キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット 759)

  • 岩波書店 (2009年6月5日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (64ページ) / ISBN・EAN: 9784000094597

みんなの感想まとめ

現代の価値観の多様化や人間関係の複雑化をテーマにしたこの書籍は、私たちがどのように生き抜いていくかを考えさせられる内容です。特に、他者との関係を築くために意図的にキャラクターを使い分けることが、現代社...

感想・レビュー・書評

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  • 意外と結構よかった。
    2009年発行の薄いブックレット。ケータイとか圏外とか、ところどころ今の時代とはずれるが、SNSで同質的な相手と簡単に繋がれる時代、という点では全く問題ない。

    自分のキャラを強くアピールしてくる子は、そうすることで、自分を守ろうとしているのかもな、という考えに至れた本。

    今は、多様性が多様過ぎて、価値観の基盤が無くなっている。ある視点での良いも、違う視点ではだめになる。
    基盤が無いと、自分も何をよしとして、どう軸を作ればよいのか、子どもも分からなくなる。
    昭和ならガチガチな校則や、圧倒的な権威主義に、ある者は反抗し、ある者は持論を唱え、自己を確立できるが、今はそういうのが無い。

    あるのは、友達からのイイネ。
    そうすると、友達からの評価で自分の価値が決まっていくような気になっていってしまうのかもしれない。
    そうして、イイネをもらうために、さらにキャラ化する。そういう時代を、アイデンティティを確立する大事な時期、子どもたちは生きているのかもしれない。

    そして、それが教師にも当てはまる場合があると。

    生徒からの評価を得て自己肯定感の基盤にするために、煙たがられる教師というより、友達のように振る舞う教師。生徒に媚びる教師。(そうじゃない先生も、もちろんたくさんいる。)

    「自己肯定感の基盤として、人間関係に依存しがちな人々が、世代をまたがって増えている。」と。
    ある特定の教師は生徒に依存し、生徒は気の合う生徒内で依存し合う。
    そのために自己に与えられたキャラを強化する。
    同質的な者同士で群れて、異質な者は、排除する。
    親子においても起こり得るし、起きているのではないかと。

    「異質な者は、排除することで社会の治安を守る」
    「環境管理型の治安対策をする。」
    そうしたい気持ちもわかる。
    が、そうではなく、
    「避けたくても避けようのない不都合な人間、向こうから迫ってくる異質な人間との付き合いを通じて、じつは不本意な自分、異質な自分との付き合い方も、否応なく学べるのではないか」

    「異質な他者の視点から自身を相対化して眺める力は、【不気味な自分】に出会ってしまったとき、その不安からパニックになるのを防いでくれる耐性力にもなる」、と。

    避けたくても避けられない具体的な相手がいる場合、この付き合いが巡り巡って自分を強化すると思えば、救いになる気もする。愚痴れる人がいるなら愚痴って、社会として完全排除はしない。ということか?適当に付き合うということか?
    理想は異質と思える人とも、互いに、話し合いましょー♪か

    異質性にもやはりよる気もしてしまうし、痴漢、セクハラ、パワハラ、性被害などは、駄目なものは駄目と思うが。

    キャラの話から、異質な他者の話まで。
    なかなか勉強になったし、いろいろ考えさせられる本だった。

  • 人と関わる際に出てくるキャラに支配されてる感はなくもない。それも全部ひっくるめて自分だ、とは思っているけど

  • 薄い冊子だが、中身は濃い!

    現代日本の価値観多様化、人間関係複雑化の中で、我々はどうやって生き抜いていけばよいか、みたいな話。

    ・価値観の多元化によって流動化した人間関係の中で各々の対人場面に適合した外キャラを意図的に演じて複雑になった関係を乗り切っていこうとする。
    →組織毎に相手に応じて、色々なキャラを使い分けるのはひとつの技術みたいなものと。

    ・現在は場の空気に流されない一貫的な自己では生きづらい時代。どんな場面でも自分らしさを貫く、大変な世の中。
    →この生き方はカッコ良く思えるけど、複雑化した世界では難しいみたい。自分らしさを常に出すって大変なんだね。

    ・(価値観が多様化する中で)大人たちは自分たちを抑圧する敵ではなくなった同時に、人生の指針を与えてくれる絶対的な拠り所でもなくなっている。
    →父親として子供に接する自分自身に当てはめて考えてみた。確かにそうだなあ~と。

    ・(学校現場における教師と保護者の関係)教師は自分自身を守るために、保護者のクレームの中身を冷静に分析することもなく、理性を持たない怪物が発する雄叫びのようなものと捉え、即座に全否定してしまいがち。
    →良い悪いでは無く、教師の側はそういう風に捉える事もあるんだなーと納得。

    ・親からの攻撃的なクレームはそんな脆弱な自己肯定の基盤を根底から揺さぶる。教師の側も他者の反応に過敏になっているため、自己防衛の手段として攻撃的になる
    →最近、そういった体験をしたなあ、親の方の立場で(苦笑)

    ・今日では、立場の異なった相手と意見を闘わせて理解し合うのではなく、異物と見なして最初から関係を断とうとする(これを著者は「圏外化」と表現)傾向が強まっている。
    →要はコミュニケーションをあきらめちゃう、そもそもコミュニケーションしないってことか。自分は、コミュニケーションの溝を埋めるようにやっぱりあがきたい。

    ・つまづいた自分と向き合う力が重要。その力をつけるためには、多種多様な人たちとの世代を超えた出会いと共闘が必要。
    →自分と異質な人を排除、圏外化することなく、頑張って付き合ってみる事が重要よと。

  • 今の時代の価値観の変わりようがとても鮮明に説明されていて、読み応えがありました。

    社会が限られた価値観を押し付けていた時代と違って、これっていう価値観の基盤がない分、自分の確かさが揺らいでしまう、そのことに不安を覚える若者たちが、周りの人たちから表面的な承認を得るための方法が、キャラ化。

    人間関係格差とか、ハッとする言葉が多くて、今の時代の子供達が、学びに向かわないのもわかるなぁとしみじみと思いました。
    周りの友達が認めてくれればいい、生まれた時から自分の本質は決まっている、こんなふうに思っていれば、勉強で自分をよくしていこうとは思わないだろうなぁと。

    ページ数は薄いけれど、今を捉えるために読んでみてほしい一冊。

  • ここに書かれているような環境はすでに変化しており、古く浅い内容と言わざるをえないと思います。
    あっ、そういやちょっと前までこんなことよく言われてたな…という感じです。

  • 要は自分が苦手な人と向きあう耐性をつける必要がある、ということ。
    そうしないと、自分がつまづいたとき、その理想ではない自分に向きあえず、うつとか無差別殺人犯になってしまうのだとか。なるほどなぁ…
    人見知りとはまたちがうんだろうな。

  • 第二章 アイデンティティからキャラへ
    2、内キャラという絶対的な拠り所。

    「生まれ持った本当の自分の姿を大切にし、それを支えてくれる温かい人間関係に包まれていたい」という心性は、おそらく今日の若い人たちに、広く共有されたものでしょう。

    (⚠️子供たちに向けてと明記しているから、私が読んで居心地悪いのは当たり前かもしれないけど)

    これは理解できるけど、例示として出されてる、地元つながりへの愛着の強まりは、あまりピンとこなかった。

    主観として、私が中高と比べた時には、大学の自分が一番好きだし、(今後も今が一番好きって言いたいなぁ)大学のコミュニティが一番心地いいと感じたからもあるけど。
    生まれ持った本当の自分の姿、つまるところ内キャラって、本当は存在しないじゃんかって、読んでいて居心地の悪さを覚えるから。

    居住地から移動する前の「自分」が、生まれ持った本当の姿だとは思わない。労働要素を排除してるって意味での例示なのかな?

    内キャラ=固定的な人格イメージを人生の羅針盤に据えようとする心性。とあるが。

    終章で土井先生も言っているように、

    「本来、自分とは想像以上に意外性を秘めた存在のはず」だから

    「自分らしさなるものも、キャラのように固定的なものではなく、その想像の臨海を超えて変化していくもの」のはず。

    中高生の頃読んでいたら、居心地良かったかもだけれど。

    私は大学生活で、
    ①沢山の人と対話して否定もされて内省したこと
    ②WINSで優しい尊敬できる先輩同期後輩に囲まれたし、活動に夢中になれたこと
    ③就活での言語化を通じて、自分という存在に言葉によって居場所を与える方法を得たこと

    でわ自分を好きになったし、友達のおかげで居心地良い場所を見つけられたし、今後何者か?でなくて、自分が大事にしたい価値観や周囲の人を加味した上で「何者になりたいか?」こそが重要と言えるから。

    だからこそ、過去に引っ張られる気がして、少し心が重くて、暗くなった。
    これは小説じゃなくて社会学的な分析だから、本当は読み物じゃなくて、現実として受け止めなきゃだけど。

    コロナであまり人と関われない今、一人で読むだけでは気持ちが溢れちゃった。
    誰かと話して、共感と非共感を、共有したい。
    そんな時間が少ない今って、やっぱりしんどい。

    それくらいには生きた社会学なのかな?
    院試の筆記で、後期近代の個人化や排除型社会への移行に置いての、<人と社会の関係の変化>側面として存在論的不安を上げるときの具体例を盗もうとして読んだけど。
    これ描いてると納得感薄いから、存在論的不安の話する時も共感できるネタを他にみつけよ。
    土井先生すごいなぁ
     

  • 人間関係のカースト化→各カースト内でのフラット化→「対立をはらまない限りにおいてお互いの差異を認め合うという基本的な態度だけ」→アイデンティティからキャラへ
    カースト化→宿命主義

    話の筋は理解しやすい。
    「キャラ化」は子供に限ったことでなく、あらゆるシーンに存在することは、思い当たるところがあるでしょう。
    それに対して一理ある説明がなされているので、
    そのようなあり方に疑問を持っている人は、本書がヒントを与えてくれると思います。

  • 一貫したアイデンティティとは違う「外キャラ・内キャラ」で説明されていたので腑に落ちた

    生徒に好かれようとする教師に気味の悪さを覚えていたけど、イマイチ自分では説明がつかなかったので、この本の説明に納得して、スッキリした。
    ・教師が子供と対等の関係になろうとする
    ・評価は自分より上の存在からされるものではなく、たくさんの同等な人々からされるものへと変化した
    ・内キャラは所与のものだから一生変わらないという意識
    →生徒からの支持を得ることで揺らぎがちな自尊感情を補填しようとする

    わかる。

    たまたま大学受験勉強中の模試の問題で出会った文章だけど、面白かった。
    誰もが抱える「異質な自分」との向き合い方。
    考えていきたい。

  • 2016年6冊目「キャラ化する/される子どもたち」読了。

    センター試験にも出たということで読んでみた一冊。出だしの部分は、現在の若者と当時の若者を説明しているが(う~ん…そこまででもないな)というのが正直な感想。しかし、後半に進むにつれ、非常に面白い考察になる。先日、NHKでも不寛容社会が話題となっていたが、本書でも述べられている排除型社会の克服は我々の課題だと感じる。さらには現代に生きる若者が自身のアイデンティティを確立するには、今まで以上の悩みや葛藤があり、今まで通りとはいかないことが良くわかった。P.54からの第4章はとても参考になる。

    ----(以下抜粋)-----
    「多様性を奨励するようになった新しい学校文化のなかを生きていま…そのため、学校文化に反旗を翻すことで成立していた非行文化は、その基盤を徐々に失いつつあります」

    「コミュニケーションの対象とされるべき共通目標があれば、その技法が多少下手であっても、目前の切実な必要に迫られてなんとか意志疎通を図ろうとしますから、コミュニケーション能力の有無は二の次の関心事となります。しかし現在は、人々の関心対象が千差万別になったことで…切実な話題は少なくなっているのもかかわらず、自己肯定感の基盤であるコミュニケーションの場はつねに確保され続けなければなりません。その結果、コミュニケーションの形式やその能力だけが極端にクローズアップされることになります。」

    「自分に評価を下す人間も超越的な他者ではなく、自分と対等な他者となります。…大人たちは、自分たちを抑圧する敵ではなくなったと同時に、人生の指針を与えてくれる絶対的な拠り所でもなくなっているのです。」

    「「がんばれば必ず成功する」という生徒と、「何をやっても無駄だ」という生徒のあいだで、意欲の二極化も進んでいます。…「生まれ持った資質によって人生は決まる」という感覚の広まりを示唆しているように思われます。…人生の行方はあらかじめ定まっていると考えている点では、どちらも同じ心性の持ち主のように思われるのです。」

    「いくら完璧なセキュリティの壁を周囲に張りめぐらしても、真に不気味で異質なものはその内部から紡ぎ出されています。」

    「ネット環境が整う以前…意中の相手とつながりあうためには、自分にとって不都合な人間とのコミュニケーションも途中で経由しなければなりませんでした。」

    「今日では、一人でいることの孤独から逃れようとして多用されるケータイが、かえって一人でいることの恐怖を募らせるという皮肉な事態が生まれています。自己肯定感の揺らぎを手っ取り早く解消しようとして、同質な人間だけで固まってしまいがちになっているからです。」

    「読売新聞が2003年に発表した全国青少年アンケート調査によれば、75%が「努力しても成功するとは限らない」と回答している…まるで「自信がないこと」にかけては誰よりも自信があるとでもいうような、「確固たる自信のなさ」というべき態度が、若い世代に蔓延しつつあると指摘してます。」

    「ネット環境の発達でコミュニケーションが便利になった反面、雑多な人間と出会う機会を意図的にでも設けていかないと自己の耐性力も育ちにくい時代なのかもしれません」

    「意図的にウォーキングでもしないと足腰が弱りがちな時代です。同様に、ネット環境の発達でコミュニケーションが便利になった反面、雑多な人間と出会い機会を意図的にでも設けていかないと自己の耐性力も育ちにくい時代なのかもしれません」

  • 図書館で借りた。
    一ページ、一行たりとも無駄のない、凝縮された内容だと感じた。

  • <子ども>たちとたくさん接してきていた身としては、すべてに首肯できるわけではない。
    でも、確かに一つの見方なのだとは思う。

    かつては、アイデンティティ(自己同一性)を確立するために若者はもがき、
    現代は、キャラを確立させるために、もがく。

    ***

    時代性という言葉を闇雲に使うのは嫌いなのですが、嫌おうが避けようが確かに時代が作り出すものはあると思う。
    90年代末~00年代が高校~大学時代だったのだけど、
    特に90年代末って、崩壊への憧れとか破滅の美しさとか、そういうものがもてはやされていた気がする(そういうものばかり自分のアンテナにひっかかったともいえる)。
    そうして、なんとなく、いつかこの世界が美しく消えるという幻想というか希望の中で、自己の裡へ裡へと潜っていく。だからこそ他者との関係性というのは、今思うと、必死で痛々しいまで「己」を守って崩さないようにするものだったような気がする。
    それが今は、キャラという他者に保証されないとなりたたないものに変わっていっているようだ。だが、他者といっても、完全なる他者ではなく、自分´とも言いえるような不完全な他者からの認証を得なければならない。
    難儀な時代になりましたね。

    印象的だった部分。
    しかし、よく考えてみれば、コミュニケーション能力ほど、その評価が他社の反応に依存するものはありません。コミュニケーションとは、その原理的な性質からして、けっして自分の内部で完結するものではなく、つねに他者との関係の総体だからです。コミュニケーション能力は相手との関係しだいで高くも低くもなりうるものです。それは、じつは個人がもっている能力ではなく、相手との関係の産物なのです。(P28)

    ***

    最近、00年代後半の小説をよく読む。
    90年代J文学(!)と言われた風潮の中にあった、美しい破滅、というのはどうもないらしい、確かに世界は変容したけれど、一瞬にして世界が崩壊することはあり得ないらしい、ということを知ってしまった後の小説は、なんだか酷く絶望的で、諦観にあふれているような気がする。
    うん、たぶん、自分が選んでいる本の傾向。

    90年代J文学にあった、あの破滅への憧れみたいなものは、ある種の希望であり、ある種の救いであったのだと思う。さて、すでに10年代。これから何処へ向かうのか。
    自分の中の読書史がぽっかり空いた00年代中盤~後半の本をゆるゆると読みながら、これからを見ていきたいと思います。

  • 2009年に出た本。
    63ページしかない薄い本だが、中身は濃い。

    刊行当時は、子どもたちの間で「キャラ化」が横行するようになったことへの注意喚起や問題提起のために書かれたのだと思うが、現在ではその傾向はさらに加速し、もう後戻りができないところまで来ているように思える。

    人生という物語の中で、揺らぎや葛藤を乗り越えながら自身のアイデンティティを確立していく営みが失われ、自分にも相手にもシールのようにペタペタと「キャラ」を貼り付けていく。他者評価が拠り所だから「キャラ」を守ることに必死。持って生まれた性質で人生が決まるから努力なんてムダ、という宿命主義的な考え方は、「親ガチャ」「実家が太い」のような言葉にも象徴されている。そんなふうにレッテル貼りをされたら、無限にある可能性に蓋をしてしまうだろう。実際に、昨今の小中学生は、前向きで何をやらせてもよくできる子と、無気力で何をやらせてもダメな子に二極化しているそうだ。

    知人が面白いことを言っていて、「キャラ化からはもう逃れられないのだから、キャラをポジティブに使えないか?」と。キャラは何も一人につき一つだけと決まっているわけではないのだから、良いキャラ付けをたくさんすることで、それに近づこうとするポジティブ行動を引き出すことができるのではないか?人格には多面的な要素があって、それらが葛藤したり統合したりしながらアイデンティティが形作られていく。物は言いよう、使いようで、「キャラ」という概念を使って、子どもたちに君たちの未来は希望と可能性に満ちているというメッセージを伝えられたらいいと思った。

  • 「人間関係への強迫観念から解放され、真に自己の安定を得るためには、たとえ一時的には自己肯定感が揺らごうとも、異質な他者とも付きあっていかなければなりません。もはや普遍的な価値の物差しを内面にもちえない現代人は、そうやって多種多様な人間どうしの人的ネットワークの網の目のなかに、自分肯定の基盤を見つけていくしかないのです。」(p.60)

    狭い世間に閉じこもっていては、ひとつの失敗が破滅的な意味を持つと思い込んでしまうことがある。
    「自分はだめだという自信」を持つ若者というのも覚えがある。

  • 一元的な価値観の下で生きることを強制される点において、近代以前は良くも悪くも安定した「静的な社会」であったののにたいし、現在の日本には様々な価値観が併存し、互いに競合しあっている。どんな判断も、別の観点からすぐに相対化されてしまう不安定で「動的な社会」である。

    特定の生き方をだれも強制されなくなったという点では、現在の日本は「ユートピア」であるが、しかしそれゆえ、相手が何者か分からないまま不透明な相手と常に向き合って生きなければならない点では、また、自分が何者であるかも根本的にはわからないまま、不透明な自分と常に向き合って生きなければならい点で、現在は同時に「ディストピア」なのである。。

    これは、すごく納得。自分のころと今の若者の生きる社会は変わっているのだと思えば、色々な最近の出来事もより理解できる気がした。

  • 社会学部 松澤俊二先生 推薦コメント
    『ネットが普及して、いつでもどこでもつながれる日常。そこに現れるマイナス面とは。人間関係に息苦しさを感じている人にも。』

    桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPAC↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/book/497381

  • 個人的にはかなり納得できた。

    リカちゃんの顔、初期の方が好きだな。
    特にしっくりきたのは砂の器のドラマの事例ですね。以下はレビューというより自分用のメモです↓

    以前あった画一的な学校への対抗、という指針がなくなって、社会が多様化に向かっていく。そもそも自分とは違う異質な人種とは最初から関わりをもたないようになる。


    似た人同士で繋がりを持つことで生まれる閉塞感→ガス抜きとしてイジリというカタチでいじめに繋がる事例が発生する。


    多様化した社会で絶対的な拠り所を失う→生まれ持った素質を拠り所にしようとする。


    少年犯罪が起きても、社会全体の問題として捉えるのではなく、事件を起こした少年の異質性として捉える傾向にある。犯罪少年のキャラ化。異質なものを排除するという流れ。


    自分の中の不気味と向き合う力。

  • 納得したなぁ〜

  • 友達地獄の土井先生の著書。センター試験問題にも出たことで購入。
    個性重視の檻に縛られすぎてないかと思いふける。
    キャラ化される子どもたちと同世代であるため、自分を単一化しキャラクターで生きていく楽さは納得がいく。

  • 参考文献
    社会学

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著者プロフィール

筑波大学人文社会系教授/社会学

「2018年 『談 no.112 感情強要社会』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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