- Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000227704
作品紹介・あらすじ
鈴木孝夫と田中克彦。真っ向から対立するかのごとく目されてきた言語学界の二大巨峰。しかし、ともに半世紀以上にわたって、真剣に、文字通り「身体を張って」言語学という学問に挑んできた、という共通項がある。この二人がはじめてがっぷり四つに組んだら何が起こるか?二人の学者の師であった井筒俊彦、亀井孝、さらにともに親しく知っていた服部四郎など大言語学者たちの在りし日の姿、凄さ、変人ぶりがまざまざと眼前によみがえり、歯に衣着せぬチョムスキー批判、日本の学界批判が続く。そしてアメリカの記述言語学、ヨーロッパ意味論の学術的系譜、ソシュール学などに截然たる評価が下され、さらには漢字論や英語教育、エスペラントについても熱論、膝を打つような名言が次々に飛び出す。まさに「言語学が輝いていた」時代だった二〇世紀。そして言語学のみならず、学問そのものの灯が消えぬよう、二人の言語学者の闘いは続く。
感想・レビュー・書評
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社会人になってから。
高校生のときに言語学にハマったきっかけとなったふたりの対談本を見つけて、思わず買って読んだもの。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「言語の脳科学」ではダーウィン、アインシュタイン級の偉人とされたチョムスキーが、本書ではヘルダー、ソシュール、ヴァイスゲルバー、フンボルト、ヤーコブソンなどと対比される有力な言語学者の一人である。言語の生得説も、彼の人種、宗教に由来すること、まず共産圏で受け入れられたこと、それが人類史的な脳の進化と合致しないことなどが指摘されている。言語は上半身=理性、下半身=行動という半獣神のような存在(255頁)で、そのような存在を扱う言語学では、一つの理論は半世紀持たない、としている。そうだろうなと思う。
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“クリティーク”というのが,内集団に属しながらその内集団の欠陥や矛盾を指摘することが本来の意味なのだとすると「批判」というよりは「内部告発」であって,本心から改善を望む姿勢に由来するものということだと思いますが,田中氏・鈴木氏はそういう思想で言語学をやってきた自負があるようです。
発言を読んでみると,どちらも「毒」が強いようで,特に鈴木氏はかなりこだわりのある自信家だろうなと推測します(顔つきも)。
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チョムスキーは骸骨の言語学,スケルトン・リングイスティックス。ぼくは血と肉,ギュッとつかめばキャッという,そういう言語学をしたいんだ。(p.44, 鈴木)
人間という動物は,どういうわけだか,これは神をもってくるほかないけれども,本能がなくなってしまった半端な動物なんです。ほかの無数の動物が動物一般としての基準だとすると,人間もたしかに動物だけれども,人間は例外的に本能を失った動物なんです。そこで進化の過程で失った本能を,次々に補ってきた。何で補ったかというと,それは文化で補ったのです。だから人間というのは文化で生きる動物。普通の動物は本能で生きる動物。(p.74, 鈴木)
神をつくるなんて,ことばがなければそんなことできない。神がことばをつくったと聖書は言うが,実はその逆なのです。(p.76, 田中)
→人間は恣意的な観念を作れるから。この田中氏の発言を受けて,鈴木氏は「いまおっしゃった言語,宗教,すべて含めて私はいま「文化」と言っている。」とさらに自分の方が観点が優れているよと強調する。 -
これまでほとんど接点のなかった言語学の碩学による討論。鈴木さんの話はだいたい知っているから、あまり新鮮みはない。日本語における漢字の音訓の問題にしても、「かたい」が「硬」や「堅」で書き分けられるように言うが、それに対し田中さんは「これは、やっかいな議論になってしまったなあ(笑)」と苦笑して止めているいる。田中さんとしては日本語は漢字でしばられているのではない、と言いたかったのだろう。/この本は言語学が輝いていた時代に二人がどう言語学にかかわったかという議論が中心だが、「回想の言語学者」でとりあげられた服部四郎、井筒俊彦、泉井久之助らの話が面白い。鈴木さんは言語学が意味をあつかわなかった時代に意味の問題をやった。だから、言語学会ではあまり評価されていない(ようだ)。鈴木さんもあまり人の論文を引用しないし、他の言語学者からも引用されない。だが、意味をやったことで、のち東大の服部四郎さんに呼ばれて東大で意味論の講義を二年もやっている。当時、私学の人間が東大に行って講義をするのは大事件であったのだろう。一方の田中さんはもとはモンゴル語の教師だったのを、岡山大に呼ばれそこで言語学の講座を開く。のち一橋に呼ばれ、そこで亀井孝という、ひとくせもふたくせもある人から大きな影響をうける。(亀井孝の人物像については小島幸枝『圏外の精神』武蔵野書院が面白い)田中さんの面白いところは、言語学をきわめてわくわくするものにしたことだろう。だから、逆にあいつはアジテーターだと嫌う人もいる。ぼくも離れて本だけ読んでいる分には害はなかろうと思っている。/この本を読んで鈴木さんが最初医学部にいたのを文学部に移ったという話を初めて知った。しかし、そこでも結局は英文学から離れ、井筒俊彦というのちのイスラム学の権威になる人に師事する。師事するといっても、教室だけではなく、井筒さんの家に住み込んで教えを受けるのである。しかし、鈴木さんはのちに井筒さんからも離れることになる。それはいつまでも井筒さんについていると「虎の皮を借る狐」になってしまうことを恐れたからだ。また、この本には服部四郎がモンゴルのタタールの王女と結婚した話、タタールの亡命者たちをたべさせていたのに、授業ではまったく勉強の話しかしなかったとかというふうに言語学者の裏話がいっぱいで、そこだけ読んでいても楽しい。
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亀井孝先生の話が印象に残った。大局的な話がもりだくさんで、お腹いっぱい。
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