本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784000047876
作品紹介・あらすじ
文化とは何か、それが人間社会に果たす役割は何か。ジャワやバリの人類学的調査で世界的に高名なギアーツが、哲学・言語学・精神分析学などの各学問領域で作られた文化の理論を超える、より包括的な理論の構築を試みる。その卓越した理論は、宗教・芸術からイデオロギーや政治に至るまで、様々な文化現象の背後に一貫する意味の体系を探り、文化が象徴として機能するシステムを解明する。アメリカ社会学会からソローキン賞を与えられた古典的名著。
感想・レビュー・書評
-
(1〜2巻合わせての感想)
解釈人類学を提唱したギアツの最初の論文集(原著は1973年に出版。1950年代後半~70年代の初めの論文を中心に編集したもの)。
いつか読もうと思いつつ、30年以上、積読のステイタスにいたのだが、かなり、苦労しながらも、ついになんとか読んだ。
これは、今読むためにあったんだな、と思う一方、もっと前に読んでいれば、もうちょっとマシなことを考えることができるようになっていたかも?とも思った。
でも、多分、昔読んでも、わからなかっただろうな。。。。
もともとギアツに興味をもったのは、アメリカの大学で、この論文集の最後を飾る「ディープ・プレイ」を英語で読んで、衝撃をうけたのがきっかけ。
人類学とか、社会学とかいうと、人々の行動の下にある経済構造とか、集団心理とか、その人々も理解できていないかもしれないなんらかの説明を与えるものだと思っていたのだが、この「ディープ・プレイ」は、バリの闘鶏について、バリの人たちがそこにどういう意味を見出しているかという話しをまとめたところで論文は終わる。「これが彼らが闘鶏について語ったことである」みたいな。
つまり、ギアツは、すでにある理論とか、方法論を当てはめて、その人たちがやっていることを観察者や読者が理解できるような形で整理したり、観察のなからなんらかの一般的な法則を見出そうとしているわけではないのだ。
文化的な現象の解釈というのは、その文化のなかにいる人たちが、どういう意味をそこに与えているのか、どんな表象なのか、そうしたことを理解する、というか、できるだけ、その理解に近づこうとすることなのだ。
と、おおむね、そんなふうには理解したのだが、実際にこの本は、読もうとしても、なかなか、なにを言っているのかがわからないし、自分の当時の関心からは、やや遠いトピックが多く、何度か、チャレンジしても、最初のほうで、挫折してきたというわけだ。
今、この本を読む気になったのは、ナラティヴ・セラピーを学びはじめたから。
マイケル・ホワイトは、フーコーの哲学をベースとしていると言われるが、どうもそれだけではないものがあるように思ってきた。とくに、ホワイトは、「ポスト構造主義」を主張しているのだが、「構造主義」への批判は、なんだか言い過ぎている気がしてならなかった。
つまり、「ポスト構造主義」というのは、名前からもわかるように「構造主義」があったから、「ポスト」が成り立っているわけである。ホワイトがいうようにたしかに「構造主義」には、一種の科学主義があるのはその通りだが、言語、あるいは記号・意味の体系によって、わたしたちの思考、そして社会的な現実が構築されているというのは、まさに「構造主義」の思想なのだ。
そして、ホワイトが、「ポスト構造主義」の代表論者として、とりあげるフーコーもすくなくとも60年代くらいまでは、代表的な「構造主義」論者と位置付けられていたし、出口顯さんによると、レヴィ=ストロースのいっていることとフーコーの言っていることとは、「構造的」に同じものである、という議論も存在する。
その辺のところがモヤモヤしていたのだが、これを読んでかなりすっきりした。
まずは、第1章「厚い記述」。まさに、ナラティヴ・セラピーそのものなタイトルで、これを読むと、ホワイトのやろうとしていることのもっとも根源的な思想は、フーコーというより、ギアツなのではないかと思えてくる。
この方法論を踏まえつつ、1巻のつづく章では、「文化」や「宗教」に関する理論的考察と極めて具体的な事例というか、「解釈」が展開されていく。具体的な解釈の対象は、いわゆる未開部族みたいなものではなくて、現代(といっても、おもに60年代)のインドネシアなどで、近代化と伝統的なもののせめぎ合いのなかにある事例。
たとえば、第7章では、ある葬儀における宗教的な伝統間のせめぎ合いと政治権力との関係について、その場でおきたことを丁寧に紹介しつつ、バリの人たちの解釈を浮かび上がらせる。
そして、2巻に進むと、解釈の対象は、かつての植民地が独立した後の政治状況となる。まさにポスト・コロニアルな状況を取り扱っているわけだが、ギアツは、いわゆる文化の解釈にとどまらず、政治、経済などなどとの関係も丁寧に解説していく。独立の達成の一体感は、現実の中で、冷め、またさまざまな文化、言語などなどの多様性から生み出される緊張状況が描き出される。
とくに第10章の「統合的革命」では、インドネシア、マレーシア、ビルマ、インド、モロッコ、アルジェリアなどなどの状況を紹介してあり、60年代当時の状態が理解できて興味深いというだけでなく、強力な国家権力がなくなったあとの多様性が生み出す混乱と対立という現代でも課題となっている状況を理解する一助ともなりうる。
第12章の「過去の政治、現在の政治」は、1980年に名著「ヌガラ」で、「劇場国家」として詳しく紹介されることになる19世紀のバリの政治についての議論。バリの政治について、現代的、西洋的な価値観ではほぼ理解できない解釈が提示され、これもこの論文集の一つの読みどころ。
そして、第13章「頭脳の野生」で、レヴィ=ストロース批判がまとまって展開される。ここでの批判は、1967年に書かれたもので、「悲しい熱帯」と「野生の思考」を主たる対象としたものである。ギアツの解釈学的な方法論からみれば、レヴィ・ストロースの見えない構造を見出す構造主義的な方法論が批判の対象になるのは、よくわかる。ギアツは、レヴィ=ストロースをライバルというか、仮想敵にしている感じがあって、その批判の原点はここにあるんだなと思った。
で、ホワイトは、おそらくは、この論文の「構造主義」批判を読んで、影響を受けていたのではないかと思った。
ナラティヴ・セラピーの本では、「構造主義」を科学主義、合理主義、客観主義、機能主義、行動主義などと同様の概念として、いわば「モダニズム」と位置付けて、「構造主義」と「ポスト構造主義」の違いを強調していることが多い。
わたしの理解では、少なくともフランス現代思想における「構造主義」と「ポスト構造主義」の関係は、連続性をもったもので、いわゆる「科学主義」とは距離をおいたものだと思っている。(もちろん、ギアツのレヴィ=ストロース批判が間違っているわけではなく、論文の発表時期から想定して、ギアツは、多分、デリダの議論は読んでいないと思われるが、デリダのレヴィ=ストロース批判とも近接した論点を提示していると思われる。)
そして、最後、第15章「ディープ・プレイ」も久しぶりに読んで、やはり面白かった。昔読んだ時は面白いけど、「バリの闘鶏はそういう意味だということはわかったけど、それがなにか、一般的な意味があるのかな?」という疑問が残った。
今、読むとこの論文のもつ意義がもう少しわかってきたように思える。つまり、ある特殊な事例かもしれないが、それを提示することで、一般化されていてそんなもんだろうという支配的なディスコースをゆらがすことができる。といっても、古いディスコースを新しいディスコースに置き換えるということではない。単にマイナーな事例を記述しているだけでもない。なにか、そういう微妙なことをやろうとしているんだな〜と。
そして、この微妙さは、やはりナラティヴ・セラピーにも通じるものがあるのかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
古典を折にふれてひもとくのは良い事だ。
吉田禎吾の作品
本棚登録 :
感想 :
