- Amazon.co.jp ・本 (287ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000228718
作品紹介・あらすじ
いまケータイは第3世代に入って、マルチなモバイル・メディアへと変貌している。だが現状はプライベートと商取引の活用のみという歪な姿をしてはいないか。それを超えるため、子ども・市民が自律的に関わることができる「コミュナルな空間」としてのケータイの可能性を、さまざまな実践的なプロジェクトで探求する。
感想・レビュー・書評
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iモードに代表されるネットサービスを簡単に、短く、浅く利用することで、コンビニ、ファミレス、郊外型モールなど、企画化された消費社会的メカニズムにすっぽり組み込まれていくモバイル生活。
そこにはコミュナルな、あるいはパブリックなコミュニケーション空間はほとんどみあたらない。
即ちケータイを活用したジャーナリズム、地域情報、メディア表現、福祉、学び、アートなど、子どもや市民が自律的に関わることができる活動は、極めて貧弱な状況に置かれている。
日本の新聞、放送、そして広告代理店というマスメディア事業体が、まるで杉の巨木のようにして社会を多い、何十年も安定した体制を構造的に維持、発展させてきた・・
でも、業界人も研究者も日本のことしか考えないから、「今や日本の放送は激動しているんだよ、水越君」なんて言い続けている。違うと思うんだけど。もちろん変わってきているけれど、その変化の度合いは欧米や東アジアに比べて小さいです
よ。世界の趨勢や歴史的変化を大局的に知らなさ過ぎると思います。
媒体素養・・・
いずれにしても、メディア・リテラシーは、新聞リテラシーとかテレビリテラシーとか、そういう個別のメディアごとに独立した能力のセットとして存在したり、あるいは教育されたりするものではありません。そう考えないと、私たちの周りにある
メディアごとに、それぞれバラバラのリテラシーがあって、それをバラバラに学ばなければならないということになる。
最近のモバイル・リテラシーとして語られていることの多くは、眉唾なものが少なくない。(中略)青少年を有害なケータイから守ること、有害なケータイ・サービスにだま
されない術を身につけさせることなどとして使われることが多い。これはおかしいです。面妖だといえる。
アイスブレーキング「私は誰でしょう?」というメディア遊び。
ケータイ・カメラも撮影するという用の一方で、様々な営みを媒介する。但し多様な機能や用途をはらんだケータイであるからには、それが媒介する儀礼的な営みも多様であろう。人前で文書を読むふりをして話しかけられないようにする、手帳を出
して自分の忙しさを誇示する、こういった行為を、私たちは今ではケータイでやってしまう。今後、ケータイのありようの変化に合わせて新しいコミュニケーションの儀礼性が生まれることも十分に考えられる。
テレビ現場の現実を改めて振替って見ると、放送にとって[時間]とは全ての基盤であると同時に、絶対的な制約でもあることがよくわかる。(中略)放送番組というコンテンツ・デザインの核心は[時間のデザイン]であるといって過言ではない。
これに対して通信とは、互いに違う時空間的な文脈に置かれた人同士が相互作用する営みである。一方が他方に語りかけることが、その人の置かれた時空間を刻々と変化させ、その逆の作用も生じ、そうした相互作用の規制が堆積し、複合的な展開をもたらす。どちらか一方の発信者が特権を持つと行った固定的な時間軸のありえない通信においては、互いの関係性に対して、開かれた形で時間軸が成立しているといえるだろう。
新しい芸術家は、「ものの創造」や「作品の創造」だけでなく、他の人がクリエイトするための様式も創らなければならないと私は考えています。データのためのデータ、つまり、ある種のメタデータに類するもの。一歩下がって、人が何かを創
造するための基準となるシステムを作るメタアーティスト、メタデザイナーとでも呼べるようなクリエーターが必要なんです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ケータイとは私的所有物であるという概念が強い。しかし本書を読んでケータイを含めた「環境」をデザインすることが今後のモバイル社会には必要なのではないかと思う。スマホの出現によって、少なからず筆者の唱える「コミュナルなケータイ」が実現してきているようにも感じる。今後のケータイ・スマホ動向に期待。
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携帯の使い方ってどうも行き詰っている気がする。
日本独自の発展を遂げたからなのかどうなのか???
ハードばかり発展して、ソフトがないなーと思う。
携帯におけるデジタルパブリッシングはここ数年発達してるけど
この先はあるのかしら???
色々な試みが書かれていました。