荷風好日

  • 岩波書店 (2002年2月25日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784000224260

感想・レビュー・書評

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  • 世を挙げてのワールドカップ騒ぎに紛れて、有事法制などという店晒しの法案をまたぞろ蔵から出してくる政府の巫山戯たやり方には腹を立てるのも莫迦らしく、相手にしたくなくなるのだが、こちらのそんな反応も知った上での手口であることも分かっているから始末が悪い。竹林の七賢人ではないが、俗世間に背を向けて自分だけの世界に好きな本や音楽とともに隠棲しようと思っていたとき、この本に出会った。

    世間の風向きが自分の思いと相容れぬ時、人のとる道はいくつかある。世の中の方を自分に合わせようとして動くというのが一つ。それとは逆に自分の方を世の中に合わせるというのもある。前者は困難な道であり後者は安易である。しかし、ここに第三の道がある。世間と縁を切ることで、自分の思いを守るという「世捨て人」の生き方である。荷風の採ったのはこの道であった。

    生きていくには生活の場というものがいる。世間と折り合いをつけぬ以上、自分の属する世界と無縁の単独者としての生き方を見つける必要があった。偏奇館を根城にした下町や郊外の散策、さらには玉の井などの私娼窟探訪が、荷風が見つけた生活である。自分を知らぬ人々の中を彷徨い、やがて帰宅して日記を付ける。いわば「生活の虚構化」である。そうした生活の中から生まれたのが『断腸亭日乗』や『日和下駄』であった。

    川本三郎は、荷風のこうした生き方を「やつし」と表現している。つまり真性の隠居ではなく一種の落剥趣味だというのだ。現に金利生活者としての荷風は己の資産運用にかけては細心の注意をはらっている。世捨て人は仮の姿であり、親の恒産の上に胡座をかいた高等遊民というのが真の姿である。それかあらぬか、空襲で焼け出され、寄寓先を転々とする中で、荷風は自分を見失い、作品の質は低下を辿る。虚構であるはずの身寄りのない孤独な老人が、自分の真の姿であることを知ったとき、反骨も倨傲も音立てて崩れていく。

    金で買える女は後腐れがなかろうし、見て過ぎる路地裏の生活にはノスタルジックな詩情に溢れてもいよう。川本は荷風を「見る人」と位置づけているが、自分の姿をさらすことなく一方的に見ることのできる立場にある者をフーコーは「権力」と呼んだ。寄寓先で私生活を守ることもできない荷風は見られる側、つまり権力を持たぬ一般人の位置に堕ちることで、力を失ってしまう。

    それを世間と言おうが世界と言おうが、人間は自分を取り巻く社会と断絶して存在できるものではない。我一人超俗を気取って、孤高の生活を送ろうなどというのは、世間知らずと言われても仕方があるまい。自分と世界は繋がっている。世界の嫌な部分は自分の嫌な部分である。自分を嫌になりたくなければ、否が応でも世界と関わっていかなければならない。好きな本を読み、好きな音楽を聴くという、ただそれだけのために払わなければならない犠牲というものがあるのだ。

  • ふむ

  •  川本三郎は私の大好きな評論家だ。何を論じても変わらない、文章の平明さと対象へのあたたかいまなざし――それは、自分の頭のよさをひけらかし、他人を見下すために評論活動をしているとしか思えない一部の評論家の対極にある。

     ただ、『大正幻影』(90年)以来の一連の“ノスタルジーもの”には、あまり馴染めずにいた。80年代に『都市の感受性』を書いたころには先鋭的サブカルチャー(小劇場演劇、マンガ、映画など)にエールを贈っていた川本が、遠い過去に目を向け始めたことが寂しかったのだ。
     たぶん、90年代には川本ファンの総入れ替えが起こったにちがいない。若いファンが激減し、川本より上の世代のファンが増えたはずだ。

     しかし、川本の近著『荷風好日』(岩波書店/1800円)を読んで、認識を改めた。「ああ、川本三郎は少しも変わっていないんだな」と思えたのだ。

     『荷風好日』は、書名が示すとおり、川本が敬愛してやまない永井荷風について縦横に語ったエッセイ集である。その点で、『大正幻影』に端を発する一連の仕事の延長線上にある。
     すなわち、文士たちが愛した東京の風景を自らの足でたどり、そこから見えてくるものを論ずるスタイルである。そのスタイルが大きな結実をみたのが、読売文学賞を得た『荷風と東京』(96年)であった。本書はその続編ということになる。

     いや、続編というより発展形か。荷風作品の記述を手がかりにその足跡をたどる手法は同じだが、本書では荷風と東京の重なりにとどまらず、千葉県市川に住んだ晩年や、青年期の渡仏体験にまで論及しているからだ。川本は、荷風の足跡をたどってパリにまで赴いている。

     「川本は少しも変わっていない」と思えたのは、一見年寄りじみた懐古趣味のエッセイに思えながらも、本書が“荷風が歩いた街”をフィルターにした「都市論」であることに気づいたから。『都市の感受性』以来、一貫して魅力的な都市論の書き手であった川本は、都市論と文芸評論を合体させた新境地を拓いたのだ。

     また、川本と荷風にはかなり似通った部分がある。
     ピンク映画を熱っぽく論じた著書を出したこともある川本は、日の当たるものよりは日陰のものに、表通りよりは裏通りに惹かれる心性を強くもっている。それは、場末の娼婦たちをこよなく愛し、彼女たちの中にこそ「ミューズ」を追い求めた荷風の心性と相通ずる。川本は荷風を語りながら、“彼が愛したものを私もまた愛する”と、自らについても語っていたのだ。

     その意味で、論ずる対象が昔とはちがっても、川本という書き手の姿勢は何も変わっていないのだ。

     川本が荷風を語る視点は、研究者というよりは一愛読者のそれである。敬愛する作家だからこそ隅々にまで目が届き、意外な荷風像が提示される。
     たとえば、戦後の荷風の創作力減退について、川本は“戦中のたび重なる空襲体験によって、荷風は恐怖症に近い精神状態にあったのだろう”と推論する。石川淳が戦後の荷風を「老残」と批判するのみだったのとは対照的な、斬新な解釈である。

     荷風という孤高の文学者の心に深く分け入った、滋味あふれる大人のエッセイ――。

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著者プロフィール

川本 三郎(かわもと・さぶろう):1944年、東京生まれ。新聞社勤務を経て、評論・翻訳活動に入る。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』、近著に『映画の木洩れ日』『ひとり遊びぞ我はまされる』など。



「2024年 『チーヴァー短篇選集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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