ソシュールの思想

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  • 岩波書店
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  • / ISBN・EAN: 9784000012201

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  • フランス語学者である丸山圭三郎(1933-1993)によるソシュール思想の研究書、1981年。本書は、ソシュール言語学に関する研究書であると同時に、一級の解説書でもある。決して平易な内容ではないが、重要な論点に(ややくどいと思われるほど)繰り返し言及したり、箇所によってはソシュール同様に卓抜な比喩(有名なところでは、実体概念と関係概念との対比として持ち出される饅頭と風船の比喩)を用いたりするなど、手堅く丁寧な記述であるため、腰を据えて取り組めば読みこなすことができるだろう。なにより、これが翻訳ではなく自然な文章で直接に読めることが有難い。言語論的転回や構造主義などの20世紀思想に関心のある人は、まず本書を手に取ることを薦める。衒学趣味に陥ることなく正統的な学問の手順を踏んで展開される本書を通して、確かな知識を獲得しかつそれを整序して理解することができる。



    スイスの言語学者であるソシュール(1857-1913)は、言語をはじめとする人間的事象を探求するためには、自然的世界に対するように要素還元主義的に措定される実体概念に依拠する方法論では全く不適当であり、関係概念の視点に立つことが必要であることを見抜き、自然的世界から区別される人間的事象の本質を解明するべく「記号学」を構想した。そこには、実体概念から関係概念への転換を図る思想的苦闘があった。

    「自然」に還元され得ない自立的な「文化」の領域は如何にして確保され得るのか、という問題意識をもって本書に取り組んだ。以下、本書の構成を追いながら内容を概観していく。

    Ⅰ ソシュールの全体像

     第1章 ソシュールの生涯とその謎

    ソシュールの生涯を、彼の学究生活の変遷(比較言語学、一般言語学、神話・アナグラム研究)を軸に描く。最初の論文が弱冠14歳のときに執筆されたという早熟ぶり、数学的厳密性に対する志向と同時に持ちあわせていた詩的感性など、興味深い。

     第2章 『一般言語学講義』と原資料

    ソシュールがジュネーブ大学にて行った一般言語学に関する講義(1907年、1908ー09年、1910ー11年の3回)の内容は、ソシュールの死後に弟子たちの編集により『一般言語学講義』(1916年)として出版された。ソシュール研究の前提として、『講義』の成立事情にまつわる問題性(弟子たちによる恣意的な改変と再構成)と、その後に発見された「原資料」(実際にソシュールの講義を聴講していた学生による講義ノート)によって可能となったテクスト・クリティークについて確認している。こうした実証的研究の積み重ねによって、初めてソシュール思想の全貌が明るみに出ることとなった。

     第3章 ソシュール理論とその基本概念

    本書の中心的部分。まず、ソシュール言語学の基本概念である「ランガージュ/ラング/パロール」が定義される。その最も根底にあるのがランガージュであり、それは「諸個物の無秩序な連続体から或るカテゴリーを切り取りそこに抽象的な概念を構成することで、世界の認識を可能とする、人間にとって普遍的な能力」とされる。このランガージュを具体的に実現するための社会的文化的な枠組み=《構造》がラングであり、この《構造》における個人の実践がパロールとされる。

    そして、「ラング(言語)が社会制度のひとつであるのではなく、それとは逆に、社会ひいては文化的事象全体がラング(言語)の体系として捉えられる」という"転回"を通して、「記号学(「恣意的に定めれた価値をあつかう科学」p235)」は、ただ言語研究のみに関わるのでなく、広く人間科学全体をその射程に収めていくことになるだろう。

    ソシュールは、上記のランガージュの規定にも見られるように、次のような認識から出発する。則ち、「言語は、言語の外部に予め存在している観念に名前を付与する(世界の側に予め実体的な意味が存在しており、言語はそれを表現する道具に過ぎない)のではなく、逆に言語によって初めて観念が構築される(世界は言語によって事後的に意味を付与されていく)」。この「認識のあとに言語があるのではなく、言語そのものが認識である」という立場は、必然的に【言語命名論の否定】へと接続される。言語以前に言語とは無関係に観念は存在しないということは、予め何らかの観念を実体的に措定してそれに依拠する形で言語を考察することが方法論的に許されない、ということを意味する。ここから、ソシュール記号学の主要な論点が導出されていく。

    ラング(言語)は、諸個物の無秩序な連続体としての世界に或る視点に基づく関係性の網の目=形相を投げかけ、以て世界を分節化していく【ラングの形相性】。ここでの「視点」とは、具象性そのものとしての不定形のカオスから或る特定の具象性を選別し、その具象部分を捨象しようとする観点を意味する。この「視点」そのものの措定は、その他のあらゆる積極的な実体の措定に先立つため、全く恣意的に為される【ラングの恣意性】。シーニュ(言語記号)は、それ自体ではラングの中において一切の積極的な価値をもたず、他のシーニュとの或いは全体との関係性の内に置かれてはじめてその価値を云わば否定的な仕方で相互に決定し合う【ラングの示差性=否定性】。則ち、ラングには、それ自体では積極的な規定をもたない諸シーニュの差異の関係しかない。ラングは、関係性のネットワークとしての差異の体系であり、「自然」など一切の積極的な実体によって規定されないそれ自体で自立した恣意的な価値体系である【ラングの恣意性=反自然性=非実体性】。

    シーニュ(言語記号)は、言語に対して外在的な観念をその"内容物"とする単なる"容器"としての記号なのではなく、それ自体で"意味"と"表現"をもつ二重の存在である【シーニュの非記号性】。前者がシニフィエ、後者がシニフィアンである。両者は、ラングの体系においてシーニュがその価値を画定させると同時に生じ、お互いが相手の存在を前提にして存在する。予め別々の実体として存在していた両者が事後的に結合されるのではない【シニフィエとシニフィアンの相互依存性=不分離性】。さもなくば、言語命名論に引き戻されることになってしまう。

    ここから、二つの典型的な言語観が批判される。

    【主知主義批判】・・・ラングは「一般理性」や「純粋観念」をはじめとする前言語的な即自的な観念によって規定されない。なぜなら、言語命名論が否定される以上、言語以前に即自的な「一般理性」や「純粋観念」なるものを措定することはできないから。「ポール・ロワイヤル文法」への批判。

    【経験主義批判】・・・ラングは「自然」をはじめとする前言語的な即自的な実体によって規定されない。なぜなら、ラングとは「自然」という実体的な基盤から切り離されたそれ自体で自立的な恣意的価値体系であるから。これは、ラングの自立性を否定することになる方法論、則ちアトミスム(対象をそれとは別の実体に還元すること)とタクシノミー(アトミスムによって或る実体に還元された対象を、当該実体が作る体系をモデルとして、それに当てはめる形で整序分類すること)への批判に通じる。よって、ラングをそれとは別の物理的・生理的な実体に還元することはできない。「行動主義」など一切の「還元主義」への批判。

    以上を要約すると、次のようになる。①言語に関する考察を、ランガージュ(世界を「人間精神の所有物」化する能力)から始める。②「言語は認識を表現するための道具なのではなく、言語それ自体が認識である」として、言語命名論が棄却される。③ランガージュの《構造》的実現としてのラングは、「自然」を含む一切の実体性から切り離され、恣意性を原理とする差異の体系をなす。④人間の精神活動はラングを通して為されるため、「文化」の内にも恣意的価値体系としてのラングの《構造》が見出される。⑤実体概念に基づく「自然」の領域に対して、関係概念に基づく「文化」の領域がその自立性を確保される。

    尤も、恣意的であるはずのラングも、その文化共同体に属する個人に対しては、抗い難い抑圧として機能してしまう。抑圧的なラングに対する個人の主体性はどのように確保され得るのか。これが丸山の課題となる。本書全体に云えることだが、「構造の産物である人間の真の自由とは何か」(p177)という問題意識が、一貫して丸山の議論の底流をなしている。そこでは、「構成された《構造》」であるラングにおいて固定化された「価値」に対して、そうした価値を変容させる「構成する《主体》」によるパロールの「価値創造」が対置される。則ち、抑圧的な《構造》と、そこに自由の領域を確保しようとする《主体》との、弁証法的図式。しかし、この問題機制は、安易なヘーゲル主義としての疎外論そのものではないだろうか。この議論が、実体概念を排して関係概念の徹底化を試みたソシュールのラディカリズムを引き合いに出してまで、導出せねばならぬほどのものであるとは思えない。そもそも疎外論とは、その問題機制からして実念論的であり、それゆえに実体論的な議論ではないだろうか。そうであるならば、疎外論のソシュール的解体こそ目指されるべきではないか。

    Ⅱ ソシュールと現代思想

    ソシュールの記号学が、20世紀の哲学者(メルロ=ポンティ、テル・ケル派、ロラン・バルト、サルトル)にどのように受容或いは誤読されてきたかを、彼らが展開する言語論を批判的に検討しながら明らかにする。ラングの変容の可能性=言語主体の自由の可能性として、マラルメの詩的言語が持ち出されている点が興味深い。なお、メルロ=ポンティに関する章は、彼の経験主義批判と主知主義批判を説明する中で本書の主要な論点がコンパクトにまとめられており、理解の助けになる。

    Ⅲ ソシュール学説の諸問題

    ここまで展開されてきたソシュール思想の基本概念(ラングとパロール、シーニュの恣意性、ラングにおける意味と価値など)について、さらに精密な検討を加える。

  • ソシュール研究としては避けて通れない名著ということで読んだが、全くわからなかった…ソシュール自体はそこまで難解なはずはないのだが、言語学を言語で表すこと自体が難しい所以であろう。

  • 前半はソシュールの生い立ち。後半はソシュールの思想、考え方などについての説明、考察です。
    ソシュールについては初めてこの本で触れましたが、まず考え方がとても合理的。ソシュールがもしも後世に論文を残していれば、もっともっと著名な学者として名を遺したことでしょう。
    そう思わせてくれるソシュールの理論についての解説が書かれています。
    ただし、理解するまでに時間がかかる思想だと思います。とっかかりがつかめればとても納得がいきます。しかし、つかむまでが私は長かった…!
    福祉の考え方でナラティブアプローチというものがありますが、その考え方をご存知の方はもうちょっとわかりやすいかもしれません。
    『真実はいつもひとつ』と言っている某小学生探偵がいますが、ソシュールは違います。
    『真実は人の数だけある』と私はこの本を読んで捉えました。
    物事、それそのものに意味はありません。意味をつけるのは、それを感じ取った私たち自身です。
    これまで得てきた経験が誰しも違います。その分だけ考え方、捉え方があります。過去の思い出に、今ある現状に、意味をつけているのは私たち自身であるのだということを教えてくれた本でした。
    言語学学者による考え方の解説本ですが、考え方にかなり応用がききます。それこそ、今はやりの自己啓発にまさに当てはまることでしょう。大変有意義に頭を悩ませることができました。

    ぶっちゃけて言いましょう。一回読んでも意味わからんです。一気に読んでなんとなく意味が分かります。おそらく本当に理解するためにはもっと読み込むことが必要でしょう。私にとっては大変難しく、しかし、興味深い本でした。

  • これまでどうにも解らなかったシーニェ、シニフィアンのシーニュ理論が、ボンクラな私の頭でもわかったような気になれる。有難い本です。

    丸山圭三郎先生のソシュールの思想に対する敬愛(エロス)が強く感じられる素晴らしい本です。

    先生ご自身の奥底から出る問題意識によって言葉のわけわからなさや恐ろしさに迫られているため、私が長い間抱いてきた言葉に対する不信が氷解しました。

    是非「まえがき」だけでも読まれることをお薦めします。

  • レヴィ=ストロースの思考に影響を与えたものとして、ソシュールが挙げられる。レヴィ=ストロースは、ニューヨークの「新社会研究院(New School for Social Research)」でヤーコブソンと知り合い、彼を介してソシュールの言語学を吸収し構造人類学を打ち立てたように記憶している。ゆえにこの本を手に取った。第一級のソシュール解説本らしいので。

    言語学に関しては無知も同然だったが、とても刺激的で読みやすい。ソシュールの基本的な用語(ランガージュ、ラング、パロール、シーニュ、シニフィアン、シニフィエ、恣意性/必然性)を丁寧に説明されたのち、『一般言語学講義』の編集事情に触れ、彼の思想が『講義』においてどのように歪曲されていたのかを<原資料>との対照によって浮き彫りにする。また、第一回講義と第二・第三講義の内容の違いからソシュールがどのように思考を深めていったのか(第一次元:<構成された構造>と<構成する構造=主体>、第二次元:ラングの<記号学的構成原理>)、なぜ晩年はアナグラム研究に傾倒していったかを解き明かす。個人的に最も秀逸だったのが、ソシュール言語学と現代思想を扱った章。取り上げられているのはメルロ=ポンティ、バルト、サルトル、テル・ケル派だが、それぞれ違った接点でおもしろかった(特にメルロ=ポンティが気になったので、そのうち読んでみたい)。だけど全体を通して見ると、ずいぶん内容の繰り返しが多いように感じた。しかし、それだけソシュールの要点を強く伝えようという意図なのでしょう。ソシュールの洞窟のまだまだ入り口にいるような感じなので謙虚に何回でも読み直したい。

    最後に、、、読んでいてちらほらとレヴィ=ストロースの名前が出てくる。たしかにラング・パロールを人類学において潜在的社会構造と顕在的現象に置き換えて適用したというのは、言われてみて納得(どちらかというと私は、今までヤーコブソンの音韻論をイメージしていた)。だが気になるのは、ソシュールの動態的な言語観、つまり記号学的構成原理(恣意性)に基づく<構成する構造=主体>はすごくブルデューの理論に似ていると思う。たしか彼は、構造と主体に注目しそこに「実践」や「ゲーム」概念を援用することで、行為者(主体)が構造の前に無力ではない――構造を内面化し、流用・援用する能動的主体であり、それぞれの歴史や現実を作り上げながら、日々の生活を実践していること、そしてその実践そのものが構造を再生産、あるいは変化させているということを指摘したように記憶している。ソシュール、ただ一人の理論の中にレヴィ=ストロース、ブルデューという若干の共通点はもちながらも異なる考えをもつ二人をみることができる。ということで、レヴィ=ストロースがどういう風にソシュールの思考を受容していったのかを丁寧に調べてみる必要がある。そしてとうてい読む気の起きないブルデューさんに関しても少しくらいは…。

  •  
    ── ソシュール/影浦 峡・田中 久美子・訳
    《一般言語学講義: コンスタンタンのノート 20070327 東京大学出版会》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/413080250X
     
     Saussure, Ferdinand de 18571126 Swisse 19130222 55 /
     
    ── 丸山 圭三郎《ソシュールの思想 19810715 岩波書店》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4000012207
     
     ソシュールを学んだと称する知人が二人いた。
     ソシュール自身は一冊も本を出していないのに、ソシュールに関する
    日本語の書籍は、百冊を超える。
     
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A5%BD%A5%B7%A5%E5%A1%BC%A5%EB
     わたしのブログやツイッターにも、もっともらしく引用されている。
    https://twilog.org/awalibrary/search?word=%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB&ao=a
     
    (20221102)
     
    ── 丸山 圭三郎《ソシュールの思想 19810715 岩波書店》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4000012207
      ↑
    ── ソシュール/影浦 峡・田中 久美子・訳
    《一般言語学講義: コンスタンタンのノート 20070327 東京大学出版会》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/413080250X
     
     記号学の前にソシュールなし、ソシュールの後に言語なし(パロディ)。
    http://d.hatena.ne.jp/aedlib/20110329
     百科自伝 ~ 鍋島 一緋との電話 ~
     
    …… 彼女に「フランス語の言語学に関する論文を、日本語で書いて、
    誰が(同業者以外に)読むのか?」と訊くと黙りこんだ。
    http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6731628.html
     俗物って死語だったかな? ~ 言語学者K女との電話 ~
     
    (20110415)
     
     Saussure, Ferdinand de 18571126 Swisse 19130222 55 /
     
     ことしから、日々の、目にとまったニュース・メモを、ブログ形式で
    (阿久 悠の壁新聞のように)蒐めることにした。後でキーワード検索
    が容易になることを想定すると、方程式のような文章になった。
     
     たぶん、受験問題や模範解答を研究すれば、ソシュールに辿りつくの
    ではないか。ところが、ソシュールを学んだと自称する数人に、会って
    話を聞いてみたが、誰も雲を掴むような感想を述べただけだった。
     
    …… ソシュールを学んだ女流言語学者と、何度も長電話で話したが、
    教わったことばかりで、みずから思いついた気配がない。文章の要諦は
    用語の因数分解にある、という命題が、誰にも伝わらないのが残念だ。
     |
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20210207
    …… 記号学の前にソシュールなし、ソシュールの後に言語なし(parody)。
    https://twilog.org/awalibrary/search?word=%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB&ao=a
     |
    https://q.hatena.ne.jp/1308114206#a1078686(No.3 20110615 16:36:39)
    ── 丸山 圭三郎《ソシュールの思想 19810715 岩波書店》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4000012207
     
     頭のいい者には、三通りある。まずは自分で頭がいいと信じている者、
    つぎに周囲の者に信じられた者、死後数十年たって、後世に認められる
    である。というような凡庸な発想の対象には縁がないはずだ(20210422)。
     
    …… 一人ぼっちのジャンピング、与太郎の空耳?〔SUKIYAKI〕
    ── 永 六輔・詞/中村 八大・曲《上を向いて歩こう 19611015 東芝》
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BE%E5%A4%F2%B8%FE%A4%A4%A4%C6%CA%E2%A4%B3%A4%A6
     
    …… 「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか
    分からず、坂本がアメリカから帰って来た時も「上を向いて歩こう」が
    「SUKIYAKI 1963「SUKIYAKA」の題でキャピトル・レコードから発売が
    決定した。この「SUKIYAKA」という米題は誤植ではなく、ラジオDJが
    曲紹介をする際、歌手の「KYU SAKAMOTO」と韻を踏ませるために、
    キャピトル・レコードのデイヴ・デクスター・ジュニア(英語版)が
    意図的に命名したものである。しかし、東芝レコードの石坂 範一郎の
    説得により発売時には「SUKIYAKI」に訂正された[14]。
     同年5月3日[15]にアメリカでレコードが発売されると、ビルボードの
    Billboard Hot 100 で 0615-0629 まで3週連続、キャッシュボックスの
    Top 100で 0615-0706 まで4週連続1位のヒットとなった。(Wikipedia)
     
    (20210422)(20221102)
     

  • 池田清彦氏推薦

  • 9/22
    ソシュールの思想をわかりやすく。

  • ソシュールにとって言語は、(1)社会的産物であると同時に歴史的産物である。(2)人為、文化の産物、恣意的価値体系である。というこの2つからなると考えていた。

    ・コトバがあってはじめて概念が生まれる。
    ・シーニュに1つの機能、1つの価値を与えることが可能となるのは記号感の差異によってのみである。
    『個は全体があって初めて存在し、価値を生ずる。(p290)』これは主知主義や経験主義に反対する思想となり、この考え方を別な分野に持ち込んだのがレヴィ=ストロースなどの構造主義者となる。

    ただ、この本の中で一番気になったのは、「言葉は人間に個性を与えたが、同時に個性を奪った。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式を与えられたであろうが、文化を得た代わりに、真実は失ったかもしれない。」(川端康成『新文章読本』)という引用が一番気になった。

  • 読了

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