所有という神話: 市場経済の倫理学

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (289ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000233965

作品紹介・あらすじ

利潤という獲物を追って、負け組になるまいと日夜走りつづける。私たちは、そこで何を犠牲にしているのだろうか。市場経済という一つの社会システムによって、環境システムは破壊され、心的システムは目に見えないままに腐食される。もろもろのシステムは、互いに汚染し合って危機は加速度的に深まってゆく。企業倫理の無残な崩壊も、さまざまな事件の背後にある自閉化も、その現れではないか。市場システムを倫理的に問うための、条件と根拠はどこにあるのだろうか。市場メカニズムを、自己組織システムの理論を援用しつつ解明し、経済行為を駆動している「所有」という観念の由来をたずねる。システムの孤立した一要素としての経済人モデルに替わって、他者たちと私との存在の相互承認に基づく平等と、そこに基礎を置く「人‐間」的関係のヴィジョンを模索する。効率性における優位は疑うべくもなく、他に選択肢はないかに見える市場システムの人間的・倫理的含意を考察する、「人‐間の倫理学」に向けて。

感想・レビュー・書評

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  • 深く考えさせられる。市場原理の行き詰まりが見えるこんにち、改めて見直すべき視座だと思う。

    商品生産が主流になる前は、経済は、司法・教育・宗教といった活動と未分化であった。
    └諸種の活動はすべて共同体の中で行われた
    ・・・
    生産量に余剰が出ると生産の目的が変わる
    「自分たちに必要なものを手分けして作る」→「市で高い値がつくものを作る」
    →共同体の衰退

    市場は、個別的な相対の取引の単なる集合ではない。個々の取引価格に関する情報がほかの個々の取引に影響を与えあうことによって一定のパターンが生成する。このパターンが”フィードバックされるかどうか”が市場の成立
    └合意―理解

    リバータリアンは、代理母に関しても”当事者の自己決定に基づいて合意した取引であるならば規範的に正しい”と語る。
    のみならず、”代理母も市場で供給されるのが望ましい”と語らんとしている。
    しかし、代理母契約の一方の当事者は年収数千万のカップルであり、かたや若いという以外に元手のない年収百万程度の女性。
    しかもその若い女性には、戸惑いについて、似たような境遇の人たちと語り合うチャンスすら十分に与えられているとは思わない。おずおずと問いかけたはずの言葉が、その都度、応接価値のないノイズとして霧散したのであろう。
    └宛先不明で漂っているノイズに耳を澄まそう

    リベラル−「寛大」「度量の広い」という意味で用いられること
    ”多数派”の一員でありつつ「寛容」であらねばと感じた知識人によって体現されてきた

    「寛容」とは多数派に求められる態度
    └少数派にとっては異なる価値を尊重するということは彼らによる貶価を肯定することに他ならない・・・
    多数派が少数派に対して寛容を要求することは論理破綻
    ex.靖国合祀問題

    「寛容」がもし自己相対化と不可分なことであるなら、それはそんなに簡単なことであるはずがない。
    たいていは、自己の価値観の正しさは微動だにしておらず、そこで認知されたのは単に、その正しい価値観に目覚めているのは自分であり、それに目覚めていない者たちもまだ存在するという事実にすぎない。
    「異なる価値を奉じる者たちとは、やがて自分たちと同じになるべき“発展途上人”でしかない。」!
    リベラルな『寛容』に伴う、ある種のいかがわしさ

    リベラリストが個人の自由を尊重し合うための寛容を語る時、自分が「広く入れる」側の多数派の一員である事を棚上げしたまま論じているか、あるいは自分として手放していいと思う価値に関して寛容を勧めているか、そのいずれかであることがしばしばある。特に後者は狡猾である。

    オートノミー(自律)−自己所有なしには自己統治はあり得ない・・・
    ”生を所有・用益し、そこから幸福を産出するミニ領主”

    市場が参加者の間での合意形成のメカニズムであるときには、市場はすでにその都度参加資格を再確定し、参加者と“参加できない者”とを選別していく装置なのである。

    市場がすべての人に開かれているかのように描き出すことによって、あたかも「その外」がないかのような閉じた理論になってしまう。

    私有観念の肥大・蔓延

    没公共的な私有が幅を聞かせ、家庭内ですら公共空間が衰退した社会では、いたいけな幼児にまで『他人にはない個性』の所有が強要される。他人と違うものを持っていなくてはならないという強迫神経性。

    「市場」の外でおこぼれを配給されるだけの人々のつぶやきは、なかなか問いかけの言葉として響いてこない・・・
    そもそも、市場経済とは、「自分の作ったものを買った人が、それをどう使うのか」とか「自分が買うものを作った人が、何を願ってどう作ったのか」などというやりとりをすべてノイズとして切り捨てることによってはじめて成立しているからである。
    →市場の外にたたずんでケアされるだけの人、生まれてない人・・・の声が聞き分けられないのも当然
    こうした人たちのひそかなつぶやきに耳を澄まそうとすること、このことは、欲望の人間的な制限にとって極めて重要

    「値がつく物を持っていれば自由に生きられるし、持っていなければ自由には生きられない」という考え方が、あたかも自明のように定着し、誰もが、自分の生を『市場を顧慮して最大限の快を絞り出す元手とせよ』という所有の文法に取りつかれている・・・

    自然特性Nの差異から、社会的地位の差異Sへの関数の、どのような特質が、どのような権利侵害・不平等なのか
    本来、システム側に一定の条件があれば、その個人も、差異化されたまま対等にシステムに参与しうる

    システムへの『貢献』がすべてではない
    (障害者や高齢者等)家族が家を出るときに声を発するとか、あらずもがなの低い貢献しかしていなくても、家族システムを構成している
    「貢献に応じた個人的分配」という物語は、常にその資格要件を取得した者の口から語りだされ取得しなかった者によって聞きとられている。

  • 図書館HP→電子ブックを読む 
    Maruzen eBook Library から利用

    【リンク先】
    https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000003669

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著者プロフィール

1946年 埼玉県浦和市生まれ
[現職]専修大学文学部教授
[著書]『権力とはどんな力か』勁草書房,1991。『自分であるとはどんなことか』勁草書房,1997。『所有という神話―市場経済の倫理学』岩波書店,2004。『責任って何?』講談社,2005。『善と悪』岩波書店,2006。他多数

「2008年 『職業と仕事…働くって何?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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