神の痕跡: ハイデガーとレヴィナス

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000003285

感想・レビュー・書評

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  • レヴィナスの整理に。非常に良かった。

    以下引用

    私の外にあるものは私のためにあるという自己同一性の貫徹がエゴイズム。自己同一性の立場にある人は異質の存在によってその自己同一性を破られることを欲しない
    →まさにイタリア医療人類学のアイデンティティの問題と同じだ。

    未だ知られていない約束の地を目指して祖国を永久に棄てる、このような行為は忍耐のうちでのみ可能


    全体性とは自己中心性。力への意志はすべてのものを自己のために自己のまわりに全体化することにより、自己を肯定しようとする。

    無限は全体性とは次元を異なるにしており、別の根源から発し、そしてまさぬ全体性の破壊を前提とする

    真の無限は、全体性の円環破裂させる出来事のうちに姿を現す。それは自我論的内面性の閉じた宇宙の中への一つの侵入。この独自の出来事、全体性との関連で言えば、根本的に新しい出来事は、顔の顕現という絶対的な経験のうちに出現する。すなわち他者が顔として裸の姿で現れるという経験

    顔の顕現は、意味連関の中に収まらない意味の出現、謎の出現

    他者の顔は、それ自体がすでに問いかけとして、あるいは裁きとして出現している

    現在に定位するということは、過去、未来を、現在に関連づけて了解しようとする姿勢。現在とは切り離された過去そのものあるいは未来そのものに実在性を認めまいとする態度と言える。認識する主体との同時性を存在の特徴となし、これんj対して過去と未来を本来的に特徴づける非現前を非存在として排除し、その故に、現在とは不連続の無限の時間さらには無限を視野から見失うのである


    →現在見えているものから、過去や未来を想定して、その延長線上に生きることを定着させようとするということ

    目に見えない神は、主観、客観という相関関係のうちで対極化されうるはずがない

    われわれの通常の時間は、現在を溢れ出たものが記憶と希望を通してこの現在へと環流してくる時間だが、こういう時間とは異なった時間が「かなたの時間」、かなたの痕跡。

    主体を恐れさせる、しかし同時に超越に水路をつける、ディアクロニーが成立する
    ☜断絶的時間ということかな

    現在と親族関係をもたない時間語る時、それが通常の意味での過去や未来でないことは明らか。通常の意味での過去や未来は、記憶、想いで、証拠、記録、地層、、、希望、期待、夢、予測、でありすべて現在の私の認識と連関を持っている。
    →レヴィナスの言う時間は、思い出せない時間、証拠を確かめようのない出来事の既在、まったく想像することも予測することもできない出来事の到来、考えようのなj未来を言う。それが時間の不連続性であり、ディアクロニー=隔時性
    ☞★この意味では、あわ居は同時性に依拠した時間の連関を打ち破るような、断絶的時間それ自体を体感する場所であり、それは他なるものの到来を意味するのかなと。それまでの自己同一性、認識において射程に入っていない、不意の未知の未来や過去を、それが何かを認識できないままに到来させるための場所。同に回収できない他がそれ自体として到来する場所。


    現象を切り裂きながら深みの次元から到来する言われる他者のこの深みを、物自体の世界のように考えてはならない。現象と物自体との間には、指示するものと指示されるものとの関係が、つまり同時性の関係が存立している。そこでは深みはない。

    関係する両項の間に同時性を作り出さず、むしろ深みをうがつ関係とは、それ故、取り返しのつかない、思い出すことのできない表象することのできない過去と関係することdrなければならない

    顔の裸形はこの世の秩序を中断する。

    謎においては、己をほのめかした意味は、そのほのめかしにおいてすでに己を消している。語った神は、なにも語らなかった。匿名のうちに過ぎ去ったのだから。迫害され、誤解されるためにだけにしか姿を現さない神。あるいはむしろ迫害される程度に応じてしか姿を現さない神。

    神は他者の顔を通して、途方もない過去の痕跡としてだれ思い思い出せない、見たいことも聞いたこともない過去の痕跡として、かすかに現れるか現れないか

    レヴィナスいう主観性は、外部を自己に取り込むのではなく、自己を外に注ぎ出す働き、自己の死のかなたにうつりゆくような働き


    ★謎は現象をかき乱す意味の介入。その意味は、もしわれわれが遠ざかるこの意味の足音に耳を傾けないならば、望まれざる異邦人として直ちに身を引くように身構えている意味である。このような謎が、超越、換言すれば他者としての他者の近みにほかならない

    現象、すなわち溢れる光の中での出現は、全体性としての内在

    ★謎は有限な認識を超えるのではなく、端的に認識を超えるのである

    その現象は、光によって主体と同時的になり、その深奥の秘密に至るまでおのれを主体に露呈した事物をすべて統合し、これらに秩序を与えて、存在者の存在を展開する。ところが謎の意味はそれを概念的に発見し把握できるような領域をもたない。謎が意味する様式は開示でもなければ、隠蔽でもない。開示か隠蔽かという認識の、換言すれば、かれ。

    記憶にとってとりかえしがつかないのは、無限がはなはだ遠いからではなく、それが現在と共約できないから

    ディアクロニー=隔時性は、主体と相関関係に入った有限者、同時性、それの連結関係に入ることの拒否。全体化されえないこと。まさにこの意味において、無限であることの様式。全体化が不可能ということ。

    ★乱れは何者かの介入によってしか起こり得ない。それ故に、たしかに我々見知らぬ者が来たのである。しかしかれは到着した以前に立ち去った。すなわち、その現れにおいて切り離されていた。


    ★他者の通過は決して現在とはならなかった

    無限は同化不可能な他性。自らを示し、自らに注意し、自らを象徴し、理解自己とを同時化するすべてのものに対して無限は、絶対的な過去、切り離された通過である。それはあらゆる自己満足を放棄した善意の中への引き退きである。

    無限は、とりかえしのつかない過去として、想い出すことのできない過去。他者の顔のうちにほのめかしの様式で己を暗示する。

    ★★私はここにいますと発言することが、無限の証言。私はあなたの御用のたつためにここにいますと相手に語ること。この証言は、認識に基礎をもつものではない。レヴィナス語ろうとする証言は一つの啓示。この啓示は認識内容としてはなにごとも与えない。この発言によって無限の栄光が己を輝かす。この証言が、まさに無限を証示する言葉として、無限を出現せしめるにのである。己を無に至らしめる倫理的行為が、無限の栄光を証人として支えている。

    ★★神の命令は、だれも命令を発する者が存在しなかったんkごとくに、己の内部からやってくる。それは私の口を通して私自身に命ずることにより、私のこの語りの中で己を現す。レヴィナスに神は私の口を通して、私自身に命ずるのである。それは私の内面的な行為そのもの。私の中に超越が入り込み、私の内面の声となって己を現す。この私の声、他者の顔への応答がなければ、神は痕跡も残さずに立ち去ってしまう。
    →やらないと残せないし、あったと証明もできない。作品つくらんと、語らないとということ。

    レヴィナスにおいては私の超越の中に超越が入り込み、私の内面の声となって己を現す。この私の声ー他者の顔への応答ーがなければ

    語ること自体が、この語るという行為以外には、他になんに支えももたない語ること自体が、証言者としての証言である。この証言においては、隣人に対する責任の引き受けがあるのみである

    私は自己を犠牲に給することにより、無限に近づく。犠牲は無限への接近の規範であり、尺度

    無限は、私はここにいますという私の語りのうちにおいて己を啓示する。栄光をあらわす。この語りは私自身が、私を見つめる人々に対する奉仕へと指定すること。自己を隣人に引き渡すこと。


    ひとが謎の痕跡を感知しうるのかどうかということ。このことは痕跡の感知しうるのかどうかということであるが、さらに言えば、痕跡の感知とは認識として成立しているのではなく、それ自体が倫理的行為なので在る。直接に自己を残るくまなく透明化し、明け渡し、神により髪の毛つまされて生きるのかどうか、という決断


    神の栄光の輝きとはm主体の極限的な受動生の裏面


    神の栄光は私自身言葉として到来する。どこかに私の言葉を支える権威があるわけではなう。私の言葉は、命令を聞く前に私が発した服従の言葉である。このアナクロニスムの自体を、レヴィナスは「先にー言う」と呼ぶ

    レヴィナス言葉は、皆目分からない。その言葉の背後には固有の異常な体験があり、かれはこんk体験を語ろうとしているのだ
    →これがやりたい。とあらためて

    神の実在性は、苦しみにうちひしがれた人間の倫理的な状況のうちでのみ、かすかにほの見えるのであり、その現れの場が救いを求める他者の顔なのである。

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