- Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000012935
作品紹介・あらすじ
「私は一つの言語しか持っていない、ところがそれは私の言語ではない」-この二律背反する、特異な命題が指し示す言語経験は、我々にとって何を意味するのか。フランス植民地下のアルジェリア-矛盾と葛藤に充ちたデリダ自身の自己形成の物語を通して、ポストコロニアルの時代における、言語・文化的アイデンティティと政治、母語、翻訳をめぐる脱構築的考察が展開する。
感想・レビュー・書評
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フランス領アルジェリアのユダヤ人家庭に生まれながら、現地で使われていたアラビア語やベルベル語は排除の対象、またユダヤ文化はなかばキリスト教化され、物心つく頃には「本国」の言葉であるフランス語で教育を受けていた、哲学者ジャック・デリダ。
みずから選んだわけでもないのに、フランス語で物を考えるしかない。しかしそれは、デリダ自身の言語ではなく、長らく行ったことさえなかった、支配者フランスの言葉だった。当然、「永遠に」疎外され続けるしかない。
そんな存在を揺るがすような逆説について論じた短い本だ。生まれてくる親は選べない、というのと似ている。
(また本書は、母語を家に喩えたハイデガーに対する痛烈な批判にもなっている)
同様の複雑な環境で育ったわけでなくとも、例えばいまこうして書いている、あるいは日頃話している日本語も、自分で選んだわけではなく、過去の他者たちが用いてきた「たまたまそこにあった」言語をただ拝借している。にもかかわらず、相対的にいちばん使い方を知っている(つもりになっている)からこそ、当の言語を用いて考え語るしかない。
そもそもこれは自分が語っているのか、それとも日本語に語らされているのか?
そんなことを強烈に意識させられた一冊だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
デリダのアルジェリア生まれユダヤ人というアイデンティティから生まれる疎外感(?)の強度はうっすらと理解できたが、言語というカットで語る意義はやはりよくわからなかった
著者プロフィール
ジャック・デリダの作品





