- Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000073554
感想・レビュー・書評
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個人あって経験あるのではなく経験あって個人あるのである。
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●西田幾多郎の哲学の真骨頂である「純粋経験」について書かれた本。非常に難解で理解できたとは全く言えない。
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リファレンス多数の大書。書評などと憚られる部分もあるが敢えて。
〝♪愛はー、どーこからーやって来るのでしょう〟その一旦の応えは本書にあると言えるw。
ビックマックを買いに行くとしようw。法的には「腹が減った=動機」と言い、「ビックマックがいい、買おう=内心的効果意思」と言い、さらに「店に入ってビックマック二つ、と言うぞ=表示意思」んで「ビックマック下さい。二つ。=表示行為」って分類があるんやけど。これはモロに本書を引用していて。
善というのは、上記で言えば「動機」と「内心的効果意思」にある「そういや、アイツも飯食ってなかったな」というプリミティブな気配りを言うと定義していると思う。そこに、よく思われたいとか、普段お世話になっているからではなく、本能的に知ってる「喜んでくれたら嬉しい」こそソレだと。
もっと言えば、買ってきてもらった側が実はオムスビ持ってても「ビックマックうめー」って頬張るのも善よね。生きてるうちにしか、そーゆー交流は無いんだから。
育児に携わって初めて知った事なのだけれど、ママゴトを子供がするのは、それ(調理や催しなど、親の営み)で人が喜ぶというのを、親の生活から学習しているからではないか。
我々に組み込まれた初源的なプログラムに触れることができる、恐るべき一冊と言える。 -
再読。
個的な人格の追及を善とする西田の論では、
迷妄的な主観の放棄はおろか、客我からの自己統制といった事象すらも存在しない、いわゆる主客合一がその到達点とされる。
ここまでの論に関しては、今までの自分自身にも多少感得する部分はあったと言え、
その主客合一による「知」を、「愛」へと連携させたその西田の回路はあまりに見事であった。
現在の自分を顧みれば、部分的には、主客合一的な生活、日常を営むところはあるものの、
それが対人となった場合や、社会的な災害の際には全くもって働いておらず、自らの欠落をひしひしと痛感するばかりである。
夏目漱石は、ある談話の中で、芸術家や科学者を「我儘」であると述べ、その性質を「道楽」という言葉で以て表していたけれども、
西田の解釈をここに加えるならば、その「我儘」というものは、
「主客合一」とおよそ関連深い言葉であり、
従って、自我中心ということでは決してないと判断でき、
宇宙意志の発露として捉えてもよいのではないだろうか。
また近代の労働観を介入すると議論は極めて混迷へと向かうが、
金銭が発生するものを「仕事」として捉えるのではなくて、
(言い換えると専門性による金銭の享受か)
その他対人的な営み、社会生活においてのもろもろの事象における動きにも、「宇宙意志」は発現されるべきであり、
金銭に変換不可能な動きを「仕事」として再定義していく必要が今後の社会には必要になってくるのであろう。それを端的にボランティアや社会的行為という言葉で片付けるのは賢明ではないこともまた事実であるが。
ただ、例えば持続可能性が、地域へと人々が戻っていくことで成立するのであれば、果たしてそこには本当に西田のいうような個人性の発展と社会性の発展が同等に進んでいくような暮らしというものは実現可能なのであろうか。日本の農村で言えば、もちろん宮本恒一のみた形での会合の如きものはあったとは言え、基本的には出る杭は打たれるといった側面が往々にしてあったに違いない。いわゆる全き世界のピダハン族の生活にもおよそ成長や発展というものはなかった。またここはこれからの課題として、追求したいところ。宮沢賢治もおそらく同じことを述べていた気がするけれど。
ただ一つ言えるのは、神はそれぞれの人間にその出生を選択させなかったのだ。時代や環境はおろか名前すらも生まれる前に与えられて、個は誕生するのであるから、善とはやはり社会的な部分、もっと言えばその時代や環境に関わる部分にしか存在しえないということが断言できるのであろう。
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善行為とは凡て人格を目的とした行為であるということは明かである。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格の絶対的価値をもっているのである。
いかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない
富貴、権力、健康、学識もそれ自体において善なるものではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其物を目的とした即ち意識統一其物の為に働いた行為でなければならぬ。
善行為とは凡そ凡て自己の内面的必然より起こる行為でなければならぬ。
自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。
己の真摯なる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽くして全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのである
その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と一致したものでなければならない
主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみに至る
個人において絶対の満足を与えるものは自己の個人性の実現である
余は自己の本文を忘れ徒に他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各十分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ
或行為が事実としては善であるがその動機は善ではないというのと、一は動機は善であるが、事実としては善でないというもの
世人は往往善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし事業の種類はその人の能力と境遇とに由って定まるもので、誰にも同一の事業はできない。
いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。
実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る、吾々の真の自己は宇宙の本体である
我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後甦るのである
選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となる
知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなる。直覚の方がむしろ知である。
我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想臆即ちいわゆる主観的のものを消磨し尽くして物の真相に一致した時、即ち純客観に一致して始めてこれを能くするのである。
我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自合一、その間一点の間隔なくして始めて真の愛情が起こるのである。
美術家は良く自然を愛し、自然に一致し、自己を自然の中に没することに由りて初めて自然の真を看破し得る
我々が自己の好むところに熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々と働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。