憲法学のフロンティア

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  • Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000227063

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  • 第1章 リベラル・デモクラシーの基底にあるもの
    p.1 リベラル・デモクラシーという概念は文脈によってさまざまな意味で用いられる。ここでは、近代立憲主義から導かれる政治体制のあり方を広く指してこの概念を用いる。

    p.10 近代ヨーロッパに現れた自然権論派、根底的に異なる文化に属する人々が共存するための、最低限のベース・ラインを見出すために構想されたものであった。政治思想史家のリチャード・タックが指摘するように、「グロティウス、ホッブズ、プーフェンドルフ、ロックという名前と結びつけられる、自然権を中核とする道徳的・政治的理論の17世紀における炸裂的展開は、第一義的には、ヨーロッパの理論家による(宗教戦争後の)ヨーロッパ内部の、そしてヨーロッパとそれ以外の世界(とくに農耕文化前の諸民族)との深刻な文化的相剋から生ずる問題を解決する試みであった」。

    p.11 ...教科書的な自然権論はいわば議論の中間点から出発していることになる。なぜ財産権や幸福追求権が保障されなければならないかという問いに対して、それがあらゆる人に認められる自然権だからと答えるのでは、単なる議論の先取りであり、納得する人はそれほど多くはないであろう。肝心なのは、およそ比較不能な異なる価値観を抱く人々がそれでも共存して社会生活を営もうとする際に、それを可能にする条件としてあらゆる人が認めざるを得ないであろう権利は何かという問いである。

    p.16 注5) ...国家は他のもっともらしい理由を標榜するものであろう。こうした問題に対処する方法の一つは、国家の主張する理由と、国家の実際の行動との間に、目的ー手段としてどの程度強い関連性があるかを審査することである。特定の内容の表現活動を禁止する立法のように、国家が不当な理由に基づいて行動している蓋然性が高い場合には、国家の標榜する理由と実際の行動との間の関連性について高度の立証基準を要求することで、国家が裏口から「切り札」としての権利を侵害する道を塞ぐことができる。

    第3章 信教の自由と政教分離
    p.49 ...「自律的な個人」も一種のフィクションであり、比喩に過ぎないとすると、憲法学は個人をどう扱えばよいのだろうか。
    実際が理想からはずれるにしたがって、人を一人前ではない「子ども」として扱うというのが一つの道である。子供は自分の生き方を自分で決める存在として認められず、保護監督されるべき存在である。...子どもに人権はない。...「子どもの権利」だけがある。こうした立場を貫いたとき、大多数の人を子ども扱いする社会へと転がり落ちていく危険は無視できない。
    もう一つの道は、あくまで自律的個人という理念に賭ける道である。近代立憲主義が描く制度や考え方は、この前提なくしては意味をなさない。憲法のいう「個人の尊重」は、こうした一人前の、大人としての責任を負う個人の尊重を意味しているはずである。

    第4章 「二重の基準論」と司法権の役割
    p.72 ,,,以下で見るように制定法を違憲無効とする場合と、その意味を解釈によって変更する場合とで、いずれが政治部門の判断を尊重することとなるかは簡単には答えの出ない問題である。
    エスクリッジとフェアジョンの考案した「第1篇第7節ゲーム」を通じて、この問題を考えてみよう(Willian N. Eskridgd, Jr. and John Ferejohn, The Article 1, Section 7 Game)。......
    このゲームが示しているのは、次のようなことである。第一に、アメリカのように立法機関が三者(上下両院と大統領)によって構成されている場合には、強い現状維持の圧力が働く。三者がすべて一致しない限り、現状は変更されない。...
    第二に、裁判所の解釈は、立法の出発点となる「現状」を変更する。裁判所の解釈がいったん下されると、それを変更することが三者すべてに有利であり、かつ、それぞれに有利である限度ではじめて新たな立法が成立する。これに対して、裁判所が問題の法律を法令として違憲であると宣言した場合は......そもそもの現状(Q)が回復され、議会および大統領はそもそもの出発点から新たな妥協点を探ることが可能となる。いずれが、立法機関をより強く拘束することになるかは、したがって、簡単には結論の出ない問題である。......
    日本の場合、アメリカと異なり、立法機関は両議院と大統領の三者によって構成されているわけではない。しかし、内閣およびその下で成立可能性のある法案の大部分を作成する官僚機構が、実質的にはアメリカの大統領に匹敵する拒否権を有していると考えることはさほど突飛とはいえないであろう。また、日本の参議院は比較制度的に見て、第二院としては相当に強力な拒否権を有している(憲法59条2項)。そうであれば、両議員と政府の三者間にある程度の政策の相違が存在する場合、やはり現状維持の圧力が働くことになるであろうし、成立した法律に裁判所が立法者意思とは異なる解釈を加えた場合、それを新たな「現状」として立法ゲームが改めて開始されることになる。
    ......従来の日本の憲法学は、制定法を違憲と判断することが司法積極主義であり、そうしないことが司法消極主義であるという「分かりやすい」区別を受け入れてきたが、この区別が、果たして政治部門の判断への司法部の謙譲と正確に対応しているか否かは、実はなお精査を要することになる。

    第6章 プライヴァシーについて
    p.115 筆者は、事故情報のコントロール権は、他者からの監視や干渉、社会関係の圧力の及ばない自分だけの静穏な私的領域で個人が自由に思考し、交流し、生きることを可能にするだけでなく、本人の選択する相手とのみ本人の決定する人間関係を形成する能力の必要不可欠な構成要素でもあるというチャールズ・フリード教授の立場に賛同する。......
    注9) Charles Fried, Privacy, 77 Yale Law Journal 475(1968); 佐藤幸治『憲法』[第3版]454頁も参照。

    おわりに
    p.220 具体的な法解釈に必要な能力は、アイザィア・バーリンのいう「政治的判断 political judgement」の能力と似たところがある(Isaiah Berlin, Political Judgement, in his Sense of Reality (Chatto & Windus, 1996))。直面した具体的事案を法的に解決する能力は、所与のアプリオリな論理をどこまで一貫して適用することができるかという分析的能力というよりはむしろ、目前の問題が他のよく似た、参考となる前例とどこが似ており、どこが違うかを鋭く見抜くとともに、さまざまな、しかしそれ自体としてはさして深遠な専門知識を要しない常識的な知見を総合してそれを解決する能力である。......法的解釈の能力と政治的判断の能力のどこが違うかといえば、これまた一般的にいえば、すぐれた政治家であるためには必ずしも学識豊富である必要はないが、すぐれた法律家であるためにはそうはいかないという点であろう。......ある問題に関する代表的な先例や参考となる文献に関する十分な知識を持たない法律家がすぐれた法律家でありうるとは、およそ考えられない。

  • 参考文献

  • いい本です。
    ただし、基本的には長谷部先生の「憲法」で足りますので、読みたいところ読み流しでいいんじゃないかなー

  • 2月?
    長谷部教授の本を読むことは、新書に続き3冊目である。憲法というと芦部先生の本を読むことが多かったが、立憲主義、信教の自由や政教分離の考え方などはわかりやすい説明が書いてある。また、筆者の碩学には毎回驚く。哲学、文学などの知識が文章の面白さを裏づけされているのだと思う。

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著者プロフィール

早稲田大学教授

「2018年 『「国家と法」の主要問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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