自由論―自然と人間のゆらぎの中で

著者 : 内山節
  • 岩波書店 (1998年2月23日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000233286

自由論―自然と人間のゆらぎの中での感想・レビュー・書評

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  • ヨーロッパが生みだした自由の概念は、自由を自覚することと強く結ばれている。自由は、気付き、発見され、自覚されることによって生まれてくる。ところがそう述べただけでは終わらない。なぜならある種の自由を確保しようとする行動は、他の自由を無自覚にするというもうひとつの側面があるからである。「アテナイ人の国制」を例にとれば、安楽で平穏な生活を維持することも、人間にとっては重要な自由である。ところで、他方ではそれが政治的無関心を生むことに、ペイシストラトスは注目したと書かれている。(p.22)

    近代社会の形成のなかで人々の目に映っていたのは、人間に自由を与えたはずの個人の解放が、むしろ、ひ弱で自由の行使にさえ畏縮してしまう人々、を生みだしていく様子であった。この問題は今日に至るまで、ヨーロッパ思想史の大きな課題になっている。個人の解放は、日本で考えられているほど、順風満帆ではなかったのである。(p.31)

    その仕事をやりとげることが重要で、そのためにどれだけの時間がかかったのかは二の次だった時代から、仕事は決められた時間内に仕上げてこそ価値がある、と考える時代への転換が労働の世界ですすんだ時期に、学校教育でも、時間内に覚え、時間内に答えられることが能力だと、みなされるようになっていったという。(p.82)

    労働とは、もっと多元的な営みだったのではないだろうか。その風土やその仕事に根ざした自由な労働があること、それを忘れてしまったら、自由な労働はつねに遠い彼方にしか、ありえなくなってしまうのである。(p.131)

    私たちは、人間的で、少しでも有意義な仕事をしたいという欲求を、つねにもっている。とすれば、労働の自由とは、この欲求とどこかで結びついているはずなのである。少なくとも、時間で割り切れる労働が、すぐれたものだとは思えない。どんな「仕事をする」とき、労働はより自由なものになりうるのか、現代の労働を人間的なものにするためには、私たちはそのことを問わなければならないのである。(p.145)

    現代とは不気味な社会である。なぜならこの経済社会にとっては、人間たちの余裕のなさは悪いことではなく、むしろ経済成長を促す要因でさえあるのだから。人間の存在環境の貧しさは、経済にとっては、すべてビジネス・チャンスになりうる。(p.153)

    ここで私が問題にしているのは、ひとつの認識方法を手にしたことで、その角度からしか、ものをみることができなくなってしまう、ということである。歴史の世界でも、かつて私たちは、封建社会の時代という認識方法を手にしてしまったgために、共同体時代を、人間たちの悲惨な時代という視点からばかりみる習慣を身につけてしまった。この問題は今日、歴史社会学からの見直しがすすめられているけれど、こうして生まれてきた新しい中世社会論や、江戸時代論などを読むと、かつての封建社会論が、あまりにも一方的な歴史の捉え方だったことがわかる。(中略)そればかりか、認識することによって、認識したとおりの世界が、実際にあると思いこんでしまう誤りをおかす。そして、ときどき私たちは、自分たちの認識の誤りを批判され、そのときはじめて、私たちが認識していたような事実は、存在していなかったのだと気づくのである。(p.243-4)

    言葉を用いて思考する以上、どうしても私たちの精神は、その言葉を用いて、ものごとを認識するようになる。自然という言葉が日本に入ることによって、生物たちの世界を自然としてとらえはじめたように、人間の言葉は、言葉のもつ意味に支配されながらしか動かないのである。
     その言葉には、その時代がもたらした特有の意味がこめられている。たとえば近代国家が生まれなければ、今日私たちが使っているような意味での「国家」とか「国」という言葉は誕生しなかったはずなのに、現在の私たちは、近代国家成立以降の「国家」とか「国」という言葉にとらわれた、思考回路をもっているのである。(p.247-8)

    明治時代の翻訳語として自然という言葉が入ってきた結果、今日の私たちは、森羅万象をとらえる精神を失った。「もののあはれ」をとおして世界を認識する精神も過去のものになった。かわって人間の外に客観的に存在するものとして自然をとらえ、世界、国家、政治、市民社会、進歩、近代的自由といった、西欧近代が生みだした理性的な思考によっておこなう認識を、私たちは手にするようになった。
     そして、そのことは、それ以外の精神の活動ができなくなったことを意味しているのである。(p.253-4)

    近代的な自由観は、自由を合理的なものとして認識しようとした。そして、その合理的にとらえられた自由が、世界に拡がっていく過程に、歴史の発展をとらえようとした。ところが、それもまた矛盾に満ちているのである。なぜなら自由は人間固有の権利であると宣言されたにもかかわらず、どのような自由が人間固有の権利であるのかは、実は歴史を追認したうえで、それに都合のよい説明を加えてきただけだったからである。(p.319)

    近代的自由にはふたつの特徴があった。そのひとつは、自由を個人の権利として設定したこと、もうひとつは、自由を実現するには、個人の自由を実現しうる秩序をつくる必要があると考えたことである。この自由観は、自由は他者との関係のなかに存在する、ということを忘れていた。(p.323)

  • ちょっと変わった哲学者の本。

    「大きく育った大木をみていると、私は動くことのできない生き物の生き方とは
     一体何だろうかと考えることがある。

     私たちは、自分自身が移動できることを前提にして自由を考えている。
     ところが木は、種がそこで芽を出してしまえば、生涯そこから移動することはできない。
     それを不自由だといってしまったら、木の「人生」は成り立たないのである。

     ところが木は、動けないからこそ、
     ひとつの能力を身につけたような気がする。
     それは、自分が必要としているものを呼び寄せるという能力である。
     秋に落とす大量の落葉は、微生物や小動物を呼び寄せ、
     そのことによって彼らに肥料を作ってもらっている。
     木が持つ保水能力も何かを呼び寄せるためのものかもしれない。
     ときにたくさんの花をつけて虫たちを呼び寄せ、
     たわわに実をみのらせて、鳥や山の動物たちを呼び寄せる。
     そうやって他者の力を借りながら、木は生きているように感じるのである。

     そして、もしそうであるとするなら、木が自由で生きるためには、
     他の自然の生き物たちも自由に生きていられる環境が必要であるということになるだろう。
     木は自分の自由のために、他者の自由を必要とするのである。
     それは素晴らしいことである。

     人間はときに自己の自由を手にするために他者の自由を犠牲にさえするのに、
     木は他者の自由があってこそ自分自身も自由でいられるのである。

     自由を、日本の昔からの言葉の使い方に従って自在であることと言い直せば、
     木が自在な一生を生きるためには、自在に他者を呼び寄せ、
     自在に他者とともに生きていく世界が必要なはずである」

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