日本人のこころ〈2〉新しく芽ばえるものを期待して

制作 : 鶴見俊輔 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 8
感想 : 1
  • Amazon.co.jp ・本 (271ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000017664

作品紹介・あらすじ

21世紀を迎えた今、われわれは過去から何を学び今後に何を伝えてゆくべきか。日本の社会、文化がもっていたさまざまな可能性を捉え直すことによって、伝統のなかから、普遍へとつながる豊かな可能性、新しい芽生えを掘り起こす。世代を代表する四人の知性と編者による白熱の対論は、いずれも斬新な視角から文化と人間の本質を衝く洞察に満ち、刺激的である。

感想・レビュー・書評

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  • この本のことは、5月の終わりに『We』172号の発送やらなんやらで横浜へ行ったとき、『ひげおば』の常雄さんからおしえてもらった。私が前の『We』171号の「乱読大魔王日記」で、清水眞砂子の日常を散策するシリーズの2冊を書いたこともあって、鶴見俊輔との対談に清水さんが出ててね、こんなんであんなんでと聞いたのだった。私のほうは、鶴見俊輔といえば京都のSUREが出している『ちいさな理想』という本がよかったですよーと話した。

    それで、大阪に帰ってしばらくしてから借りてきて読んだ。鶴見俊輔と4人が語った記録がおさめられているなかで、まず真ん中の清水眞砂子との対話から読みはじめ、続いて西成彦との対話を読み、本の最初にもどって大岡信との対話を読んで、さいごに瀬戸内寂聴との対話を読んだ。

    編者の鶴見が1922年うまれ、清水が1941年うまれ、西が1955年うまれ、大岡が1931年うまれ、瀬戸内が1922年うまれである。対話の場がもたれたのは、1998年から2000年。

    清水が語っていること、鶴見が語っていること、それぞれ出てくるエピソードや言及される人物など、いつだったか本で読んだなーというのがいろいろあったけど(この記録も本やけど)、二人が同じ時間に、同じ場にいて語りあったというところが、ええなあと思った。

    乙骨淑子が出てきて、村谷荘平が出てきて、ル=グウィンが出てきて、中井久夫が出てきて、宮本常一が出てくる。私が乙骨淑子という名を知ったのは、清水の『子どもの本の現在』によってだった。この評論集でとりあげられた作家のうち、私がひとつも読んだことがなかったのが乙骨淑子で、それ以来ずっと、私の頭のどこかにこの名前はある。

    ル=グウィンの「ゲド戦記」を訳していたとき、清水が、そばにいてほしかった人、この本を一緒に読み、一緒に考えてくれる人、その人と一緒にこの本を読みたかったと思っていた人が乙骨淑子だった。けれど、もうそのときに乙骨は亡くなっていた。偶然なことに、ル=グウィンと乙骨はともに1929年うまれで、海の向こうとこっちで、同じようなことを考え、同じ思いを抱いて生きていたのではないかと清水は語る。「私はル=グウィンを通して再び乙骨さんに出会ったという気がしております」(p.149)と。

    乙骨淑子は、体験を直接書くことを拒否し、自らの体験も直接語ることをしなかったという作家だった。「これは、実は日本の児童文学のなかにおいては、とても大きな、特異なこと」(p.161)だという。

    そのことを、乙骨の父・村谷荘平を知る鶴見は、こんな風に言う。「…すべてコンポストして、その上に肥料をかけて腐らせて別のものにして現れるような仕組み、偶然それは乙骨さんのなかにも現れている。乙骨さんが決意して、自分で作った方法でもあるんですね。」(p.176)

    自分の体験をコンポストして、作品を作っていく。それが特異なことだという日本の児童文学の世界は、体験、とりわけ戦争の体験を語る作品にあふれ、それが皮肉にも、若い人たちをうんざりさせている、八月と書いてあるだけで本に手を伸ばさない若者が出てきている。ああ、また戦争の話かと。清水は、乙骨さんは1964年の『ぴいちゃあしゃん』を書いた頃に、「すでに体験に寄りかかっては人々をつなげることも、次世代に継承することもできないのだと気がついておられた」(p.163)という。

    「一万五千年の文学」という西と鶴見の対話、「日々を詠み、日々を生きる」という大岡と鶴見の対話、「いのちあふれた女たち」という瀬戸内と鶴見の対話、どれもおもしろかった。

    それぞれの話の場は、半年ないし一年の間をおいて開かれ、主催者が同じという以外に直接のつながりはないといえばない。それでも、対話の相手が同じ鶴見だということもあるのか、どこか、ぐるぐるとつながり、話が広がっていくような感じもあった。

    たとえば、「文学は読み手を得て初めて完結する」(p.210)と西が言い、「自分がどこまで書いたのか、あるいは何を書いたのか、それをどなたもおっしゃってくださらないと、書いた本人が忘れていく」(p.158)と清水が言い、「言語というものには、必ず誰かに通じる一つの通路がある」(p.66)と大岡が言うようなあたり。

    もうひとつ、西が、一万五千年の人間の旅につきまとうものは飢えだった、人類を発展させてきたのは飢餓だろうと言い、アウシュヴィッツでは、これだけの規模の飢えを人工的に作り出した、これだけ大規模に作り出したことは今までの人間の歴史になかったでしょうと言うところ、カフカの最晩年の作品に「断食芸人」というのがあると言うところ、そこがすごく印象に残った。

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著者プロフィール

1931(昭和6)年、三島市生まれ。詩人。歌人大岡博の長男。父と窪田空穂の影響で、沼津中学時代に作歌・詩作を行う。一高文科から東大国文科卒業。在学中に「現代文学」、卒業後「櫂」に参加し、「シュルレアリスム研究会」「鰐」を結成。読売新聞外報部勤務を経て、明治大学・東京芸術大学の教授をつとめた。詩と批評を中心とした多様な精神活動を行い、また連歌から発展させた連詩を外国人とも試みている。日本芸術院会員。
詩集―「記憶と現在」「春 少女に」「ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる」「旅みやげ にしひがし」「丘のうなじ」など。
著書―「折々のうた」「新折々のうた」など多数。

「2016年 『折々のうた 春夏秋冬・冬』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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