親鸞と学的精神

著者 : 今村仁司
  • 岩波書店 (2009年11月28日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000234719

作品紹介

人間社会に法的・倫理的正義を実現することはいかにして可能か-この社会哲学的問いは親鸞の思想に逢着する。親鸞の主著『教行信証』は、有限な人間が絶対知に至りうること(覚醒)を論証した学的な著作である。六巻からなるテキスト構造を解体し、世俗内人間が智慧を求める過程の現象学的叙述である「化身土」巻こそが『教行信証』の核心部分であることを見いだし、そこに親鸞の人間学を見る。親鸞思想の現代における可能性を切り開く社会哲学的考察。著者の絶筆。

親鸞と学的精神の感想・レビュー・書評

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  • <悪人―存在>
    親鸞の「悪」は存在論的概念
    「屠はよろづのいきたるものをころしほふるものなり、これはれうし-猟師-といふものなり。沽はよろづのものをうりかうものなり、これはあき人-商人-なり。かやうのものどもは、みないし-石-・かわら-瓦-・つぶて-礫-のごとくなるわれらなり」
    親鸞のいう「われら」とは現世-五濁悪世-において煩悩に縛られ、すべての煩悩をかかえたままに生きる「例外なくすべての人間たち」である。
    現世のなかにいるかぎり「汚染され濁った人間」つまりは「悪であるほかはない人間」であり、「悪人」の対概念は「善人」ではなく「浄人」あるいは「覚者-覚醒した人」である。
    人間はおしなべて例外なく「悪-人」である、人間であることは悪人である宿命を免れることはできないのだ。
    問題は自分が世俗的本質、世俗的人間としての本質を自覚するかどうかであり、社会的規定が何であれ自分が世俗的人間であるかぎり、全面的に悪人であると自覚する者だけが、自我に執着して自己の力量を自慢し誇示することの絶対的不可能を認識し、自力救済の不可能の確信から他力への信頼を腑に落ちるようにして自覚できる。
    救済とはこの我執的存在をはっきりと知るに至りながら、我執を自分で取り去ることができないという根源的な事態に直面する人、これが悪人であり、その人だけが厳密な意味で救済の対象になる。
    この臓腑的知こそ親鸞が力説する「信」である。

    <人間なるもの-凡夫>
    凡夫とは「煩悩具足」の存在であり、煩悩とは玄奘の訳語で云えば「計所執性」
    遍計所執性とは
    1. 遍く計らうことであり、これには、①-自己を計らうことと、②-自分以外の周り-対象を-計らうこととがある。
    2. はからうことに執する-はからう自我に執する
    3. はかられたものに執する-はかられたものに執する-はかられた対象に執する。
    4. 執することに執する
    「我はからう」-根源的な「生きる欲望」-「力への意志」 

       ――2010/12/23 記

  • 『教行信証』が体系的に書かれていることは目次でもわかる。それを今村が入れ替えて再編してみせたところで、一読者の読み方を示したというに過ぎない。そんな印象をもった。もっとテキストに密着して、深く読んで、それを提示してほしかった。

  • 10/11/29。発売以来、購入を迷っていた故今村先生の本。購入決断に至るまでのわしの思想と思考の遍歴やいかん。

  • 2010.02.07 朝日新聞に掲載されました。

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