- Amazon.co.jp ・本 (438ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000004497
作品紹介・あらすじ
人間の連帯は、真理の哲学的な探求によっては不可能である。他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ。20世紀後半を代表する哲学者が、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。世界中に大きなセンセーションを巻き起こした「哲学と自然の鏡」の政治哲学的帰結-衝撃の問題作。
感想・レビュー・書評
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前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。
リベラルユートピアに必要なことは
アイロニーによる私的な領域と
残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。
本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。
わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。
アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。
整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
wired・近代と社会・7位
mmsn01-
【要約】
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【ノート】
「リベラル・アイロニスト」という立ち位置から、新たなリベラリズムの地平を目指したアメリカの哲学者は、本書で現代において人間の連帯がいかに可能かを指し示す。 -
[ 内容 ]
人間の連帯は、真理の哲学的な探求によっては不可能である。
他者が被る残酷さに対する私たちの感性を拡張することによって、連帯は達成されるのだ。
20世紀後半を代表する哲学者が、ありうべき社会はいかに構想されるかという課題を、永遠に自由を実現してゆく終わりなき過程である「リベラル・ユートピア」として描き直す。
世界中に大きなセンセーションを巻き起こした「哲学と自然の鏡」の政治哲学的帰結―衝撃の問題作。
[ 目次 ]
第1部 偶然性(言語の偶然性;自己の偶然性;リベラルな共同体の偶然性)
第2部 アイロニズムと理論(私的なアイロニーとリベラルな希望;自己創造と自己を超えたものへのつながり―プルースト、ニーチェ、ハイデガー;アイロニストの理論から私的な引喩へ―デリダ)
第3部 残酷さと連帯(カスビームの床屋―残酷さを論じるナボコフ;ヨーロッパ最後の知識人―残酷さを論じるオーウェル;連帯)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
【選書者コメント】とりあえず面白い。
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読み終わった。
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1350夜
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なんの因果か、原書は1989年に出版されたもの。
ある意味で、ソシュール学者の丸山圭三郎やフロイト学者の岸田秀と、モチーフを同じくしているところもある。
その意味で世界的な同時代性を彼らの思考に見ることもできよう。
ローティーが突出しているのは、おおむね、丸山や岸田がモティーフの提示を中心にすえたのに対して、そこから広がる世界の可能性を中心的に論じて見せたところにあるように思う。
スリリングで刺激的な一冊 -
ナボコフの項のみ、よく参照されるので、チェック。
?。何Elphinstoneは確かに不思議な雰囲気だが、床屋の息子が実は昔に亡くなっていた、なんていう仕掛けは、他にも沢山ありましょうし。殊更取り上げるほどのことでしょうか?ぐじぐじと良く読んでいる風なのは面白いけれど。ただ、ロリータは全体としては、そういう、「ドロレスちゃん大変だったのね」とあとから気付く点があるので、総体としてそういうことを言いたいのかな、と汲んであげれば、まあいいかと思う。そういうことを言いたいのか?
著者プロフィール
リチャード・ローティの作品





