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Amazon.co.jp ・本 (220ページ) / ISBN・EAN: 9784000229210
作品紹介・あらすじ
小説のための自分の日本語を、作家・片岡義男はどのように手に入れるのか。たった一人裸でこの世に産み落とされた赤子のころから、アメリカ大衆文化の象徴とも言えるペーパーバックと戯れる時代を経て、デビューして書き続ける現在まで、英語と日本語という二つの「母語」の間で揺らぎながら続く、言葉と思考の実践の日々とは。
みんなの感想まとめ
言葉の力とその影響を探求する本書は、著者の独自の生い立ちや言語体験を通じて、私たちの思考や行動における言葉の役割を深く考察しています。日本語と英語の二つの母語を持つ著者は、言葉がどのように彼の価値観や...
感想・レビュー・書評
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片岡義男の書く「日本語と英語」論はいつも私の襟を正すものとして読める。彼は恐らく言葉の唯物論者なのだろうと思う。彼の中には少なくとも日本語と英語という2種類の言葉が備わっているわけだが、その言葉は単に話し言葉/書き言葉という次元を超えて彼の行動規範/価値観を左右するもの、思考回路を支えるものとして機能していることが話される。私たちだって同じように言葉を操りあるいは言葉に操られていると言えば言えるわけだが、彼の中で常に働くそうした「操る/操られる」という力学に彼は自覚的になり、こうした私小説的随筆に結実する
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片岡義男はこのところ『日本語/言葉』に関する言及をいろいろしているけれど、その立ち位置が「物書き」としてでも「学究的」なものでもないところがいかにも彼らしくて面白く読んでいる。
でもこの作品にはびっくりした。何と、自伝なのである。彼はいろいろなエッセイに自分の少年時代や就職前後の話などをちりばめているので、なんとなあくどういう経歴なのかはわかっていたつもりだったけれど、そんな「つもり」は吹き飛ばされるほどにユニークな生い立ちだったことに改めてへええ、と思わされた。
中味を書いちゃうとネタバレになるから抑えるけど、今までちょっと不思議に思っていた彼の文体、語彙の選択などについての理由が一挙(とまではいかないのだけれど)にわかったような気がさせられる内容といえる。
もちろん、彼とてこうやって分析をしながら育ってきたわけではないだろうけれど、今自分の職業の根幹にある『言葉』というツールをつかって、そのありようの変化をもとに自分の人生を見なおす、まさに「生きる」ということ、新しい視点をもらえたようでとても得した気分になった。 -
学生時代は片岡義男にはまっていて、本棚が真っ赤な文庫本で埋め尽くされていた。あの、カッコいい世界に憧れていた。
そんな世界が描ける片岡義男ってひとは秘密のベールの向こう側にいるような感じだった。この本でそのベールがかなりとれた感じ。
それでも、居酒屋の壁にかかった品書き「塩らっきょう」と「えんどう豆」だけで、如何に小説が書けるか は、さすが片岡義男ワールドです。
いいなぁ、やっぱり。 -
片岡義男の自叙伝的エッセイである。
ペーパーバックを読み始めるところや翻訳するところ、どのように短編小説を書き始めるかという創作の一部が披露されているところなどは、なかなかおもしろく読める。 -
懐かしいなぁ…と思って読んだけど、思っていた感じとは違ってた。
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片岡義男の文章を初めて読んだ。
父親はハワイの日系二世。日本岩国に帰国している時に戦争となり帰れなくなった。母親は岩国、教師。
ずっとバイリンガルで育つ。
東京に出て早稲田。神保町に通い、ペーパーバックを買い漁り、喫茶店に入り浸る。
「マンハント」誌に訳してみないかと誘われ、それ以来文筆業。
書くものはフィクション。
自分の文章は英語が裏打ちしている、と思う。
私より5才くらい下か。
私はハヤカワミステリーマガジンの都筑道夫氏にいきなりペーパーバック1冊の翻訳を送りつけ、それが縁で何篇かの短編の翻訳を同誌に載せてもらったことがある。1956年頃だ。
それを続ける意思も才能も私には無かった。 -
090
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45頁、誤植「そっくそのまま」
50頁、誤植「多用していはずの」
54頁、誤植「いまにわかには」
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