ある放浪者の半生

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (290ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000220101

感想・レビュー・書評

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  •  『ある放浪者の半生』は、文豪(と日本では称されるが本国ではそれほどでもないらしい)サマセット・モームから拝借したミドルネームを持つ主人公ウィリー・チャンドランの半生を描いた作品である。全体は「サマセット・モームの訪問」「第一章」「再訳」の三章に分かれている。「第一章」の前に「サマセット・モームの訪問」という章が来て、「第二章」はなく、三章目は「再訳」と題される不思議な章立てである。

    事実上の第一章にあたる「サマセット・モームの訪問」では、主に名前の由来である英国作家と父の出会いが綴られる。主人公の父は藩主(マハラジャ)の廷臣の家柄に生まれながら大聖(マハトマ)の不服従の精神に鼓舞され、特に愛してもいない最下層のカーストの女性と一緒になることで家を出る。寺院の中庭で乞食暮らしをしながら沈黙の行を始めるが、皮肉なことにそれが話題となり聖者扱いされる。インド滞在中に父のもとを訪れたモームが帰国後小説の中で触れたことで、父は英国でちょっとした有名人となっていた。息子が書く物を読んだ父は英国の知人に手紙を書き、ウィリーは英国のカレッジの奨学生となる。

    事実上の第二章にあたる「第一章」では、ウィリーのロンドンでの暮らしが描かれる。留学生たちのボヘミアン的な生活にも慣れたウィリーは文章を書き始める。友人の紹介で出版された短編集の反響のなさに落ち込んでいるウィリーのところに読者から手紙が届く。手紙の主であるポルトガル領アフリカ出身の女性アナとの出会いが機縁となり、ウィリーはアフリカに渡る。第三章では18年暮らしたアフリカを去り、妹の家に身を寄せた主人公のアフリカ暮らしの回想が語られる。

    父や母にこだわり自分の出自を気にするのは確固とした自我がなく、それらに寄りかかることで自分を規定しようとしているからである。西欧人のように唯一神と直面することで自己というものを自らの裡に築き上げる経験を持たない多神教の民は、国家や民族、あるいは社会階層というものに帰属することで自らの自我を安定させようとする。しかし、自分の民族の言葉でなく英語の教育を受け、ミッションスクールで学ぶインド人留学生にとって帰属できる場所とは何処だろうか。

    主人公は愛する女性の中にその答えを求めアフリカ行きを決めるが、18年後のある日濡れた階段で足を滑らせ頭を打つことで啓示の如く悟る。18年間のアフリカ暮らしは自分のではなく彼女の生を生きていたのだと。中年となった主人公はベルリンで暮らす妹の家に身を寄せる。原題「HALF A LIFE」は半生と解するべきだろうが、自立した生活者となった妹とは異なり、主人公はかつての日々を回想することで、残りの半生を送ることになるだろう。

    全編を通じて伝わってくるのは、自らは積極的に動くこともなく、その都度自分の前に現れる対象に寄り添って行動する主人公の態度のいい加減さである。最下層のカースト出身の母と結婚した父を憎み、自己の出自を偽る物語を創作するうち、いつしか自分と直面することを回避する生き方をたどる主人公に割り切れない思いを抱きながらも、どこか奇妙なリアリティーを感じてしまうのは、戦後、アメリカ的な生活にどっぷりと浸かりながら、どこかで違和感を感じている我々日本人にとって案外誰もが主人公に似た日々を送っているという思いがあるからだろうか。

    ナイポールはトリニダード出身のインド移民3世。オックスフォード大学卒業後、BBCの仕事をした後作家活動に入った。旧植民地出身の英語文学作家の旗手として2001年にノーベル文学賞を受賞している。主人公のたどった経歴と作家のそれが重なっているように、旧植民地出身でありながら宗主国の言語で思考し、創作活動をするという作家のアイデンティティーのあり方は、21世紀文学の行方を示すものかも知れない。

  • サマセット・モームと名付けられた人の話になったと思ったら、BBCに書いているタイプライター持ちの記者の話になったり、色々場面転換したなあと思ったら「たぶん、私の人生でもなかったんでしょうけどね」とのセリフで終わる。不思議な物語で、惹き寄せられて読んでしまった。

  •  この小説について語っていたらクレオール文学ですねと言われて、解説とかを読んでみても、クレオールという言葉は一言もなく、いったいこの小説はクレオールなのかそうでないのかよくわからないが、ただ一つわかるのは「己の国の言語」というものが「あんまりない」という「不安定さ」だった。
     主人公の親父と、それから主人公の生き方の対比。時代の問題性の違いが面白かった。主人公の親父は、役人の息子であり、自分の名前は外国のあまり評価されていない(日本では評価されている)サマセットモームからとったものであり、大学をさぼりまくり、身分の低い、好きでもない女と結婚し子どもも産ませ、コネで役人として働いていたところもクビになって、それから僧侶として生きて金をもらうようになり、西洋人のオリエンタリズムに便乗する人間として、びくびくしながら生きていく。
     息子はイギリスに送り出され、そこで学生生活によくありそうな性の奔放な生活を始める。本国でパッとできなかったら、外国でセックスしまくるのは、日本人女性と通じる、というか、だいたいの人間に通じる、個性主義のねじれである。人間は何か個性を持たねばならない。そして、外国にいけば、そこに自由があり、自分を知るものは誰もいない。最初から、自分を特別として表現できる。息子は最初のころはそうして、新天地でそれなりに小説を書いたりして自己表現できて楽しんでいたが、やがて、やっと自費出版した小説が批評家にけなされ、特別がなくなり、読者のアフリカ女とアフリカに行こうとする。まるでヨーロッパや白人とセックスしまくっていた、HUBとかにいる日本人女が、最終的に東南アジア人や中韓人の純愛にハマるかのようだ。
     ちなみに、息子がはじまてやった、化粧品売り場で働くぽっちゃり女がいるのだが、それが素晴らしくリアルで良い。本著で、その具体性が実に際立っている。著者の実体験というか、本当に印象に残っているのだろう。彼氏がいるのに、すぐ誰とでも寝るのだが、それでいて結婚するときは、兄妹のように仲のいい長年の付き合いのある男と結びつく。女性の都合のよさへの、やばいくらいの皮肉っぷりで、つまり、クレオールと、母国語がしっかり確定しないという言語コンプレックスが、先進国でぶいぶい言わせる女性への憎悪に転嫁されて、そうしてアフリカまで逃げるわけだが、そのアフリカでも農業経営をめぐってドロドロがあり、人はどこに行っても落ち着けないということになる。預言者みたいなババアが出てくるのだが、それもやがては追放されていく。アフリカという植民地は、やはり植民地にすぎず、戦争とクーデターは相変わらずで、二等白人になりたい人々ばかりで、つまりは、先進国にいこうが、後進国にいこうが、植民地根性は目に尽くし、自分自身の中からもはぎ取れるものではないとする。最後は、そういった息子の反省の顛末を、息子が妹に語らうところで終わるのだが、少し前ベトナムに行ったとき、俺に話しかけてきて、外国人としか付き合ったことないといっていたボヘミアンな日本人女性はこれを共感して、読むのではないか。30までは遊ぶと言っていたので、あと何年後になるのやら、わからかないが。あの、アゴ長い女と、嘘しか言わない丸顔の女。写メ撮っておいてよかった。そして、こういう写メ撮っておいてよかったみたいなのを、植民地根性という。写メの向こう側にあるのは、女性の笑顔ではなく、笑顔の向こうにいる、白人の彼氏らであるのだから。

  • 父親の生き方に反発し、インド、ロンドン、アフリカと放浪し、40になっても自分の人生を生きることのできない男のお話。

    特段筋らしきものなく淡々と進むストーリー、魅力的なキャラクターもでてこない。そういう意味では、主人公のウィリーの人生そのものな小説だった。しかし、物語・小説としての面白さを感じることはできなかった。300ページ程度の短さだったからなんとか読み切ることができた。

    ノーベル文学賞作家の作品に☆x2の評価をする自分の勇気に乾杯。

  • 人生はすんなりと始まるわけでもなければ、きれいに終わるまけでもない。出生/生育暦を含めて、核たるものに定まらない自己をかかえつつ別の自分を探し、出会う人々の虚実の中を巡り居場所を確立しようとするが、獏たるままな周辺に中途半端に時は過ぎて行く苦いハナシ。人生は進んでいくしかない。真ん中で終わって、でもまだ世界はそこにある。

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