「学ぶ」ということの意味 (シリーズ 子どもと教育)

  • 岩波書店 (1995年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784000039321

感想・レビュー・書評

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  • ここにあるのは
    「自分探しの旅」・・・


    ●自分にとって本当に学びがいのあることを探す、ということは、
    言い換えると、
    本当の自分とは何か?を捜し求める「自分探しの旅」だと言い換えてもいいだろう・・・・・

    とある。

    学びとは勉強じゃなく、
    生きること。。。

    それも、
    自分らしくなるために生きがいのある生き方のこと・・・

    そうなんですね。
    自分らしく、今日よりも明日よりよくなること。

    そして、

    ●「なってよかった、本当の私」を探すこと自体に、はじめから絶望感を持っているとき、つまり希望というものをすべて失っているとき「やる気」はまったくおきない。

    という。

    ですね、まったくそのとおり。

    やる気は生きがいとともにそこにあるものなのですね。

    そして、
    おわりに・・・では、

    なりたい自分になりたいけれど・・・失敗するかもと
    よりよさを求めることへの恐怖を感じることに対して、
    こんな風に教えてくれている。

    ●・・・・「よくなる」とする実践、そしてその結果が「よりよい」(元へ戻らない)状態の実現だという場合、その「よさ」が、何か絶対的な基準に照らしての「よさ」とは限らない、ということである。
    ・・・・
    「新たな問題」を発生させているかも知れず、それは以前よりもっと深刻な問題かもしれない。・・・・そういう「問題」を発生させたから当初の変容は「よくなかった」としたり、それへ向けての実践は「文化的ではなかった」というわけではない。

    とある。

    つまり、よくなろうと実践することそのものが「いきがい」であり、それは以前より「よい」ということをより理解し、感謝し、味わうことが出来ているということ。

    そうなんだ・・・とわかる実践とともに、「学ぶ」=【生きる】をわかりやすく伝えてくれる一冊。

  • 新年2冊目。
    モチベ高まっていたいうこともあり、途中難しくて?となった部分もあったが、何とか読破。

    まずはインパクトのあった内容3点。

    ①アメリカ高校数学・教えない授業の実践
    教師は「平行線は決して交わらない」といったような命題を記したシートを配り、後は子どもたちに任せる。すると、子どもたちは一人ひとりが自分の役割を創出し、追求したことについて他者から理解を得るために説明を工夫し、自発的に学び、自分たちで教科書を創り上げてあげていったとのことである。
    後で出てくる、系統学習-問題解決学習論争でいうと、後者全振りのような実践だが、子どもたちが自ら学びに参加していたという点は、紛れもない事実である。

    ②「やる気」に関する記述
    やる気は外から起こさせるものではなく、当人の事情、社会的な関係の中での自己決定である。それを踏まえて、我々は「やる気を妨げない手立て」に目を向けるべきである。
    この内容を自分なりに解釈すると、「やる気出るかどうかは本人次第。やし、少なくとも邪魔はしないようにしよう。」みたいなイメージ。
    これは最近自分が大切にしている「前向きな諦め」と似ている気がする。

    ③〜力の捉え
    学力や能力は、『育成される』ものではなく、当人とその周辺の人々、さらにそれをとりまく世界との関係の中で、『たち現れる』行動特性である。簡単に言うと、環境と相互関係の現れともいえる。
    これには納得。できる力は元々持っているという捉え。

    他にも、学びのドーナッツ論として出てきた、
    I世界(学び手)
    YOU世界(WEとも言い換えられる第二の自我)
    THEY世界(匿名性をもつ他者であり社会・文化的実践の場)
    も興味深かった。常にYOU世界とTHEY世界の狭間にある第二接面での交流を意識しながら、YOU世界を広げていくべきだと筆者は述べている。

    人は、学びがいを求めて、学ぶ。
    学びたいから学ぶという言葉にも通ずるような筆者の捉えは、共感できる部分が多くあった。学ぶにあたって、他者の存在が必要不可欠であるという点もその通りである。

    まずは1人間として、「学びがい」を日頃から実感できるようにしたい。となると、やはり1番身近なのは読書かな。ただ他者と対話する場にも積極的に参加していきたい。




  • 佐伯先生の本はいくつかを読み合わせていく中で解読できるようなそんな感覚を持つ。そして同時に、かなり素晴らしいなと思います。発達というたころを後ろに敷いておきながら、接面、アイ、ユー、ゼイといったドーナツ論、文化的実践、こういう保育という中ではあまり語られていなかったようなことを、さまざまな引用、ヒューマンインターフェースといったところから、様々な示唆を頂ける。
    この本を読んだのは文化的な実践というところの理解をもう少し重ねたいなと思ったから、まだわかったようなわからないようなところはあるが、それはまた色んな人と関わって行く中で構築していきたいとおもう。

  • 「学ぶ」とは何か、筆者独自の理論が展開されているが、堅苦しくなくて読みやすい。
    その主張は20年経った今でも全然古めかしいとは思えず、ますます危機感さえおぼえてしまうほど。
    新書にして教育と関係ない一般の方にも広く読んでもらいたい。

  • 「あなたはなぜそれを学ぶのですか」と問われると、「学びがいがありそうだから」と著者は答える。
    さらに、著者は「学ぶ」ことを「自分探しの旅」と定義する。

    「学ぶ」とは、「自分探しの旅」とはいったいどのようなものなのか。
    認知や情動といった心理学的アプローチだけでなく、文化の伝達や共同体との関わりなど幅広い視点から論じられている。

    説明として頻繁に用いられる「学びのドーナッツ」は非常に単純な図でありながら、「私」と他者や道具・世界との関わりを詳細に表現している印象的な図であった。

    また、教育現場での事例も数多く紹介されており、イメージを膨らませながら読むことができる。学校における「教師」の在り方についても自然と考えさせられる一冊。

    【所在】:中央館3F 図書
    【請求記号】:370.8//Ko21
    【OPAC】:
    https://opac.lib.niigata-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN12437781?caller=xc-search

  • 「学ぶということは、予想の次元ではなく、むしろ希望の次元に生きることではないだろうか」とあった。希望の次元がなければ、よく学ぶことはできない。人口減少社会という地域での「予想」(絶望)や、死という個人での「予想」(絶望)をいかに展望として変えていけるのだろうか。生徒自身を見る前に、周りの関係や次元から見ていきたい。

    また、they的世界をともに見つめるという関係で、初めてyou的世界が作り出される。互いに向き合うから、立場や権力が顕在化する。課題解決や価値創出の過程を、「これから担う」ではなく「一緒に」に組み替えることで、関係を編み直すことができそう。

  • 授業には「身近」と「未知」の両方あることが大事。
    子どもの全てを「まるごと」見るということ。
    「認知」と「情動」は切り離せない。
    関係論的視点から英語教育におけるコミュニケーション能力観を問い直す。

  • 「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」なるほど

  •  p.66 学びのドーナッツ論というが面白い。
     
     自我=Iが、第二の自我を育てる二人称的他者と交流する世界がYOU世界である。THEY世界というのは、匿名性をもつ三人称的他者の世界であり、現実の社会・文化的実践の場である。
     
     以前、私の友人「くらしも」が考えていた、「内と外」の考え方に似ているかも。

     p.75では、この学びのドーナッツ論が、さらに「学校での学びを育てる接面構造」という話になる。ここでは、教師、子ども、教材の関係が話題となる。教師が、子どもにとってどのような存在であればいいのか、分かりやすい主張が展開されている。

     p.140では、
     
     したがって、ドーナッツ論から言えば、先の集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面だといってよいだろう。
     
     という主張になり、集団主義と個人主義が表裏一体であることが主張されていく。これだけの引用では分かりにくいと思うが、私としては目から鱗の話であった。

     最後に、ぜひ一読をお薦めしたいのが、p.200「問題解決学習と系統学習」の話。

     全体として、大学の先生が展開する難しい話かと思って読み始めましたが、教師とは何か、授業とはどうあるべきか、いろいろ考えさせられるよい本に出会うことができました。

  • 「人はつねに、他者とともに学ぶ存在である」。うーんそうだろうか。。
    認知心理学者の視点で教育を語る本。

    学び手の周囲をYOU世界とTHEY世界が囲むとする「学びのドーナッツ理論」。
    秘密を打ち明けられる、「なってみる」ことのできるYOU的存在を通して、自分が「なってみたい、もう一人の自分」に変わるような学びができる。そうした学びと変化を通して、見知らぬ他者であったTHEY的存在とのつながりができる。
    そうして自分を広げ、文化に参加していくことが学びなのだと。

  • 平易なのだが、提示される概念は新規で応用可能性が高い。どうしたらこのような論が書けるのだろうか。問題意識にこだわることの重要さをかいま見る。

    ・「動機付け」「やる気」「学ぶ意欲」などをどうやって起こさせるかという話はぜんぶまとめてウソ。どういうことに意欲を持つかは本来、学び手側にあることだから。
    ・ワロンの言う第二の自我は、現実世界の一般的な他者に対して通訳の役割を果たす。
    ・YOU的他者の二つの側面(親密さと社会性、文化性か)
    ・善元教諭の残留孤児の子どもたちとの教育活動。擬人化(相手のみになってみる)
    ・文化の継承とは知識の受け渡しではなく、生活することにある。
    ・「モノになってみる」ことによる理解は、「知識」が得られるというよりも、結局は「自分が変わる」ということである。新しい自分として、世界を新しく、今までと違う別の(より本当の)自分との関わりで見直し、また、新しく関わり合う、ということなのだ。
    ・「ことば」というのは、道具の一種に過ぎない。ドーナッツ論に拡張すると、「身体化した道具」が他者との接面形成に重要な役割をもつと同時に、道具の身体化に、他者なる存在が重要な役割を持つ。道具と他者の相互浸透性こそが学びを形作っている。
    ・文化というのは、「つくる人」だけで構成されているのではなく、「つくる人」と「使う人」、そして「わかる人」との協同で営まれている。「わかる」がなければ、文化ではない、食うか食われるかの関係。
    ・ドーナッツ論から言えば、集団主義と個人主義というのは、同じコインの表と裏のような関係にあり、同じ「YOU的世界の欠落状況」の異なる側面である。
    ・成長、変化し、個人差が現れるのは、参加の仕方の違いであって、参加しているか否かの違いではない。
    ・関係づくりが集団の外側に向かうとき、集団の構成員間は、先輩・後輩の違いはあっても、基本的には「ともに学ぶ者」同士となる。
    ・教科が不得意になる原因として、その教科の教師が嫌いだというケースが多いにもかかわらず、情動と認知を別々のものとして扱う理論では説明がつかない。
    ・教師は第二接面である「真正の文化へのアクセス」を媒介することに本来の役割がある。
    ・底辺校での実践。成功だけなく、非成功もとりあげた。
    ・個人の「力」ではなく、関係に着目する。保育園でのケイの事例。
    ・フレネ教育の目指すものは、学びの原点を自分探しとし、さらにそれを共同体の相互理解とコミュニケーションの活動に高めていくことにある。
    ・勉強は氾濫するが、学びが失われ、希望が失われる。

  • 子どもの学びを考える

  • 2008/12/10

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著者プロフィール

信濃教育会教育研究所所長・東京大学名誉教授・青山学院大学名誉教授
1939年生まれ。1970年ワシントン大学大学院心理学専攻博士課程修了、Ph.D。 主著『「きめ方」の論理』(東京大学出版会、1980)、『幼児教育へのいざない』(東京大学出版会、2001)、『「わかり方」の探求』(小学館、2004)ほか多数。

「2024年 『実践としての統計学 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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