愛しのグレンダ

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000221528

感想・レビュー・書評

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  • 心地よい悪夢。それをイメージではなく言葉で紡ぎだしてしまのがコルタサルだ。ときどき無性に読みたくなる。

  • M.C.エッシャーの絵を見たことがあるだろうか。泳ぐ魚の群れから視線を上げていくと、何やら一つ一つの輪郭が抽象的な形の中に溶解してゆく。なおも視線を上げてゆくと隣に同じような抽象的な形が目に入る。ちがっているのは今度はそれが鳥のようにみえること。そして最後には一群の鳥の飛翔を目撃することになる「空と水」。あるいは、右手が今まさに一本の線を描き終わったところ。その線の先をたどると全く同じペンを持つ右手に至るという「描かれた手」といった一連の画業を。

    コルタサルの短編には、このエッシャーの絵を見ている時に感じるのと同じような印象を受ける。図と地がある。普通は地の上に図が描かれる。ところが、エッシャーのある種の絵の場合、ある地点で図と地が入れ替わり、地であったものが図となり、図は地へと後退してしまう。あまりにも日常的な出来事を描くコルタサルの筆に読者は安心しきって叙述に仕掛けられた細部を読み落としてしまいがちになる。淡々とした叙述を「地」だと勘違いして、いつか「図」が浮かび上がるだろうと期待して先を急ぐからだ。多くの場合地と図はすでに巧妙に交錯し始めているので、結末に至ったとき、あたかも今まで見ていた図が忽然と消え、全く別の絵を目の前にするような奇妙に落ち着かない感覚を味わうことになる。

    「猫の視線」は、ミステリアスな女に秘められた別の顔を探し求める男の話。音楽を聴いたり、ギャラリーの絵画を見たりしている裡に、女は絵の世界に入り込んで帰らなくなるという、絵の中に人間が閉じ込められるという、よくある話と読めるのだが、どことなく腑に落ちない点が残る。そこで読み返してみると、女が殆ど口をきかないことに気づく。視線はまっすぐ「ぼく」を見るばかり。飲み食いはおろか本を読んだり、ドアを開けたりという日常的な動作をしないのだ。そこで、はたと気づく。女はもともと猫といっしょにはじめから絵の中にいたのではないか。自分の妻だという「ぼく」の語りが、「騙り」であり、これは信用できない語り手によって語られた妄想ではないか、と。しかし、そうだと決め付けられるほどの証拠を作家は残していない。そこで、納得のいくまで幾度も読み返す羽目になる。収められた十篇の最後に「メビウスの輪」と題された一篇があるように、コルタサルもまた、エッシャーと同じくメビウス的世界を描くことに執した作家なのである。

    生涯に九つの短篇集を残したコルタサルの、これは八作目にあたる。コルタサルには繰り返し使いまわすお気に入りのフェティッシュがある。自作短編を(1)儀式、(2)遊戯、(3)移行、(4)そちらと今、の四つに分類している作家自身に従えば、(3)移行、(4)そちらと今、にあたるだろうか。ある入り口を人物が通り抜けることで別の時空間にそのまま滑り込んで、別の世界で生きる、という設定である。頻繁に使われるので、同工異曲と言われるのを避けるため、いきおい技巧を尽くすことになる。

    ブエノスアイレスで起きた国家の暴力を告発する記事に衝撃を受けたパリにいる作家が、帰宅途中別の暴力事件に巻き込まれ、それをもとに文章を書く。しかし、その事件はパリではなく、実はマルセイユで起きていたという怪異を描く「ふたつの切り抜き」。晩年、ラテン・アメリカの現実に対し、積極的に発言するようになったコルタサルらしい作品だ。メッセージを生のままでなく、虚構の衣をまとわせることで、より普遍性を持たせていることに注目したい。

    男の画家が街角の壁に色チョークで描く「落書き」に、会話を交わすように女の画家が描いたらしい別の絵が添えられる、というそれだけなら微笑ましいエピソードととれる「グラフィティ」も、それが暴力的な取締りの対象になる(ラテン・アメリカと思しき)国家の管理下に置かれるとき、極めて今日的なアクチュアリティを持つに至る。

    バッハの「音楽のささげもの」のスコアを、合唱団のパートを受け持つ八人の男女に演じさせる「クローン」。愛する女優の映画を編集しなおし、現存するプリントと置き換えてゆくという究極のファン心理の行き着く果てを描いた「愛しのグレンダ」。裏切った男にじりじりと追い詰められる恐怖を描いた「帰還のタンゴ」と、いずれも脂の乗り切った作品ばかり。

    巻末に置かれた「メビウスの輪」は、言葉の通じあわない男女の悲劇的な遭遇が生んだ強姦殺人という異色の題材をメビウスの輪というトポロジーの象徴を用いることで、ユークリッド的世界では永遠に理解し会えない男女を次元を超えた世界で和解させようとした意欲作。強姦の被害者である女性心理の描き方に批判があるという。作家の意図するところは理解できるが、評価は分かれるかもしれない。目まぐるしいほどのイメージの奔流はそれまでのコルタサルの作品と比べると難解さが際立つ。晩年のコルタサルの目指そうとした世界なのだろうか。今となってはその達成が見られないのがいかにも残念である。

  • 短篇の名手として知られるアルゼンチンの作家、コルタサル。彼の作品では「幻想」は装置のように機能し、人間の偏執狂的情念や暴力といった問題をあぶり出し、普遍化する。
    本書に収められたのは彼の晩年の作品十篇。いずれも緻密な構造を持ち、磁器のように硬質な印象を残す短篇だ。
    一篇めは『猫の視線』。アート鑑賞している際の愛妻は次々と別の顔になっていく、と語る「ぼく」。妻の真の姿を?んだと思ったとき、乖離が訪れる。「ぼく」の一方通行の思いに乗せて、アートとその鑑賞者の間に横たわる断絶を描く。続く表題作『愛しのグレンダ』は、女優グレンダに心酔するファン集団が彼女の過去の出演作や人生にまで割り込む話。偶像化されるほど愛されることが果たして幸せなのか、疑問を投げかける一篇だ。『トリクイグモのいる話』は、さびれたバンガローの薄闇の中で隣客の気配をじっと窺う、蜘蛛のような「わたしたち」の独白。時折混じる謎めいた断片的な追憶。種明かしはなく、すべてが曖昧模糊として不気味な余韻を残す。
    『ノートへの書付』は、地下鉄を生活拠点とする集団による電車乗っ取り計画を摘発する内容。書き手の正気を疑いつつも、地下鉄という日常に潜む幽霊のような青白い人間たちのイメージにぞっとさせられる。『ふたつの切り抜き』では、 暴力反対の立場を取る女性作家が、ふと踏み込んだ不思議な領域で自ら加害者となってしまう皮肉が薄ら寒い。『帰還のタンゴ』は重婚したことへの罪悪感から心理的に追い詰められ、更に重い罪を犯す女の悲劇。
    『クローン』は、息の合った八人の合唱団員が分裂していく様をクラシックの楽器と楽章に重ねて展開した実験的作品。
    『グラフィティ』の舞台は落書きすら罪に問われる圧政下の街。落書きを通して心を通わせた男女が悲しい結末を迎える。
    夜毎、自分が主役の物語を夢想する男の話『自分に話す物語』。ある夜、彼の物語に意図せぬ登場人物が参入し……。夢想が現実化し、現実が幻滅を呼ぶラストには微苦笑だ。最後の『メビウスの輪』では、強姦・扼殺された女性が概念的な存在と化し、加害者男性を求めるに至る。設定を生理的に受け入れられるかどうかはさておき、死後の人間の意識が様々な形態に変異する描写がユニークだ。

  • 「猫の視線」
     猫と妻と僕。
     この三角形が壊れてしまった時に、妻は猫が描かれている絵の中に閉じ込められてしまう。
     あるいは妻はもともと絵の中にいて、そこから飛び出してきていたのか。
     割とベタな内容にも思えるのだが、「不思議さ」よりもこの男の孤独の方になんとなくシンパシーを感じてしまう。

    「愛しのグレンダ」
     こういう集団的狂気って何となく判る気がする。
     この判る気がするって心理を僕は「身に覚えのある罪悪感」というように表現したりするのだけれど、フリオの作品ってこの「身に覚えのある罪悪感」を強く感じる作品が多いように思う。
     読み終って、ジョン・レノンとマーク・チャップマンを思い出してしまった。

    「トリクイグモのいる話」
     曖昧模糊とした内容なのだが、始終妙な緊張感に強いられながら読み進めた。
     解説を読んで「なるほど」とは思ったのだが、登場人物の性別や物語の背景(背景だと想像できること)などが判りかけてきても、明確になるものはない。
     この明確にならない様が、緊張感に拍車をかけ、同時に面白さを増大させながら読み進めることができるのだ。

    「ノートへの書付」
     一種のミステリー的な作品で、社会を混迷に陥れようとするとある集団と、それを秘密裏に追いかける男性の物語。
     とはいってもそのとある集団がはっきりと示されている訳でもなく、その男性の妄想という可能性もある、といったこれまた抽象的でどちらともとれる内容となっている。

    「ふたつの切り抜き」
     海の向こう、アルゼンチンで行われている暴力と、こちらパリで行われている暴力。
     アルゼンチンの暴力に憤りを覚えながら、パリでの暴力事件に巻き込まれてしまう女。
     いや、その女性は本当にその暴力に加担したのだろうか、それともあれは現実ではなかったのだろうか。
     暴力に加担したかも知れない、その証拠はあるのだが記憶が曖昧、しかもパリで発生した暴力事件だと思っていたのが実際にはマルセイユの郊外で起こっていた。
     どこか「海辺のカフカ」との類似性も見出せる内容だが、切迫感は本作の方が数段勝っている。

    「帰還のタンゴ」
     罪を犯した女性と、裏切られた男性。
     女性に尽くしていた家政婦からことの顛末を聞いたとある男性の視線で物語が語られる。
     男性に追い詰められていく女性が抱く恐怖と不安が読み手にも直に伝わってくる。
     女性の最期をどう読み解けばいいのか……あとがきで触れられているが、鵜呑みにすることは出来なかった。

    「クローン」
     作品の終盤は、フリオ自身による(あるいは不明な語り手による……後書きではそう記述されている)創作ノートが記されている。
     それによれば、本短編の8人の登場人物を、8つの楽器に例え、小説とバッハの「音楽のささげもの」をリンクさせているという。
     音楽と小説の融合というかなり実験的な試みを行っているようなのだが、この創作ノートがなかったら、そんなことは全く気が付かなかっただろう。
     実験は成功したのだろうか。

    「グラフィティ」
     とある男性が闇に紛れて落書きをする。
     後日、その落書きの横に、女性によると思われるまるで彼の落書きに応答するかのような落書きが出現する。
     普通の街であれば、他愛もないことなのだろうが、ここは外出禁止令とともに、壁にポスターを張ったり落書きすることを威圧的に禁止されている街だった。
     やがてこの女性に悲劇が襲いかかる。
     この男性は被害者なのだろうか、あるいは加害者なのだろうか。
     読み終ったあとに、得体の知れない恐怖を感じてしまった。

    「自分に話す物語」
     寝る前に自分自身に物語を語る男性。
     その物語と現実がリンクしそうになりながらも、結局その物語は「おむつを取り替える」という日常的な出来事の中に埋没してしまう。
     変な自意識を持った男性と、現実的な女性の図式はどんな男女にでもあてはまりそう。

    「メビウスの輪」
     男性側のパラグラフと女性側のパラグラフが交互に現れながら物語は進む。
     女性は男性にレイプされ、殺されてしまう。
     殺された後の女性側のパラグラフは、死後の状態を表現しているようで、詩的とも抽象的ともいえる文章が続くのだが、僕にとってはこのパラグラフがとても魅力的だった。
     メビウスの輪、とは裏と表が一つの面に存在し、もはや裏も表も識別できない存在なんだけれど、果してこれが物語の何を意味しているのか。
     自国の言葉と外国語。
     犯す者と犯される者。
     裏と表。
     そして男と女。
     それら対極にある者同士の和解なのだろうか。
     この物語における女性心理に対しては、かなり評価が分かれるだろう。
     受け入れられない人はまず間違いなく嫌悪する作品だと思う。

  • 図書館にて
    5/15読了

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