- 本 ・本 (456ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000004497
感想・レビュー・書評
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リチャード・ローティ。
本書を読み進める前の彼の印象は、近代以降の真理探究哲学を完全否定したアンチ哲学の哲学者、というか、会話をし続けることが哲学であるというスタンスでやりきったアメリカのおっちゃんというイメージでした。
本書は、三部構成で、タイトルにあるように「偶然性」について、「アイロニー」について、「連帯」についてのパートで書かれていますが、正直なところ第一部「偶然性」から読み進めてサッパリなところも多く、納得したとしても、いざメモを取ろうとして、はて何と書き残せばいいやらとなってしまいました。
さいわい併読した、『100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」』(朱喜哲さん)のお陰で本書の全体像とローティ哲学のエッセンスをくみ取ることはできました。
ローティは、「リベラル・アイロニストのあり方」を本書で提示してみせたのですが、対比させている「形而上学者」や「真理」や「コモン・センス」については、とっても鋭く批判しているように感じました。
それぞれにあたる哲学者への痛烈な批評もすごいのですが、取り上げている著述家がフロイトやハイデガー、プルーストやニーチェ、デリダ、ナボコフ、オーウェルといったメンツで、後半につれて文芸批評に斬り込んでいくところ、非常に面白かったです。
個人的には、ナボコフ論での「カスビームの床屋」の提言がグッと来ました。われわれは感情教育で被害者に共感することは学んでいますが、残酷さに無自覚であるという点において、加害者もまたわれわれと同類であることを気づかせてくれる挿話です。
ローティもいうように、「われわれ」を拡張していくことによって、会話を守り、連帯を生んでいくことが、いまの分断された世界や危険なポピュリズムに陥ることを防ぐ術であると納得しました。
たまたま、朱喜哲さんを『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)で知っていたため、私の中で、「ネガティヴ・ケイパビリティ ー 朱喜哲 ー ローティ」とつながって思い読んでみた哲学者でしたが、予想通りの難しさと、魅力的な語りのローティに引き込まれる読書体験でした。
本書とは違いますが、朱喜哲さんによると、ローティの「バザールとクラブ」の比喩が、(「世界と世間」みたいにみえるかもしれませんが、)本書のテーマの一つである「公私について」の重要なたとえとなっているそうなので調べていこうと思っています。詳細をみるコメント1件をすべて表示-
遠藤良二さん僕は正直なところ、小説しか読まないし、よくわかりませんでした。ごめんなさい。僕は正直なところ、小説しか読まないし、よくわかりませんでした。ごめんなさい。2025/05/04
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前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。
リベラルユートピアに必要なことは
アイロニーによる私的な領域と
残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。
本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。
わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。
アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。
整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。 -
本書は、公共的な正義・連帯と私的な自己創造を、包括的な哲学観や思想・理論によって統一しようとする「単一の語彙」の放棄を主張する。真理は存在せず、言語・自己・道徳観は、歴史的な「偶然性」により生じた一時的な産物にすぎない。ある時点の語彙を常に疑い、自身の行為が他者に与え得る残酷さを自覚する「リベラル・アイロニスト」像が提起される。「残酷さ」こそが人間の共通項であり、人間同士の紐帯を生み出し得る。これは、詩的・文学的な営みにより涵養される。以上が本書の概要である。
著者の主張にはいくつかの難点があると考える。まず、「真理の放棄」は相対主義的であり、「リベラル・アイロニスト」像はブルジョワ的かつ自文化中心主義的である。「偶然性」の称揚は、至った結論や権力の正当性を認める根拠にもなり得るため、全体主義やマキャベリズムをも容認しかねない。また、彼の自文化主義的・エスノセントリズム的な立場からは、「リベラル・アイロニスト」が詩的・文学的な営みを通じてエンパシー能力をいくら高めたとて、そこから想像される「残酷さ」は狭い射程に留まるだろう。さらに、道徳観や信仰のみならず、真理の探求可能性や科学的技法までもを軽視・放棄してしまうことは、人類の連帯をむしろ遠ざけるようにも思われる。
しかしながら、「単一の語彙」の放棄は、異なる信念・思想を持つ共同体や個人が会話を継続するためには重要である。ここで、ロバート・ブランダムなどに代表される意味論的推論主義が持つ合理的合意形成の可能性を連帯へのオルタナティブとして挙げたい。会話の継続による意味形成によって、異なる価値観や信念を持ちながらもより広範囲の連帯が実現し得るのではないだろうか。 -
プラグマティズム→ポスト構造主義→ポストプラグマティズムの流れをなんとなく理解した。ポストプラグマティズムの次はなんだろう……ここから確率論のベイズに繋がると歴史を勝手に予測してる
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我々の価値観や人間性の定義などの絶対的であると案じられるものは、歴史の中の「偶然性」によって獲得された相対的なものである。リベラリストは 自らのアイデンティティの基底を為す終極の語彙に関して常に疑いの眼差しを向ける「アイロニスト」であるべきである。我々の「連帯」を為す唯一の根源は「残酷さを減らすこと」であり、その内部には哲学が探究してきた真の価値などはなく、我々の範囲を拡大するために外部に積み上げてゆくものである。哲学の概念自体を大きく転換させる21世紀にも読まれづけてゆくべき名著。
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100分de名著で取り上げられていたので…ムツカシイのでパラパラ眺めただけです。ショボンヌ。
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NHK100分で名著で放送している本である。非常に読みにくく内容が頭にすっとは入ってこない。本で読むよりも放送で聞いた方がよくわかる。原文が難しすぎるのか、あるいは翻訳との相性が悪いのかよくわからない。
学生にもどうやってすすめていいかよくわからない。 -
やべ〜、『資本論』ぶりに全然頭に入ってこないし何言ってるかわかんない←哲学に造詣深くないので最初は苦戦したけど読み通していくうちに言いたいことはなんとなくわかってきた
第三部に入ってから読みやすくなった…ような気がする。文芸批評的趣きが強いからかな。ナボコフやオーウェル批評としても興味深いのでこの機に『一九八四年』読み返したり『ロリータ』『青白い炎』読みたくなった
『一九八四年』の拷問についての解説読んでると韓国の小説『生姜』思い出す
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