- Amazon.co.jp ・本 (440ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000056786
感想・レビュー・書評
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フランスの権威ある哲学者たちに、アメリカの物理学者がストレート・パンチを食らわせた爽快な一撃!
ポストモダンやポスト構造主義といった、マルクス主義以後の新しい哲学と実践を模索していた時代、難解な専門用語を振り回し、そこに数式や物理学の法則まで持ち込んで、さらに話をややこしくし、知的な雰囲気を振りまいていたフランスの哲学者、ジャック・ラカン、クリステヴァ、ポール・ヴィリリオ、ジル・ドゥルーズといった連中に対して、アメリカの物理学者ソーカルが、その科学的な装いの不正確さを一つ一つ執拗にあげつらい、ポストモダンの衒学的なタワゴトのデタラメさを白昼のもとに暴き出し、徹底的に叩きのめした。
何を隠そう、その頃オレは、まさにドゥルーズやクリステヴァやポール・ヴィリリオの難解な言い回しを、分けも分からずに有り難がって読んでいたという・・・・。
バカである!
連中は、現代のソフィストだった。
そして、この書物を通じて、流行の思想に乗っかってしまうことのダメさを痛いほど思い知らされた。
もー騙されない!
ただし、ソーカルは単なる理系のギークであって、彼にイデオロギーはない。
科学者として、科学的な記述の間違いを指摘しただけであり、思想的な意図に基づく攻撃ではない。
彼はロラン・バルトやフーコーは批判していないし、社会科学や人文科学の重要性を認めている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ポストモダン系エセ哲学者達の知ったかぶり・ごまかし・知的傲慢さ・知的不誠実さは、自然の事実に対して謙虚で正直であることを信条とする自然科学者から見れば堪え難いもの。本書はポストモダンの言説の「まやかし」的修辞に限って批判を展開する。その左翼イデオロギー性に対する批判は控えられている。また科学的真理の相対主義的解釈への批判も展開されている。
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これは面白い。ソーカル事件自体がかなりの秀逸なイベント性とメッセージ性があるに加え、その解説としての本書の快刀乱麻の突っ込みには快感としか言いようがない。特にラカンとドゥルーズの例文は、極端なものとしてもさっぱり理解できなくこちらがバカなもので・・・と自己嫌悪したところへやおら救いの解説が入る痛快さ。あらゆる攻撃に備え、論理のやぐらを組みまくる科学者らしい狡猾さ。最終章ではジョンレノンばりの詩的なメッセージ表現で感動すら呼ぶ。浅田彰とかはどう思うんだろう?
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ポストモダン思想の潮流のみならず、科学哲学の概要も学べてとても勉強になった。
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物理学者アラン・ソーカルが
1996年に「ソーシャル・テクスト」誌に投稿して
掲載されたパロディー論文に端を発する
「ソーカル事件」の当事者たちによる解説書(?)。
まさしく「科学の濫用」のオンパレードに
噴き出すところだらけで、実に痛快な一冊なのだけれど、
いっぽう、もしこれがソーカルという「道案内役の善意」
がなかったら、果たして自分はこのインチキ科学濫用の
ポストモダン・テキストに騙されない自信はあるかというと
正直、あんまりない。
というより、もともと私自身、理数系の学問がよくわからず、
いっぽうで文章「構築」には親和性を感じて
生きてきたほうなので、どっちかというとこのポストモダンを
諸手を挙げて誉めていてもおかしくはなかったと思う。
著者たちが触れているように、
この社会構築主義的な見方(=自然科学の実在性の否定)は
宗教への盲信に少し似ているところがある。
たとえば「創造論」にしても、宗教信者がそれを真理と思って
疑わないならば、
いっぽうポストモダンの極端な人々は、そもそも科学のサイドを相対的な
ものとして受け入れないので、結果としては進化学の真実を
認めないことになる。
どっちにしても恐るべき(笑)状況だが、
著者たちの見立てでは、アメリカ人の半分近くが創造論を
信じている一方で(そして政治への影響力も強い)、
左派思想が政治的位置づけも微弱だとしているところを考えると、
まぁ「文系学問の中の夢想」として放置しても実害は大して
ないのかもしれない。
が、自然科学への情熱(=真理の追求)を持つ人にとっては、
それは耐え難い(自然科学を自己の意味不明な論説の材料にしている!)
のかもしれない。
どうして60年代くらいから、この「社会構築主義」的な
オッソロシーものが文系学問にじわじわと広がってしまったかについて
著者らもいろいろと分析を述べているが、
物理学の発展(とりわけ量子力学)あたりが、その非決定論的な部分で
社会構築主義的なところの濫用の材料にされやすかったとか、
あとは社会生物学のうねりが、社会科学者のこれまでの適当な積み上げを
全部ぶっ壊しにかかろうとしていた、という過剰な恐怖感とか、
そのへんにあったりするのかなと個人的には思う。
実際、世の中の人々の大半は、このソーカル事件の顛末を
知らないし、知ったところでどうだっていいことだ、と思うだろう。
自国のノーベル賞受賞者が出るかどうかくらいは知りたいし、
金持ちになるのに役立つ科学があるならもっと知りたいけれど、
ポストモダンの人文研究者たちの勝手な自然科学濫用なんて興味は湧かない。
とはいえ、その濫用を飯の種にしている人々の言説が、仮に
社会に何か影響を与えることがあるとするのならば、
そこに無自覚であることは、騙される危険があるということにもなる。
ものすごく卑近な例をひとつ。
「朝日新聞は入試によく出題されます!」
→それは、文章が意味不明だから、問題として使い道があるってことでしょう。
本当に論旨明快な文章なら、たいてい誰が読んでも意味は1つなので、
減点式受験問題にはほとんど使えない。
しかし、一般的に、明快な文章とは、良い文章といえるだろうと思う。
裏を返せば、良い文章ではないものとは、明快ではない文章である。
さて、朝日新聞の文章とは…(以下略)。 -
難解です。諭されました。自然科学者(数学者や物理学者)にも社会科学者(哲学者など)にもなれない理由がよくわかりました。例え話やメタファー(暗喩)に科学的専門用語を使うときは気をつけます。伝わり方を制御できなくなりますので。
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ソーカル事件の顚末を含め,哲学・思想業界における自然科学用語の不当な氾濫を糾弾する本。衒学を見抜けず,なんか高尚なこと言ってるな…と感心してしまうのは悲しいので,こういう例に学んでおきたい。
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ソーカル事件をほぼリアルに見た世代としては、懐かしく眺めました。
英語版をずいぶん昔に読みましたが、今回はじめて邦訳を眼にしました。
文芸用語の翻訳にとても四苦八苦している様子がうかがえます。
でもこの本は出ないほうが、面白かったなあ、正直。
『Transgressing the Boundaries』を「あはは、うまい、うまい」とニヤニヤ笑うほうが読者としては楽しかったです。
「人文学者としちゃ、あんたら大したモンなんだろうけど、数学なめんなよ」がソーカルの心情だったんじゃないかなあ、と。 -
2010 5/25読了。筑波大学図書館情報学図書館で借りて読んだ。
かの有名なソーカル事件の後に本人らによって書かれた、ポストモダンの中での科学用語の濫用を実例を示しながら指摘する本。
実際の濫用の例を示しながらソーカルらが注釈をつける章と、科学用語の濫用以外の認識的相対主義について扱う章から大きく構成される。
引用と注釈からなる各章は、わけのわからない引用部分について「わけがわからない」あるいは「間違っている」、「説明が足りない」と著者らが指摘する構成。それらと「はじめに」、「エピローグ」については著者らの意見に賛同する。
少し気になったのはクーン、ポパー等の科学哲学について扱った間奏部で、特にクーン理解については(最近自分がクーンの著書を読んだばかりであることもあり)疑問を感じる。(少なくとも『科学革命の構造』の時点では)クーンはソーカルらに近い立場のはずだが(あるパラダイムが採用されるのは、文化的な要因等も関係するにしても、それが以前のパラダイムより多くのことを説明できるためというのが一番大きい、というのはクーンは指摘しているはず)。
パラダイムと実験結果の関係についても、実験結果そのものがパラダイムで変わるというのではなく、どういうデータが重視されるかとか、あるいは実験そのものの設計が変わるとかいう話であって、結果の改ざんとかそういう話ではないはず。
とまあ、ひっかかるところはあるが、全体を見れば著者らの主張はうなずける点が大きいのも確か。自戒も込めて。