岡本太郎の見た日本

著者 : 赤坂憲雄
  • 岩波書店 (2007年6月26日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (375ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000223911

作品紹介

没後、あらためて再評価が巻き起こりつつある岡本太郎。その芸術家の枠に収まりきらない多様な活動のうち、民族学的側面にわたる仕事、すなわち有名な「縄文土器の発見」から東北、沖縄へと展開されていった独自の日本文化再発見の道行きを、気鋭の民俗学者が鮮やかに読み解く。パリ留学時代にはパリ大学に民族学を学び、バタイユらとも親交を深めた太郎が、その類まれな感性で発見していた「ほんとうの日本」とは何だったのか?画期的岡本太郎論。

岡本太郎の見た日本の感想・レビュー・書評

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  • 今週おすすめする一冊は赤坂憲雄著『岡本太郎の見た日本』です。
    「芸術は爆発だ!」で有名な芸術家・岡本太郎の名前を知らない人
    はほとんどいないと思いますが、思想家・民族学者としての太郎の
    顔を知る人は少ないのではないでしょうか。太郎は、実は、戦前の
    パリで、当代きっての民族学者であったマルセル・モースに学び、
    異端の思想家ジョルジュ・バタイユとも親交があるなど、当時の超
    最先端の知的サークルに属した思想家の一人だったのです。

    しかし、当時の日本人が世界を知らなかったためか、はたまた芸術
    家としての太郎の言動があまりにエキセントリックだったためか、
    太郎の思想家的側面はほとんど理解されることはありませんでした。
    本書はその太郎の思想家的側面に光を当てた初の評伝です。

    10年あまりのパリ生活を経て帰国した太郎が「発見」したものが、
    「日本」でした。最初に心をうたれたのが縄文式土器。その生命力
    に、まさに爆発的な芸術性を感じ、京都や奈良に代表されるような
    日本文化とは全く異なる日本の血筋に限りない愛着を感じるように
    なるのです。

    弥生文化よりも縄文文化に自らの原点を感じた太郎は、「我が内な
    る原始人」と出会うために、カメラを持って東北を旅します。秋田
    のナマハゲ、恐山のイタコ、花巻の鹿踊り、出羽の修験道等の民俗
    を取材しながら、日本人の生命の奥底にある深みに触れていきます。

    東北の次に太郎が目指したのが沖縄の島々でした。1960年のことで
    まだ本土に復帰する前の沖縄です。太郎はそこで、「痛切な生命の
    やさしさ」に出会い、「まるで別な天体であるかのような透明な空
    間のひろがり」と「キラキラした時間の流れ」の中で、自分とは異
    なる「人間の生き方の肌理(きめ)」を持つ人々を知るのです。

    本書は、パリ→縄文→東北→沖縄を経て韓国へと流れついた太郎の
    足跡を辿り、その過程で遺された写真と文章をひもときながら、文
    化人類学者・思想家としての岡本太郎の姿を浮かび上がらせていき
    ます。著者は東北学を提唱したことで有名な日本を代表する民俗学
    者の一人ですが、その著者をして嫉妬させるほどに太郎の描写は的
    確に日本人の根源的な精神性をあぶりだしていきます。

    本書には太郎の文章が数多く引用されています。その言葉はどれも
    驚くほど詩的で力強い生命が宿っています(下に抜き書きしたのは
    全て著者が引用した太郎の言葉です)。意外だったのは、この昭和
    を代表する前衛芸術家が、「生活」という言葉を偏愛し、多用して
    いることです。それは生活における人間の生身の現実、そこにしか
    芸術の創造の源はないと太郎が信じていたからのようです。太郎の
    芸術のもつ世界性や呪術性は、「生活の奥底にある生命感」に触れ
    ようとする営みの中から獲得されたものなのでしょう。

    終章「世界とは何か」では、「おのれをのりこえるには、極端にお
    のれ自身になりきること以外にはない」という太郎の言葉が引かれ
    ています。外からの情報に踊らされることなく、自らの生の現実と
    格闘し、「今、ここ」を徹底的に掘り下げてみる。その先にひらけ
    てくる世界。それこそが本当の創造なのでしょう。

    生活とは何か、創造とは何かを考えさせてくれる好著です。前半は
    若干読みにくいですが、後半は一気に読めます。そして、読み終え
    た後は、岡本太郎という、真に世界的視野で生きた希有な思想家の
    エネルギーが自らの身体に流れこんでくることを感じることでしょ
    う。生きる勇気をもらえる一冊です。是非、読んでみてください。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    安易に均衡をとった平面的な農耕文化の伝統は現代日本までおおい
    つくしている。それをひっくりかえさなければならない。単に芸術
    だけの問題でなく、それは生き方そのものにかかわる。よし、こい
    つと一緒に闘おう。私は縄文土器論を書き、激しく問題をつきつけ
    た。それは停滞した日本文化への闘いの宣言だった。

    私が「なまはげ」にひかれたのは、第一にそのお面だった。書物で
    写真を見て、こいつはいい。無邪気でおおらかで、神秘的だ。しか
    も濃い生活の匂いがする、と感心した。

    「なまはげ」自体はそもそも鬼なのかどうか、問題がある。それは
    あらゆる原始的な人間社会に見られる「霊」のあらわれである。何
    だか知らないけれどそんなものがヒョコヒョコ出てくる。生命の底
    の深みから――そういう生活に彩られた魔である。

    アカデミックな中央の権力、その官僚性によって、不当に押しつぶ
    されて、過去に埋もれてしまった、この日本人の魂。それをえぐり
    出し、解き放ち、われわれの芸術にとってもっとも緊急であり、由
    々しき問題としてぶつけていく。それは他ならぬ私自身の使命では
    ないか。

    人間が動物を食い、動物が人間を食った時代。あの暗い、太古の血
    の交歓。食うことも食われることも、生きる祭儀だった。残酷で、
    燃えるような、宇宙的な情熱が迫ってくる。そういうものをふるい
    起こさないで、ヒューマニズムもちゃんちゃらおかしい。どうも私
    は人間よりも動物の方にひかれるらしい。今日の人間があんまり温
    帯植物のように、無気力に見えるせいだろう。

    夜はお婆さんとともに、くろくふけてゆき、婆さんは夜の闇ととも
    にいきいきとひらかれてくる。夜は女の世界。女は夜の生物だ。昼
    間は彼女らはババアである。現実の悲しみが重い表情にとじこめら
    れている。だが夜――いわば根の国、常夜、闇の国、そこで女性は
    ギラギラと輝きはじめるのだ。(中略)この瞬間におどる彼女らの
    生命の、悲しさと嬉しさ。それが異常にひらく姿を見ていると、私
    は魂の底からゆさぶられる。そして常の日の彼女らの生活の重みが、
    グイとせり出してくる思いがした。

    人間生命の、ぎりぎりの美しさ。それは一見惨めの極みだが、透明
    な生命の流れだ。いかなる自然よりもはるかにたくましく、新鮮に、
    自然である。

    悲しい思い出がどうしてあのように美しいのか。八重山の辛く苦し
    かった人頭税時代の残酷なドラマを伝える、さまざまの歌、物語を
    聞いて、その美しさに激しくうたれる。美化しなければあまりにも
    辛く、記憶にたえないからか。いやそれはほんとうに美しいからで
    はないだろうか。そのとき、人の魂はとぎすまされ、その限りの光
    を放つからだろう。

    なんにもないということ、それが逆に厳粛な実体となって私をうち
    つづけるのだ。ここでもまた私は、なんにもないということに圧倒
    される。それは、静かで、幅のふとい歓喜であった。(中略)
    神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で
    人間と向かいあうのだ。

    さらさらとした素肌の敬虔さである。それは信仰であるというより
    も風習であり、風習であるというよりも、やはり信仰である。生活
    と宗教は一体で、それはこの集団の内部において絶対である。人々
    は島の生活の全体性の中にあって、敬虔に掟にしたがい、役割をつ
    とめる。誠実で、献身的だ。

    現実は、われわれにとって、この日本にこそあるのだ。…
    今日の芸術は確かに形式において世界性を持たねばならないが、同
    時に身近な現実との対決によって、泥だらけになっていなければな
    らぬ。もちろん、向こうには向こうの泥の匂いがしみついている。
    (中略)向こうの泥だけが意味深く、日本の泥より優れていると考
    えるのは卑怯だ。いうまでもなくお互いの現実に高下はない。問題
    はただそれへの対決の仕方と覚悟だけにあるのだ。
    だから私は日本の土の上で闘った、泥だらけのものを、そのまま向
    こうにつきつけるのだ。

    私はこの国に生き、何とも形容できない複雑にからみあった現実に
    抵抗しながら生活し、戦ってゆくよろこばしさに戦慄する。それは
    また当然、憤りとの裏表だ。
    純粋でありながら、未熟であり、混乱し、過去と現在、異質を素地
    が正しく対決しないまま、イージーにまぜ合わされ、のみ込まれて、
    問題を失っている。

    土地々々を廻り、実際にこういう可能性、問題性があるということ
    をつかみ出し、われわれ自身につきつける。たとえどんなに惨めで
    あり、未熟であっても、まずあるがまま捉え、そこから問題を発展
    させてゆくことだ。いや、未熟だからこそ、チャンスなのだ。

    おのれをのりこえるということは、極端におのれ自身になりきるこ
    と以外にありません。

    ナショナリズムだとか、民族主義などという観点からでなく、もっ
    と肉体的に自分の神秘、その実体を見つめなければいけないと私は
    考える。世界における同質化、ジェネラリゼーションが拡大すれば
    するほど、逆にパティュラリティーも、異様な底光りをおびながら、
    生きてくるような気がしてならない。

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    ●[2]編集後記

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    12月も残すところ10日となりました。年賀状も大掃除もまだ手をつ
    けていません。年賀状は25日までに出さないといけないそうですか
    ら、今週中が勝負。大掃除は今度の土日にやってしまおうと思って
    います。

    年賀状も大掃除も正月の準備も、手をつけるまでが面倒で億劫なの
    ですが、やり出してしまうと、一年の振り返りになるし、やり終え
    た時の達成感というか、カタルシスがあるから、一年に一度のこう
    いう行事というのは、やはりいいものだなと思います。

    昨日は、今年最後の墓参りに生家を訪ねてきました。母亡き後、独
    居になった父はもうあらかた大掃除は終えたとのこと。また、今年
    から年賀状を出すのはやめようと考えている、とも言っていました。
    現役の頃は300枚くらい出すことを誇りにしていた父も、この10月
    で仕事を完全に引退しましたから、もういいのだそうです。聞けば、
    「今年限りで年賀状を出すのを止めます」と書いてよこす同じよう
    な境遇の人が結構いるそうです。仕事をやめた男は、そうやって社
    会からも身を引いていくのだなあと思いました。

    父は、母の死後、身辺整理を始めています。今の父にとって、大切
    なのは、足し算よりも引き算なのでしょう。人生で積み重ねてきた
    もの、手に入れてきたものを、今、一つ一つ捨てている。そう考え
    ると、人生とは、その前半でせっせと足し算をし、後半はそうやっ
    て貯め込んできたものを、今度はゆっくりと引き算していく、そん
    な過程なかのかもしれません。引き算を続けて、もう引くものがな
    くなった時、人はどんなふうになるのだろうか。そんなことを考え
    た日曜日でした。

  • 実は2月頃に読みあげていた本なのだけど、前後で岡本太郎関係を何冊か読んだものだから、まとめて日記でUPしようかな?と思っていたため、今になる。(・・ってことは、まとめてはやめた、っちゅうことやね?)
    万博の「太陽の塔」は幼心に強烈に印象に残っているし、目ん玉ひん剥いて「芸術は爆弾だっ!」って叫んでたのも印象的な岡本太郎って、思いっきり「感覚だけ」の人だと思っていたら、さにあらず。
    実はとても論理的、思考、哲学の人だったのねぇ~・・・。
    そのことの発見に著者自身が驚いていく様子が読んでる方も驚かされてとても面白い。
    岡本太郎って、「感覚」を「言葉に止める」ことがとてもうまい人だったんだなぁ~と。
    私は彼の絵よりも彫刻の方が好きだけど、もしかしたら、著作が一番好きになるかもしれない、と思わされた本だった。

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