- 本 ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000002158
感想・レビュー・書評
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映画史への招待
「映画にとって歴史とは何か。本書は名作や監督中心の歴史でも、技法や思想の変遷をたどる映画史でもない。そうした規制の枠組みを取り払ったところに浮かび上がる映画と言う体験の豊かさを、現在の中で繰り返し発見し、重層的な視点から映画の100余年に向き合っていく。映画を愛するすべての人に必携の書。」
読みづらい。タイトル通り映画史への「招待」だった。
いろいろ教えてくれてありがとね。
目次
Ⅰ 映画史への提言
1 南インドの教え
アドゥール・ゴーパーラクリシュナン
2 映画史を教える
『犬・星・人』
「わたしが試みたのは、学生たちの個人的な映画理解能力をめぐるテストなどではない。そうではなく、彼らに、自分たちが「映画」という言葉のもとに考えているフィルムの範疇がどれほど狭いものであるかを知ってもらいたかったのである。その範疇が文化と政治によって見えない形でイデオロギー的に操作されたものでしかないという事実を、理解させたいというのが、わたしの目論見であった。」
3 歴史と映画
4 国家という単位
「第三に、ひとりの監督がフィルムを撮るとして、それが純粋にある国民文化にのみ由来しているという場合など、どこにもありえないということを考慮しなければならない。」
・バーチの『よそにては』という本らしい
「また後者は、マルクスの説くアジア的生産様式を唯一免れえた国としての日本を特権的対象とし、複数の文字表記の使用や枕言葉といった独自の文学的修辞学をもった国に生まれた日本映画が、戦前から戦中にかけて独自の完成度に到達したものの、戦後にハリウッド映画の洪水に影響されたことで、日本映画としての核を希薄化させたという結論に達している。いずれもがそれなりに独自の探求であるが、こうした試みは一歩誤ると、永遠のドイツ的なるものや不巧の日本的なるものをプラトン的に提示し顕彰してしまう結果に陥りかねない。」
5 時代の設定
「映画は一八九九年に 『夢判断』のフロイトによって暗示され、一九〇七年にベルグソンによって、人間の知覚の方法の原理であるとまで論じられた。一九一〇年代のどこかでレーニンによって、それは教会よりも偉大であると賞賛され、一九三六年にはヒトラーによって絶賛された。それを伝え聞いたスターリンもまた映画の意義を称え、自分の肖像映画の制作に励んだ。映画は一九五一年には毛沢東によって政治闘争の試金石とされ、一九六六年にはその妻江青によって毒草扱いされた。」
「サイレントとトーキーとは、映画史において時間の順番に現われた段階などではなく、映画の両極にあるふたつのジャンルの謂であり、それらは互いに衝突しあうことによってみずからのジャンルの意識を新たなものとしてきたのである。」
6 複数の層と水準
Ⅱ 映画史はいかにして可能か
1 複数の歴史
2 サイレントの継承者
3 夢のスクリーン
4 ファシズムの魅惑
5 誰がパゾリーニを畏れるか?
6 音声とはなにか?
「では、吹き替えは悪いことばかりかというと、そうとも限らない。わずか数秒のあいだにかろうじて二行あまりの文字を提示するだけの字幕の方式では、そこに詰め込む情報量はひどく限定されている。登場人物の微妙な陰影をもった科白は、短く要約され、簡略化されてしまい、かろうじてその概要を摑むことしかできない。吹き替えだと、翻訳が正確に行なわれている場合には、もとの科白とほとんど同じだけの科白を声優に喋らせることができる。ゴダールの六〇年代後半の作品のように、登場人物がひっきりなしに議論を続け、いくつもの声が同一画面上に重なりあって登場する場合、吹き替えこそがもっとも賢明な手段であるといえるだろう。加えて、映画が映像と音声の結合であるという、そもそもの定義に立ち止まるならば、字幕で外国映画を鑑賞している人間は、映画を体験しているのではなく、実は映像と文字言語の結合、すなわち漫画を体験しているだけだという結論になる。」
「にもかかわらず、映画における音楽の問題はそれほど真剣に考えられてきたわけではない。音楽の分野では、映画音楽は一般の音楽作品に比べ自立性を欠いた、映像の添え物であるかのように、考えられてきた。映画監督は、音楽など、映画を撮り終った後で、自分の好みに合わせてなんとでも都合のつくものだと高を括っているむきがあるし、音楽家は音楽家で、映画音楽など生活のために職人芸を披露するだけで、本来の芸術家としての仕事ではないという偏見が、いまだに存在している。要するに、映像にどこまでも従属し、映画が物語を語るさいにもっとも効果を上げるかたちで装飾的に用いられれば、それにまさるものはないというのが、映画音楽に与えられている通念のようだ。こうした通念に逆らって、音声と映像を本質的に対決させようとした実験としては、エイゼンシュタインとリムスキー=コルサコフによる 『アレクサンドル・ネフスキー』(一九三八)と、小林正樹と武満徹による 『怪談』などがあげられる。前者はショットと音符の連なりを対応させ、そこにモンタージュ理論を適用せんとする試みであり、後者はまったく独立した秩序をもった音響と沈黙(間)が、映像以上に強い説話上の喚起力をもちえた、優れた例であったといえる。」
7 日本映画と弁士
8 映画と恐怖
「こうした時代には、映像が表象する恐怖はこれまでとは別のかたちをとらざるをえなくなる。今日流行しているスプラッタームーヴィがなぜにかくも血なまぐさい映像をこれでもかといわんばかりに登場させるのか、というのは興味深い問題である。それは現代の社会でもっとも忌避され、人目に付かぬように排除されているのが、ほかならぬ屍体であり、死であるためだ。その意味でスプラッタームーヴィは、ポルノグラフィーの隣に控えているジャンルだともいえる。それは死こそが今日最大のポルノグラフィー的対象であるという事実を、こっそりと(しかも公然と)物語っている。」
9 オペラから映画へ
10 歌舞伎と映画
11 メロドラマのすばらしさ
「第二に興味深いのは、ほかの多くの映画のジャンルがほとんどの場合、女性を男性の欲望の対象としてしか描いていないのに対して、メロドラマは女性を主人公とし、物語を語るうえでもっとも重要な主体としていることである。その意味で、いたるところに氾濫しているように思えながら、メロドラマはきわめて特殊なジャンルであるということもできる。」
12 観ることの歴史
Ⅲ 映画はいかに語られてきたか
1 引用1895-1998
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「映画」、というもの、映画史や映画を論ずるということの範囲をできる限り拡げて考えて見る。時には、そのような姿勢で映画を楽しむための一冊です。
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ハリウッド主体の映画史ではなく全世界的に俯瞰していて良かった。巻末の映画用語集もなかなかありそうで無いもので役に立つし、もう少し詳しくてもいいかと思った。後もう一つの一言に関しては、なんか今ひとつ。
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映画の後ろ側にある、普段当たり前に、何の考えもなしに受容しているものはどこから来たのか、を考えるようになる。
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