TBS事件とジャーナリズム (岩波ブックレット NO. 406)

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  • Amazon.co.jp ・本 (55ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000033466

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  • 黒田清さんは、1952(昭和27)年から87(昭和62)年までの35年間を読売新聞大阪本社に籍を置き、そのキャリアのほとんどを大阪社会部で過ごした方。
    編集委員時代には社会面に載らないような街の小さな話題や人間像を拾い上げ、毎日「窓」というタイトルのコラムを掲載。そして退社後は、テレビ番組にコメンテーターとしても出演するようになり、テレビ報道番組制作の内側も見ることができた方でもある。
    この本では新聞・テレビ両方の報道の視点から、「TBSビデオ問題」と括られる一連の事件での日本のジャーナリズムが置かれた問題点をあぶり出している。

    まず、当時のテレビ報道の背景をこの本の叙述から要約しておきたい。
    報道の歴史としては新聞が圧倒的に先行し、テレビは後発であって、かつ、当初はNHKが代表するストレートニュース(アナウンサーが主観を排して記事を読む)が主流だった。
    それが1980年代後半にテレビ朝日のニュースステーションで久米宏さんが欧米のアンカーパーソンの手法を取り入れ、記事を読むことに加え、顔の表情、言葉のトーン、間の取り方といったものを総動員し、読む記事に「付加価値」を付けることで、視聴者のニュース番組へのニーズが大きく変わった。
    先に「付加価値」と言ったが、それは個人的意見ではなく、その一歩手前のギリギリで踏みとどまったものを示す。なぜなら、ニュースは事実の伝達であり、意見になるとニュースではなくなってしまうからなのだが、それをある意味承知で、ゲストや多彩な出演者を混ぜて、意見も入れて報道の枠を超えた形で伝えようとするのが、いわゆる「ワイドショー」とか「報道バラエティー」とか称せられるものだ。

    それは事実の忠実な伝達という、黒田さんをはじめ新聞報道が追求してきたものとは異なるベクトルの向きをテレビ報道が示していることを意味する。黒田さんもその方向性自体は否定していない。しかし“ジャーナリズム”に照らして、そこからいわば逸脱していると思われる問題点は看過できないようだ。
    そういう中で1989(平成元)年10月のTBSのワイドショー番組「3時にあいましょう」によるオウム真理教本部と、さらに坂本堤弁護士への取材に端を発する事案が起こり、黒田さんはそこにテレビ報道が陥った落とし穴の典型を見い出して論述している。

    以上から、黒田さんがテレビ報道について論じた点で気になったものをあげておく。
    「『ワイド・ショー』は…ほとんどの局が報道局ではなく、情報局という別のセクションで取り仕切る。『ワイド・ショー』には、さきに言ったように報道も含まれるが、芸能や娯楽といった要素が多分に織り込まれ、時にはそれが主流になる。その基本となるものは、ジャーナリズムというより、マスコミの論理が優先する。そこでは、事実を誇張することが許され、『面白い』ことが要求される。」(P8)

    「自分が取材した材料に、大げさなナレーションがつけられていたり、重要な部分がカットされていても、なおされないケースが多い。さらにもう一つ、そのようにして放映された映像のほとんどは、前もって上司が観ていない」(P10)

    「私のような“活字出身者”は、番組の価値基準を、取材対象のニュース性、社会に対する訴えの強弱に置く。しかし、テレビ関係者は、それを『絵になるかどうか』で決める。」(P36)

    「テレビ報道の弱さを招いたもう一つのポイントは、価値基準を視聴率ではかるという慣例が定着してしまったことである。」(P40)

    「テレビ局の中で一番偉いのは誰かということになると、記者でもプロデューサーでもなく、また社長でさえなく、優秀な設備装置でないかと思うほどに、コンピューターで操作される機械とそれを駆使する技術が主人公である。記者によって取材されたニュースは、その装置によって報道されるのだが、その場合、取材の内容よりも、それがどれだけ早く、効果的に処理されるか、ときには、どれだけ面白いかということに、社全体の関心が向かってしまい、取材内容の優劣が二の次になりがち」(P47)

    以上を書き並べ、私は愕然とした。なぜなら、黒田さんが指摘したテレビ報道が抱える問題点が、今も少しも改善されていないのではないか?と思えるからだ。
    いや、2019.10.5付朝日新聞朝刊「耕論」欄のオバタカズユキさんの論説を読むと、テレビ報道の姿勢はより悪化してるのでは、とすら思える。

    オバタさんは、2019.9月に千葉県を台風が襲い、電気や水道が止まり甚大な被害が起きているのに、速報性が武器のテレビでその状況の報道が当初なされなかったのは、通信も途絶しSNSに被害実態の情報がほとんどアップされてこず、それが報道に影響したのではと分析している。
    しかし私はこう思う。いわば素人ならいざ知らず、仮にも報道のプロのニュースソースがSNSだけってありえない。そもそも報道記者なら「警電」をしないのか?警電とは警戒電話のことで、定時に警察や消防その他の機関に事件事故の発生の有無を電話で確認することだ。ほとんどが「何もありません」で終わるが、欠かさず電話し続けることで、何万回に1回で事件事故の情報の早期入手につながるという、極めて地道な作業だ。
    私にすれば、報道の姿勢として大切な「地道さ」が当時よりもさらになおざりにされているのでは?とテレビ報道に携わる者に対しては、さらに悲観的な目を向けている。

    黒田清さんが存命なら、いまの(特にテレビ)報道メディアがネットなどの多くの場面で「マスゴミ」と揶揄される現実を見て、どう言うのだろうか。

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