義をする作家や詩人たちに会いたくなるのだ。書架に手をのばせば、いつでも知的好奇心を刺激してくれる最高の講義を受けることができる、嬉しくてしかたない。
エーコによると、テクストの時間とは、
①物語の時間
②言説の時間
③読書の時間
がある。①と②は、映画の場面(=シーン)では一致するものの、テクストでは必ずしも一致しない。1ページで1000年すぎることもあれば、1日が30ページになる場合もある。
③は、たとえば膨大な描写や緻密な細部が情景描写というよりも、読書の時間を遅くさせ、作者がテクストの享受に必要である、というリズムを読者につかませようとしている場合がある、というわけだ。
たしかにトロヤ戦争に出征し、故国イタケに戻るまでのオデッセウスの20年は瞬く間、過ぎ去った時間と記憶は運命の糸車のようにからから回る。かと思えば、冒頭から眠れない男の夢うつつに何ページも費やす……これからはじまる長大な夢想を想わせる『失われた時を求めて』。いつまでも続く美しいコモ湖の情景、湖面をわたる冷たい風はなぜか剣呑で、しだいに不安は募っていき、故国への愛惜と物語の波乱を予感させる『いいなづけ』……なるほどエーコの言説はとても明快。
読むのに妙に疲れたり、多大なエネルギーを使うテクストは、①と②が忙しすぎて頭がついていかず、息抜きやリズム調整のための③が不親切なのかもしれない。そうかといって、終始、膨大で細かい情報、すべての登場人物の顔立ちから服装の逐一まで描写されるのは、うんざりする。
この点、目が覚めるとベッドの上で奇怪な虫になっているグレゴール・ザムザ、①と②はあまりにも破天荒で、雷に打たれたような読み手は呆然となってしまう、カフカの『変身』。
でもそのあとは、妙にゆっくりとグロテスクな虫の描写がある……どこかで見たことのある虫の腹や足、緻密な細部の描写が気持ち悪いけれど、なぜか冒頭の衝撃を和らげ鎮静化させていくのは、一体どういうことなのか? しかも滅入る虫の腹からザムザの毛布がずり落ちそうになっている。とんだ災難に見舞われたザムザに溜息さえ漏れてくる。でも巨大な虫の腹に毛布がかかっている滑稽な図に、しだいに笑いが萌してくるのだ。
そう、神は細部に宿る。細かい部分までこだわり抜くことで完成度が高まるわけだが、あくまでもその細部とは、限局された部分のそれではない。作品全体のバランスやリズム、そして美しい空(虚)を含めた時空間の創出、そうしたきめ細やかさにこそ神が宿るのだろう。
「森は散策の場所です。……のんびりするというのは時間を無駄にすることではありません。なにか決定を下す前には、しばらく立ち止まって、よく考えてみるものです」
こうした時間とリズムの考察については、カルヴィーノやミラン・クンデラも再三、言及しているは興味深い。それを意識しながらテクストをながめてみるだけでも、なんだか読書が違うものになったような気分――こんな他愛のない勘違いも、わたしの人生には必要だわ~♪
さて、道草は決して無駄ではないことはわかった、問題はたんなる埋め草のような描写はどうやって見分けるのか? 読者の力量が試されるのだろうが、さらにうわての作家は、こりゃ埋め草だ~と思って読み飛ばしている読者を見据えながら余裕で書いているように思える、そう、エーコ、プルースト……(笑)。でも彼らくらいになると、単なる埋め草的な叙述はそうないことに気づく。というのも、飛ばしたつもりでいてもなにもなかったように繋がるのだから。だからわたしは、こういった作家のそれは、埋め草とはいわず、磁場の緊張を和らげる緩衝地帯と呼んでいる(笑)。そしてあくまでもこの緩衝地帯は必要だ。そうしないとボルテージが上がりすぎて――焼け焦げてしまう(笑)
森の散策は作者と読者の共同作業でありながら、ある種の知的攻防戦が繰り広げられる磁場のようなところでもあると思う。一筋縄ではいかない深遠な森だからこそ、そこに笑いや遊びや哀しみがあり、ときには転んで膝をすりむくこともあるけれど、澄んだ空気を吸いながらいろいろな散策をしてみる愉しみがあるのだ。(2020/3/30)
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「本の読み方を学ぶには、どんなに時間と労力がかかるかを知らない。
私はそのために80年を費やした。
そして、まだ今でも目的に到達しているとはいえない」――ゲーテ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2009/7/5図書館にて借りる
2009/
p123
パリはペレックやエーコの小説が描いているより、はるかに複雑な空間なのです。ところが物語世界を散策することは、子どもにとっての遊びと同じ機能を担っています。子どもたちは、人形やおもちゃの木馬や凧を使って遊びながら、物理の法則や、いちかは真剣に取り組まざるを得ない行動といったものになじんでいくものです。同様に、物語を読むことも、遊びなのです。この遊びを通して、過去・現在・未来にまたがる現実世界の無限の事象に意味を与えることを学ぶのです。小説を読むことによって、わたしたちは、現実世界について何か真実を言おうとするときに感じる不安から逃れるのです。
これが物語の治癒機能であり、人類が原始以来、物語を作り続けてきた理由なのです。それはまた、神話の持つ最高機能、すなわち混沌とした経験にかたちをあたえる機能でもあるのです。
p202,203
さてわたしたちは、小説が現実の人生を侵蝕することによって、歴史がどのような影響を蒙るかを見てきたわけですが、それではこうした現象にわたしたちはどのように対処するべきなのでしょうか?このわたしたちのささやかな小説の森散策が、私たちの時代がかかえる深刻な悲劇の代償になるなどと考えていただきたくはありません。とはいいながら、わたしたちは、小説の森を散策したおかげで、小説という虚構が現実の人生を侵食するメカニズムを理解することができるのです。その結果が、ときには、ベイカー・ストリート巡礼といった愉快で罪のないものだったりもするわけです。ですが時として、現実の人生を、夢ではなく、悪夢へと変貌させてしまうこともありうるのです。こうして読者と物語、虚構と現実との複雑な関係を考察することは、怪物を産み出してしまうような理性の眠りに対する治療の一形式となりうるのです。