親鸞と学的精神

  • 岩波書店 (2009年11月27日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784000234719

みんなの感想まとめ

親鸞の思想を哲学的視点から深く掘り下げた本書は、特に『教行信証』の学問的論証に焦点を当てています。著者は、ヘーゲル哲学との関連性を通じて、各巻の構造や意味を独自に解釈し、覚醒し証悟した智慧の展開を論じ...

感想・レビュー・書評

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  • 社会思想史が専門の哲学者今村仁司が親鸞の『教行信証』を分析した研究書である。「学的」という言葉が多用される専門的論調は覚悟して読まないとついていけず振り落とされる。

    第一部の親鸞研究序説は清沢満之が研究した浄土真宗や親鸞の哲学精神に出会い、彼に触発されて筆者が『教行信証』を対象にして考察したものである。
    『教行信証』を日本人には稀な学的体系性をそなえた
    第一級の哲学書とみなし思想史や哲学の観点から親鸞の学的言説体系を究明する。
    『歎異抄』は他人(唯円)の著作であり補助材料にしかならないとする。

    自分は親鸞やその教えについて従来の宗教表現を超えて科学的にどう理解すればよいのか常々考えていた。この論考は厳格な論理と表現で敷居は高いが、読むほどに納得できる気分に導かれる。

    従来の顕密仏教(八宗体制、南都北嶺と真言密教)は護国国家仏教であり、仏教と土着信仰を融合させて民衆の土俗信仰に迎合し政治支配体制に組み込む機能を担うものであった。これは本来の釈尊学派の仏教とは異なる「似非」仏教である(ヒンズー化した本覚思想の仏教で超越神を持つ)として、鎌倉の祖師たち(法然・親鸞・道元など)はインド古来の仏教を復権する原点回帰を図った。清沢満之の学問的仕事は哲学的精神で仏教の概念的思想と実践的精神を彼らに沿って再建することであった。そして他力門体系こそ仏教の本来の道であることを証明しようとした。

    ラディカリズムは極限・根源において考えることで、
    概念的思考とはラディカルに思考することである。
    事象を把握し、想念(観念)をつくって、概念にまで仕上げること。このラディカリズムは既存用語を全面的転倒させる。「善人・悪人」論でも親鸞の用語のなかには「善」を対比用語としてもたない「悪」のみが存在する。世俗的存在としての人間は例外なく悪人以外の何者でもないからである。著者も清沢の徹底した思考で親鸞の精神を理解しようとする。

    学的に書かれたものは必ず概念的に組織され学的言説で論証的に記述されている。『教行信証』は学的用語すなわち概念によって組織的に書かれた著作であり学的書物である。概念によって組織されるとは体系的な知を展開していることを意味する。親鸞の書物は学的に組織され概念的に論証された書物であり、読むにあたって論証と書物の体系的組織法(構造と組み立て)が問題になる。・・・・・と哲学的思考が続く。

    悪人正機や他力本願(表現はいろいろあるが)など親鸞思想の肝心の部分も深い論理で説明される。
    彼の突き詰めた学的研究は独特で、この手のものは難解なのに知的渇望感を唆る。

    全体を通したまとめにはまだ読み込みが必要であり、
    継続して続けることにする。

  • フランス現代思想に造詣が深く、とくに労働や暴力といった社会哲学的なテーマについて独自の考察をおこなってきた著者が、親鸞の思想における学問的論証の側面に目を向け、その意義について論じている本です。

    著者は哲学者としての観点から、『教行信証』の学問的論証の構造について、くわしい検討をおこなっています。『教行信証』の「化身土」巻は、ヘーゲル哲学における『精神現象学』のプロセスに相当するものとして位置づけられ、「真仏土」巻において覚醒し証悟した智慧が示されていると著者はいいます。そのうえで、教・行・信・証の各巻は、いわばヘーゲル哲学における『論理学』のように、覚醒し証悟した智慧の構成要素の同時的存在構造が展開されているものと解釈されます。

    また著者は、三願転入についても独自の解釈を提出します。著者によれば、『無量寿経』に示された法蔵菩薩の四十八願は、比喩や修辞などによって人びとを説得するための叙述になっており、その意義を分析し解読するさいには本質的な内容を再構成する必要があります。そこで著者は、利他行の実現という意味をもつものは、けっきょくのところ第十八願に「縮減」することができるとし、それに対する客観的現実性を保証するものとして、第十七願を対置させる見方を示しています。

    さらに著者は、親鸞の言説のみならず『歎異抄』のテクストについても検討をくわえ、「悪人」がすべての人間の根本的な存在構造を意味するといいます。そして、悪人の自覚から無限の智慧へと転じるという親鸞の思想がもつ、法社会学的な意義について独創的な見解を示しています。

    宗学における解釈とはまったく異なる、哲学者としての立場から親鸞を独自に解釈する試みが示されており、興味深く読みました。とりわけ、人間存在論と宗教哲学を結ぶ道について多くの示唆があたえられたように感じています。

  • 親鸞の悪人と凡夫    -2010.12.23記

    <悪人―存在>
    親鸞の「悪」は存在論的概念
    「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり、これはれうし-猟師-といふものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人-商人-なり。かやうのものどもは、みないし-石-・かわら-瓦-・つぶて-礫-のごとくなるわれらなり」
    親鸞のいう「われら」とは現世-五濁悪世-において煩悩に縛られ、すべての煩悩をかかえたままに生きる「例外なくすべての人間たち」である。
    現世のなかにいるかぎり「汚染され濁った人間」つまりは「悪であるほかはない人間」であり、「悪人」の対概念は「善人」ではなく「浄人」あるいは「覚者―覚醒した人」である。
    人間はおしなべて例外なく「悪-人」である、人間であることは悪人である宿命を免れることはできないのだ。
    問題は自分が世俗的本質、世俗的人間としての本質を自覚するかどうかであり、社会的規定が何であれ自分が世俗的人間であるかぎり、全面的に悪人であると自覚する者だけが、自我に執着して自己の力量を自慢し誇示することの絶対的不可能を認識し、自力救済の不可能の確信から他力への信頼を腑に落ちるようにして自覚できる。
    救済とはこの我執的存在をはっきりと知るに至りながら、我執を自分で取り去ることができないという根源的な事態に直面する人、これが悪人であり、その人だけが厳密な意味で救済の対象になる。
    この臓腑的知こそ親鸞が力説する「信」である。

    <人間なるもの-凡夫>
    凡夫とは「煩悩具足」の存在であり、煩悩とは玄奘の訳語で云えば「計所執性」
    遍計所執性とは
    1. 遍く計らうことであり、これには、①-自己を計らうことと、②-自分以外の周り-対象を-計らうこととがある。
    2. はからうことに執する-はからう自我に執する
    3. はかられたものに執する-はかられたものに執する-はかられた対象に執する。
    4. 執することに執する
    「我はからう」-根源的な「生きる欲望」-「力への意志」 

  • 『教行信証』が体系的に書かれていることは目次でもわかる。それを今村が入れ替えて再編してみせたところで、一読者の読み方を示したというに過ぎない。そんな印象をもった。もっとテキストに密着して、深く読んで、それを提示してほしかった。

  • 10/11/29。発売以来、購入を迷っていた故今村先生の本。購入決断に至るまでのわしの思想と思考の遍歴やいかん。

  • 2010.02.07 朝日新聞に掲載されました。

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著者プロフィール

今村 仁司(いまむら・ひとし):1942-2007年。岐阜県生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。元東京経済大学教授。専攻は社会思想史、社会哲学。

「2024年 『資本論 第一巻 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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