世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

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  • Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000236935

作品紹介・あらすじ

資本=ネーション=国家が世界を覆い尽くした現在、私たちはどんな未来も構想し得ないでいる。しかし本書は、世界史を交換様式の観点から根本的にとらえ直し、人類社会の秘められた次元を浮かび上がらせることで、私たちの前に未来に対する想像力と実践の領域を切り開いて見せた。『トランスクリティーク』以後十余年の思索の到達点。

感想・レビュー・書評

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  • 「力と交換様式」を読み、なんか大味な歴史観に戸惑い、その原点を探すべく「トランスクリティーク」を読み、マルクス解釈に納得し、その間を埋めると思われる「世界史の構造」を読んでみた。

    唯物史観的な生産様式という下部構造が上部構造が規定するという世界観における生産様式をかならずしも「経済」に限定されない交換様式に置き換え、それをベースに世界史というか、人類史を大胆に読み解こうというチャレンジですね。

    この議論が、「力と交換様式」の前提にあったのだなと頭が整理された。

    ある種の交換様式がある種の社会経済システムを作り出し、それが歴史の発展を生み出していくというほど、単純な話しではないのだが、ある程度、図式的にはそういう議論の進め方にも読める。本の前半部分は、面白くはあるものの、そういう大味な感じは強い。

    いわゆる歴史学では1次資料にもとづく研究が重視され、そうした研究結果、つまり2次資料をもとに行うマクロ視点の研究は胡散臭いものとしてみられる傾向がある。

    そういう意味では、この本は、2次資料をもとに行われたマクロの3次資料をベースに議論されている印象があって、そこが大味な感じにつながるのだろう。

    まあ、柄谷さんは歴史家ではないわけで、正確な世界史というより、世界史の「構造」を見ようとしているわけだから、マクロな3次資料をベースにした超マクロな論立は、仕方ないこと。

    と思いつつ、本書の後半部分で、時代が近現代になり、資本主義が扱われるようになると、話はかなり面白くなる。資本主義、社会主義、ナショナリズム、国家、民主主義、ファシズムなどなどが、絡み合いながら、かなりスリリングな歴史理解が繰り広げられる。

    また、前半では、単純化のためにある交換様式とある社会経済システムが対応するよう図式が説明されていたのだが、後半の資本主義の説明では、ある特定の交換様式というより、さまざまな交換様式の結合として議論がなされていて、説得力がある。

    このあたりの時代になるとわたしもいろいろ勉強してきたので、一部、違う見解のところもあるのだが、全体としては、かなり共感できる内容であった。

    さて、そこから未来にむけての展望となると、ちょっと?な感じはでてくる。大まかには、カントの「永久平和」の議論にそって、一種の国連重視主義的な方向となる。

    その難しさは柄谷さんも当然理解したうえでの議論ではあるが、やはり未来に向けての前向きな議論を構築するのって、難しいなと思った。

    でも、現在の世界のクリティカルな分析についての納得性は結構ある。

  • マルクスは生産様式の観点から世界史の発展を考えたが、著者は本書で、世界史を交換様式の観点から根本的にとらえ直そうと試みている。その上で、現在支配的な「資本=ネーション=ステート」を越える道筋を示そうとしている。
    とても重厚な内容で読みこなせたとはとてもいえないが、交換様式に着目し、歴史を必ずしも発展過程と捉えない本書の内容は、生産様式に着目し、歴史を共産主義への不可避的な発展的な過程と考えるいわゆるマルクス主義歴史学よりも、自分にはかなりしっくりきた。ただ、「資本=ネーション=ステート」に替わりうるものについての展望(諸国家連邦など)は、けっして実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努めるような指標である「統整的理念」であるということわりは述べられているものの、あまり納得感を得ることができなかった。資本への対抗運動として、生産よりも消費に着目すべきとし、協同組合の可能性について指摘した部分については、なかなか示唆的だと感じた。

  • 柄谷行人は、『トランスクリティーク』までの姿勢として「2001年までは文芸批評家であり、マルクスもテキストとして扱い、そこから引き出せるものに限定していた」という。そこから態度を変えて、「生涯で初めて理論体系を創ろうとした」その結果が本書『世界史の構造』である。直面した問題が、「体系的であるしか語り得ない問題」であったからだ。柄谷は、国家と資本の揚棄という観点からカントの『永遠平和のために』を読んだというが、それは2001年以降の世界状況からカントやヘーゲルを読む必要に迫られたからだという。カントは、「諸国家連邦が、人間の善意によってではなく、むしろ戦争によって、ゆえにまた、不可抗力的に実現されるだろう、と考えた」のである。

    さて、柄谷行人を現在において読むということは、自分にとってどのような意義を持つのだろうか。20年以上前、柄谷の著作は、日本における思想家の第一人者として大きな存在感を持っていた。少なくとも自分の中では。本書でも形を変えて取り上げられている世界宗教や共同体間の交換について思索を進めていた『探求II』が刊行されたのは1989年のことになる。共産圏は誰が見ても崩壊しつつあり、ベルリンの街に築かれた壁も崩れかかっていた。その時代において、柄谷の世界の新しい解釈の仕方について、その意義を感じてもいた。果たして、柄谷後期の代表作とも呼ぶことができるであろう本書を読んでなお、どのように感じるのだろうか。もはや同じ強度を持ってその著作を読むことができないのでは、というのがこの大著を前にしての気持ちであった。日々の生活にも、日々の仕事でもほとんど実践的な役に立つことはないであろうこの本を読むことの意義。そのゆえに購入して本棚に置いたまま何年も読むことができなかった。

    柄谷の後期の思索における重要な概念である資本=ネーション=ステートは、『トランスクリティーク』の中で論じられている。本書においても、資本=ネーション=ステートは、主要なテーマであり、本の最初の部分に次のように比較的わかりやすい形で説明されている。トマ・ピケティにより資本主義と格差の問題に注目が集まっているが、本書でもすでにそのことは資本=ネーション=ステートにおける明確な問題として指し示されている。
    「先ず資本主義的市場経済が存在する。だが、それは放置すれば必ず経済的格差と階級対立に帰結してしまう。それに対して、ネーションは共同性と平等性を志向する観点から、資本制経済がもたらす諸矛盾の解決を要求する。そして、国家は課税と再分配や諸規制によって、その課題を果たす。資本もネーションも国家も異なるものであり、それぞれ異なる現地に根ざしているのだが、ここでは、それらが互いに接合されている。それらは、どの一つを欠いても成立しないボロメオの環である」( P.3)

    そして、本書のもうひとつの大きなテーマが「交換様式」による世界史の再構成だ。この柄谷のマルクスにおける交換様式への注目はかなり前からのことだ。主要著作の『探求II』でも「交換」は最終第三部のメインテーマとなっている。

    交換様式には、柄谷の定義するところA~Dの4種別があり、どの交換様式がドミナントであるかによって社会が規定されると考える。注意すべきなのは、これらの交換様式はひとつの社会の中で排他的ではなく、それらが混在していることを柄谷は幾度も強調している。そのことを念頭に置いた上で、交換様式と資本=ネーション=ステートとは、次のような形で結びついていることが示される。

    交換様式A: 互酬 (贈与-返礼の義務) → 部族社会: ネーション = 「ミニ世界システム」
    交換様式B: 略取-再分配 → 国家社会: 国家(ステート) = 「世界=帝国」
    交換様式C: 商品交換(互いに自由な存在として認識するときにのみ成立する) → 資本制社会 (資本) = 「世界=経済」
    交換様式D: X = 「世界共和国」

    これこそが、体系的に構築した「世界史の構造」なのだろうか。序論の最後において、柄谷はこう記す。
    「私がここで書こうとするのは、歴史学者が扱うような世界史ではない。私が目指すのは、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することである。それはまた、世界史に起こった三つの「移行」を構造論的に明らかにすることである。さらに、そのことによって、四つめの移行、すなわち世界共和国への移行に関する手がかりを見出すことである。」(P.44)

    これを受けて本書では、各交換様式と相対する各システムを順に「ミニ世界システム」(第一部)、「世界=帝国」(第二部)、「近代世界システム」(第三部)と議論する構成となっている。

    特にそのシステム間の移行について論考を重ねている。いわく、ミニ世界システムから世界=帝国に移行するにあたっては、次のように論述している。

    「農業から国家が始まる、ということはできない。むしろ、その逆に、国家から農業は始まるのである」
    「したがって、重要なのは、共同体が発展して国家になったのではなく、集権的な国家の形成とともに共同体が新たに形成されたのだ、ということである」(P.108)
    「商品交換は共同体と共同体の間で始まるということを、マルクスは幾度も強調した。それは商品交換の起源を個人と個人の間に見出したアダム・スミス以来の偏見を批判するためである。スミスのような見方は、近代の市場経済を過去に投影する「遠近法的倒錯」にすぎない」(P.121)
    「交換様式AやBは、それぞれ力をもっている。「贈与の権力」や「国家権力」である。しかし、交換様式Cからも、それに固有な「力」が生まれる。それは国家によって生まれるものではなく、逆に、国家がそれを必要とするものである。その力とは、具体的にいえば、貨幣の力である」(P.124)
    「さしあたり大事なのは、商品交換がなされるためには国家が必要であるのと同時に、国家もその存続のために貨幣を必要とするということである」(P.124)

    その交換様式の理論を前提において、貨幣や世界言語、世界宗教や周辺-亜周辺の論理について考察される。特に柄谷が注目するのが労働力の商品化だ。資本主義の発生には国家の介入が必要であった。なぜならそれは労働力を必要とするからだ。柄谷は、おそらくはそこにシステムを揚棄する契機と実践を見ようとしているように思える。

    「国家と資本は異質であるが、相互に依存することによってのみ存続するのである」(p.295)
    「カール・ポランニーは、市場経済が「自己調整的システム」として自立するためには、労働力、土地および貨幣が「擬制商品化」することが不可欠で、それが歴史的に具体化したのは十八世紀以降でしかない」(p.295)
    「産業資本の本質はあくまで「労働力の商品化」にある。土地の商品化や貨幣の商品化、さらに資本の商品化は重要であるが、もっとも根本的なのは労働力の商品化である。これがなければ、商品交換が全面化することはありえないからだ。そして、資本主義の危機も本質的には、ここからやってくる。
    資本主義経済は「信用」からなる体系である。そして、信用とは商品交換の困難をとりあえず超える手段であった。ゆえに、信用が突然崩壊する危険はいつもある。とはいえ、信用の「危険」を偶発的にではなく、必然的にもたらすのは、ある種の商品化である。それが労働力商品である」(p.299)

    この近代システムの世界史的諸段階として、期間を60年ごとに分けて、商人資本による重商主義(1750-1810)、イギリスがヘゲモニーを握った自由主義(1810-1870)、重工業の帝国主義(1870-1930)、アメリカがヘゲモニーを継いだ戦後の後期資本主義(1930-1990)、そして情報が重要となった新自由主義(1990-)とその推移を分析する (p.412 表1)。それぞれに対応する国家の形は、絶対主義王権、国民国家、帝国主義、福祉国家、地域主義が相当する。ここで「自由主義的」な段階と「帝国主義的」な段階が交互に続くとしている。その観点から、冷戦終了後の1990年以降が1870年以降の「帝国主義」の時代に類似しているという。もし、世界の構造が60年ごとに大きく変わるのであれば、自分たちが生きている間にもここに書いたような大きな世界史的変革が起きる可能性があるという。

    これらを念頭におき、第四部を使って交換様式Aとは異なる新たな互酬原理に基づくものである交換様式Dに基づくアソシエーションについて語る。

    「資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である。それは、資本主義を超えることがどういうものかを、あらかじめ人々に実感させる」(p.440)と柄谷が書くとき、かつて自らが主宰したNAMを念頭においていることは確実だ。資本主義を超えるものは出てくるのだろうか、その変化の動力となるものはあるのだろうか。柄谷は、3.11以降の原発デモにも積極的にかかわっている。デモに参加することで、デモに参加できるような社会ができあがる、と言っていたようにも思う。この点については、考え違いかもしれないが、原発というよりも「デモ」という行動に特別のものを見ているようにも思える。

    そして、柄谷行人は最後を次の言葉で締めくくる。
    「互酬原理にもとづく世界システム、すなわち、世界共和国の実現は容易ではない。交換様式A・B・Cは執拗に存続する。いいかえれば、共同体(ネーション)、国家、資本は執拗に存続する。いかに生産力(人間と自然の関係)が発展しても、人間と人間の関係である交換様式に由来するそのような存在を、完全に解消することはできない。だが、それらが存在するかぎりにおいて、交換様式Dもまた執拗に存続する。それはいかに否定しても、否応なく回帰することをやめない。カントがいう「統整的理念」とはそのようなものである」(p.465)

    本書は2010年の刊行だが、その後英訳され、そこから再和訳されたものも出ている (自分が読んだのは旧版の方である)。売れているかどうか別にして、ローカルなコンテキストを超えてグローバルな議論に耐えうるものとしていることが実は柄谷の魅力だ。そして彼は英訳版を出すこと、つまりグローバルに読まれることを十分意識した仕事を行っている。純粋にアカデミックな分野は別として、そのような形でこの分野で仕事をしている日本人は知る限り他には見当たらない。その成果についてやはり見るべきものがあると考えたい。

    一方、将来の予測ともいえる交換様式Dがドミナントとなる社会については残念ながら自分にとっては説得力はなかった。ボロメオの環とまで表現する資本=ネーション=ステートを次の段階にまで持っていくための動力についての説得的な説明がほとんどなかったように思う。世界宗教やカントの哲学をその動力として想定をしているのかもしれないが、そこに腑に落ちる要素はない。

    自分としては、もしそれがありうるのであれば、その動力は月並みであるがインターネットによる情報技術の革新ではないのだろうかと思う。ネットによってもたらされた情報格差の消失が交換様式の変換を準備するといえなくはないのではと思う。また、そのことへの分析なくして交換様式の変換の議論を進めるべきだとも思えない。チュニジアでのジャスミン革命から始まりエジプトやリビアでの政権交代があったのが2010年12月から11年にかけてのことである。本書の刊行が2010年6月であるから、それらのネットが影響したと言われている政変が起きる直前ということになる。これらの出来事は柄谷の仕事に何か影響を与えるようなものであっただろうか。

    普遍的なものを得ようとするのであれば、世界史の中でそれがいかにして起こったかを説明できることが必要である。柄谷はそのことを見ようとして、世界史を彼の物差しを当てて見る。そこには経済と宗教とがある。それらの根本に共通に「交換様式」を見ている。柄谷は、『探求II』において、世界宗教を共同体の信仰とは異なるものとして「世界」についての解釈を与えることとして規定した。柄谷にとっては、「世界」の概念がその頃から重要であった。そして、そこから資本=ネーション=ステートという互いに補完的でかつ包括的システムを成立させる条件を同定する。それらは「世界」を与えるものにほかならない。それでは、ネットのつながりにより形作られる世界は「世界」たりうるのだろうか。それは、資本=ネーション=ステートに影響を与えうるものにならないのだろうか。柄谷の影響を強く受けたであろう東浩紀は、その射程は柄谷に及ばないまでも、少なくともネットについて殊更に強く意識をしている。柄谷にとって現状起こりつつあるものは、資本やネーションに影響を与えうる可能性はあるが、根本的な観点からはそれを超えるものではないのかもしれない。ただし、本書刊行から5年経過もし、ネットも含めた世界に対する体系的な考察を加えるべきだと考えることは決して筋違いなものではないように思うのだ。

    カントの永遠平和や諸国家連邦を持ち出し、国連を重要視する柄谷の姿勢は、いくらか古臭く感じる。それこそが一週回って逆に新しいのかもしれないが、一方でその点において、柄谷の語る展望が正解だと信じることもできない。しかしながら、現在において柄谷を読む意義について、他に替えることできないものとしてやはり知的な面白味は確かに満喫することはできたのである。視線をずらす、ということにおいて意義あるものであることは確かだ。万人に対して勧める本ではないが、そこに意義は見つけることができる本である。



    『帝国の構造: 中心・周辺・亜周辺』のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4791767977

  • 柄谷行人とは思えない文章のわかりやすさ。晦渋さがほとんど感じられない。なにがあったのか。

    それはさておき。
    「生産様式」でなく「贈与」に着目して社会構成体史を描き直すという視点、僕の頭にはずっとぼんやりとそのことがあった。こんな体系的じゃ、もちろんないけど。「生産力の発展」で歴史の進行を説明するありかたや、「無機質に資本によって人間が連結される」ことを言う議論のなかで、「贈与」ってどういうふうに処理されるんだろう…とずっと思っていたので、ああ、こういう風にも説明できるのかと得心した部分があった。

  • 借りたけど積んどく

  • がんばったけど、最後の最後で飽きた。

  • 国家は多数の都市国家や部族共同体を軍事的に従属させることで成立する。
    しかし、軍事的な制服や強制だけでは安定した
    永続的体制を作ることができない。
    支配者に対する貢納や奉仕を、支配者の側からの贈与に
    対する被支配者の返礼というかたちにしてしまう必要がある。

    それが宗教の役割である。故に、このような宗教は国家の
    イデオロギー装置である。
    被支配者は、神に自発的に服従し祈願することによって
    助けを得ようとするその神は、王=祭司の手に握られている。
    神への祈願は王=祭司への祈願である。
     
     ゆえに、宗教的な位相をみないと、氏族的共同体が国家に
    転化していくプロセスを理解できない。
    それは宗教がまさに「交換」という経済的次元に根ざしている
    からだ。宗教と政治・経済は不可分離である。
    たとえば、国家の神殿は供出物を備蓄し再配分する倉庫でもあった。
    読み書きに堪能な祭司階層は同時に、国家の官僚階層
    でもあった。また、天文学や土木工学を発展させた科学者でもあった。
    「呪術から宗教へ」の発展とは、氏族社会から国家への
    発展にほかならない。それに関して、ウェーバーもこう述べている。
    呪術師はどこでも先ず雨乞い祈祷師であるが、
    メソポタミアのように国家による灌漑農業がおこなわれるところでは
    呪術師はもはや機能しない。収穫をもたらすのは、水を引いてくる
    灌漑施設を造る国王であるとみなされる、ゆえに、
    国王は絶対視される。国王は、荒漠たる砂の中から
    収穫をもたらす。世界を「無から創りだす」神という観念の一源泉はそこにあると
    ウェーバーはいうのである。

    しかし、このような神は真に超越的な神ではない。
    なぜなら、この神は人の祈願=贈与に応えられたないならば
    人に棄てられるからだ。具体的にいえば、共同体や国家
    の神は、戦争に負ければ棄てられる。つまり、ここでは。
    神と人間の関係の互酬性が残っているのである。
    その意味で、呪術的なものが残存する。普遍宗教が出現するのは、
    いわば、祈願に対して応じなくても棄てられない神、
    戦争に負けても棄てられない神が出現するときである。
    それはいかにして生じたのか。(P193)


    ヘーゲルによれば、議会の使命とは、市民社会の合意
    を得るとともに、市民社会を政治的に陶冶し、人々への知識と尊重
    を強化することにある。いいかえれば、議会は、人々の
    意見によって国家の政策を決めていく場ではなく
    官史たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めた
    ことであるかのように思わせる場なのである。(P257)

    プルードンもまた、資本は個々の労働者が集団的に働くことで
    実現した「集合力」に対しては支払わない、ゆえに、「財産は盗みだ」
    と主張した。

    フランス革命において「友愛」とよばれたものは、スミスが
    共感あるいは同類感情と読んだものと同じである。
    友愛という観念はもともとキリスト教的な起源をもつ。
    しかし、スミスのいう共感が宗教的憐憫と違って
    利己心が承認される状態にこそ生じるように、この時期の
    友愛はキリスト教的な観念とは似て非なるものである。
    友愛は、フランス革命における、職人的労働者たちの
    アソシエーションの表現であった。しかし、友愛は
    フランス革命の過程でネーションに吸収されていった。
    具体的にいえば、革命防衛戦争、さらに、ナポレオンの下で、
    ナショナリズムに転化していったのである。

     その後、「友愛」は初期社会主義の中に復活した。だが。
    友愛はいつもナショナリズムとつながる傾向がある。
    初期社会主義の中で最も影響力をもったのは、
    サン=シモン主義である。それは国家による産業の発展と
    社会問題の解決を同時にはかるものであった。
    しかし、それもやはりナショナリズムに帰着した、社会主義的な
    色彩をもったナショナリズムに。
    たとえば、ルイ・ボナパルトはサン=シモン主義者であったし、
    プロイセンのビスマルクも、ドイツ版のサン=シモン主義者である
    ラッサールの親友であった。したがって、
    プルードンが社会主義に友愛という契機をもちこむことを
    拒否するうところからはじめたのは、重要なことである。

     (P329)

     哲学史においては、カントが感性と悟性の二元論に固執し
    ロマン派がそれを乗り越えたということになっている。しかし、
    カントは二元性を肯定したわけではない。感性と悟性の分裂
    ということは、具体的にいうと、ひとが自分でそう考えている
    のとは違ったあり方を現にしているということである。
    たとえば、資本制社会では誰でも平等だと考えられているが、
    現実には不平等である。とすれば、悟性と感性の分裂が現にある
    わけだ。その分裂を想像力によって越えようとするとき、
    文学作品が生まれる。そのような文学による現実の乗り越えが
    「想像的」なものだということは、誰も否定しないだろう。
    感性ー悟性ー想像力


    (P351)

    ここで一言いっておく。今日歴史の理念を嘲笑する
    ポストモダニストの多くは、かつて「構成的理念」を信じた
    マルクス=レーニン主義者であり、そのような理念
    に傷ついて、理念一般を否定し、シニシズムやニヒリズムに
    逃げ込んた者たちである。
    しかし、かれらが、社会主義は幻想だ、大きな物語にすぎない
    といったところで、世界資本主義がもたらす悲惨な現実
    に生きているひとたちにとっては、それではすまない。

  • 此れは好いもので、余り言う事は無い。言うとすれば、これでは吉本隆明への批判には成ってないよ、と云う至極些細などうでもいいことは残しておく。ひとつ、〈交換様式D〉なる純粋贈与に関する考えに就いては、糞味噌に言っておきたいが、それくらいで、特に妙なところもない。
    この程度のことは10年も20年も前に、あんなちんけな事をやっていないで、さっさとやればよかったのだ、と云う位いのことは思うが、実物を前にしてそんな意味もない。
    http://c4se.hatenablog.com/entry/2012/09/14/203227

  •  世界史の構造を交換手段の観点から捉え直すという試み。マルクスが生産手段から世界史を分析したのとは対照的である。交換手段とは、
    ・互酬(共同寄託)
    ・強奪
    ・売買
    ・社会主義
    である。これら4つのうち、主に前者3つによって歴史が動いてきたと論ずるのである。

    しかし、マルクス主義者ほぼ全員に共通する謬識として、剰余価値がどこから発生するかについての決定的な誤りがあるためにその論は主に資本主義社会の未来について、といえば国家および世界の未来についての分析を誤っている。

     著者が剰余価値が生産過程では無く交換過程で発生すると捉えるのは従来のマルクス主義者と違ってやや前進であるが、やはり正確では無い。剰余価値は交換過程で発生するのでは無く、実現するのである。発生過程はあくまで剰余価値の発露であって、源では無い。

     では剰余価値はどのようにして発生し、蓄積されるかと言えばそれは貨幣の交換価値と蓄積手段という部分に着目しなければならない。まずは剰余価値は仮象としては太陽エネルギーを生物代謝機能によって、食物以外の欲求という形で分散されることに由来する。

     動物は労働力商品を提供することが出来るが、その報酬として餌しか求めないという点において資本主義社会では剰余価値を過小にしかもたらさない。なぜなら、食物が有する反エントロピーエネルギーは膨大であるが、それは動物の労働力では十分に移行し得ないからである。食物のエネルギーをただ消費してそれを蓄積することも無いままにエントロピーとして拡散してしまう。

     人間だけが剰余価値を生み出し、拡大させることが出来る。それは食欲や性欲以外の様々な欲求、効用を有することによって、食物エネルギーを様々な形で取り出すことが出来るからである。そして取り出したエネルギーは交換過程を以て貨幣という形で全てでは無いが移行、蓄積できる。

     となれば、剰余価値の拡大のためには様々な効用の担い手として、言い換えれば太陽エネルギーの電池としての多くの人間がいればいるほど有利である。人間は太陽エネルギーのダムである。

     ただ誤解してはいけないのは、資本主義にとって市場の拡大は剰余価値の拡大の物理的要因でしかありえず、たとえ市場は拡大しなくても剰余価値は発生し、蓄積される。つまり資本主義はその存在条件として市場の拡大を必要としない。これが著者が分析する、資本市場は剰余価値の蓄積のために市場の拡大を前提とする故に究極的に行き詰まると結論づけるのとは大いに異なることである。

     もちろん世界全体が資本主義社会に移行し、成熟した場合には剰余価値の限界増加率は小さくなるだろう。しかし、それは剰余価値がそれ以上発生しないと言うことでは無い。ただ成長率が鈍化するだけである。

     また著者は資本主義のその運命故に社会的不平等が発生し、結果世界社会主義革命が起きると予想するが、資本主義はそんな不全なシステムでは無く、不平等を富の拡散過程に置いて底辺を持ち上げる機能を持つ。だから不平等は存在する、しかしそれは絶えず底辺が持ち上げられることにより貧困は解決する。不平等が問題なのでは無く、全体がかさ上げされることによって、階級による不平等の問題が無意味になるのである。

  • ずっと読めないでいたが、ようやく読了。面白い本だった。

    こういうジェネラリストによる総合的な書物、歯ごたえのある書物は読んでいて本当に楽しい。政治学、経済学、哲学、そして歴史学など多様な視点をマルクス、カント、ヘーゲルを中心に細かく、そして総合的に検証している。マルクスと資本論に対する誤解も丁寧に歴史的に検証している。

    文章は精緻で丁寧でとても読みやすい.60年代〜80年代に流行った思わせぶり、知識人的な文章でないのが好感を持てる。

    マルクスのいった資本の格差が国内ではなく、外国との差異によって生じ続けているというのはその通り。でも、中国はその格差を利用して、貧しさを克服した。格差は拡大したけど、まえの中国に戻りたいという人は少数だろう。日本も同様。今の格差社会を乗ろう人は多いが、かといって戦後まもない貧しい時代に戻るのはできない相談だ。今後はミャンマーやベトナムが同じような経路をたどるだろう。中国が肩入れするアフリカ諸国も同様だろう。

    いずれにしても、人間の道徳心は距離に依存しているとぼくは考えるので(時間、空間、感情的な距離)、道徳心を基盤に世界平和を具現化するのは困難だと思う。ツイッターなどのソシアルメディアでたしかに世界はより狭くなったが、シリアやミャンマーに強いシンパシーを抱くのは日本人でも少数派だろう。情報はあっても気持ちは乗らないのだ(善し悪しは別にして)。

    カントの贈与の精神は個人の心構えとしてはよいと思うが、未来予測としてはあまりにナイーブな考えで、それを裏づけたり支持する根拠はない。演繹とイデオロギーばかりで、帰納的な検証も実例もなく、演繹とイデオロギーばかりだとしばしば間違えるのはこれまでの歴史が示した通りだ。このへんが、観念先走りのきらいもなくはない。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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