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Amazon.co.jp ・本 (280ページ) / ISBN・EAN: 9784000112130
感想・レビュー・書評
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関口時正「ポーランド語文学を語り続ける〈民族〉」を読む。
ポーランドという民族の使命をミツキェーヴィチや
ブロジンスキは説いた。日本人のわたしでも胸は熱くなる。逆境にあるからこそ、意識づける、生に意味を与える言は高らかに響く
民族の魂。日本人が主張するとおかしな感じになる。神道的な、帝国主義的な響きがある。苦しんできた近隣諸国の呻きがきこえる。しかし、ポーランドでは違う。
ポーランドが侵略した歴史もいくつかある。侵略した歴史は両国ともにある。しかし、侵略された歴史は日本にはほぼないことが大きい。逆境を支える言葉が宗教の言葉ならば、ポーランドを鼓舞したことばは宗教の言葉だ。
ナショナリズムと宗教は共に逆境を鼓舞する時、真価を発揮する。攻撃を盛り上げる時、これらはマイナスになりうる。他者を見えなくさせるが故に。
ーーー
ポーランド人巡礼者はポーランド民族の魂である。
巡礼者であるポーランド人の誰一人としてさすらい人とは呼ばれぬ。なぜならばさすらい人とは目的もなくさまよう者のことだからである。
また流人とも呼ばれぬ。なぜならば流人とは、政府によって流刑に処された者であり、ポーランド人は自らの政府によって流罪を言い渡された者ではないからである。
巡礼者であるポーランド人は未だその名をもたぬ。だがやがてその名は与えられる。キリストに従う者たちにもやがて名が与えられたように。
今しばらくポーランド人は巡礼者と呼ばれるだろう。聖なる地、自由なる祖国をめざす旅を誓い、これを見つけるまで旅する誓いを立てたからである。
ミツキエヴィッチ『ポーランド民族とポーランド巡礼者の書』
ブロジンスキ「ポーランド人の民族性について」
ピャスの地に、キリストを信仰する使徒が初めて降り立った時、粗末な祭壇の火を守る一人の乙女が彼の目にとまった。「そなたがそうして守る火は一体どのような火か?」と問われ、乙女は答えたーー「これはわたしたちの遠い祖先に天から遣わされた火。祖先たちが増やしていった集落の一千にものぼる祭壇にともる火は、すべてこの種火から移されたものです。家々では、客を招いての宴の簿火に、婚礼の松明に、葬送の焚き木に、収穫の祭に、平和の折、戦いに勝利した暁にこの火を用い、人々はこの火を前にして〈我らこの火とともに生き、この火とともに天に帰りゆくべし〉と誓います」。これを聞いた使徒は嘆息し、わが意を得たりと次のように語ったーー「わたしの運んできたこの不可視の火を受け入れることのできる、清純きわまりない民が、正にここにいる。この民にわたしの胸の霊(息)を吹き込むならば、彼らは、すべての人間のためキリストの裡に苦悩する、誉れ高い者となり、やがては神の火の幸せな守り手となるだろう」。やがて祭壇にあった目に見える火は徐々に消え、目に見えぬ神の火がこの民のすべての者の胸に宿った。そしてこの後、この民族はただ一つの霊によって生きつづけることになるが、その霊はこの民族にしかふさわしくないものなのである。(中略)私がここで言う火とは、民族性のことであり、ポーランド人はこれを愛することにかけて世に知られ、結果としてこの世ではポーランド人はポーランド人以外の何者にもなれないのである。(中略)もしもわが民族が、自らの使命を果たすために、この世で初めての例(模範)として、一世代もろともに敢えて苛まれ、殺されたのだとすれば、その意志はやがて勝利するのである。我らの遺骨は聖なるものとされ、その上に建てられた十字架は、キリストの弟子であるこの民族の墓へ詣でる諸々の民のための道しるべとなるだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
印象に残ったところの抜粋。
p.4
「スコットランドというネイションは、グレート・ブリテンという連合王国が成立することの中で、創造的かつ想像的に自覚され構築されたのである(中略)
スコティッシュネスが、グレート・ブリテンという帝国に支配され、抑圧され従属させられていく中で、逆にスコットランドの人々が帝国の拡大に最も貢献していくという、ゆがみときしみを内在させた関係性。植民地に流出していった在外・国外のスコットランド人によってスコティッシュネスが欲望されていったのである。」
p.128〜130 堀江敏幸、シルヴィア・バロン=シュペルヴィエルについて。
アルゼンチンで育ったのち、渡仏してフランス語で創作を始めるとともに、スペイン文学のフランス語訳を数多くこなし、「翻訳作業を通じて両国語の「行き来」の場を自分の内側に確保してもいるのだが、バロン=シュペルヴィエルの特異さは、彼女がフランス人読者にむけて書いているのではないと主張している点である」。
「フランス語による自己表現を選択しながらその言語への完全な同化を拒み、母国語であるスペイン語を捨てないと言いながらその言語では書かず、しかもその作品を支える言語は、かならずしもその使用者たちに向けて発せられてはいない、と言うのだから。フランスの首都に住み、フランス語で書くという行為が必要とする真の名宛人を不明のままにしておこうというこの明らかな矛盾を解決するのは、複数の言語をよくするユートピア的な読者の存在だけだ。フランスの読者に読まれたいのではなく、フランス語を解する母国の読者に読まれたいとする「あいだ」の屈折。これこそ、母国語からフランス語への越境とも、母国語とフランス語の行き来とも別種の、つまりはそのはざまに横たわる「内なる外国人性」を示す、格好の事例ではないだろうか。「つまり書くためにどこかから力を引き出すことができるとしたら、それはまさしくふたつの言語のあいだに自分が占めているこの場所からだったのです。(中略)私の力は、まさにフランス語のなかには完全には入らないこと、そしてそれをいくらか自分の外に残しておくことなんです」と自己解説する彼女にとっての安住の地は、その最新作のタイトルが示すように「エクリチュールの国」でしかありえない。」
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