本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784000238427
感想・レビュー・書評
-
以前読んだときは、逐語訳っぽい金時鐘氏の再訳に心が惹かれなかったのだけど、それは私の“詩心”に対する想像力が足りなかったことと、一番はこの時代の歴史や文学についてまるっきりの勉強不足だったから。
朝鮮語が廃滅されかねない危機に対して、朝鮮の詩人たちがどれほどの不遇な扱いを受けようとも、母語を守り通し母語を愛し通したのか、そんなことに思いを馳せることもなく詩集を閉じたこと、今は深く反省している。
今回、ずっと本棚の隅にあったこの詩集を読み返してみて、植民地下の朝鮮で野菊のようにいじらしく、そして逞しく生きた詩人たちの“詩心”や、余計な装飾などない朝鮮語の凛とした美しさに触れたとき、あまりにも心が揺り動かされたことに自分でも驚いた。
金時鐘氏の訳詩は、忠実に原詩に迫ろうと意訳を極力避けたものになっている。
だからと言って逐語訳そのままでもない。逐語訳だけでは保てない行間の音数に苦労を重ねながら、原詩の“詩心”に対して誠心誠意尽くされた、まさに“忠実”な訳詩なのだ。
金素雲氏の『朝鮮詩集』の感想で私は、逐語訳だと『野菊』の出だしは趣がないと書いちゃったけれど、金時鐘氏の“原詩に忠実な”訳詩は、日本の色鮮やかな情感とは違う、真っ白な情感が滲み出ているようだ。それは趣というよりも、うーんなんと言うか、朝鮮詩には、高潔さや清廉さといった精神の凛々しさが感じられるのだ。
つい先日、金素雲氏の抒情豊かな訳詩に感動したと感想を書いたばかりなのだけれども。
『野菊』 異 河 潤
私は野に咲いている菊の花を愛します。
色と香りがいずれも劣りはしませぬが
広い野にいじらしく咲いては散る花ですので
私はその花を限りなく愛します。
私はこの地の詩人を愛します。
侘びしくとも思いのままに咲いて散る花のように
色も香りも偽りひとつありませんので
私はその人たちが詠む歌をこよなく愛します。
しかしながら、なぜ金時鐘氏は、そこまで原詩に“忠実”であることにこだわられたのか。
当時、皇国少年と化した金時鐘氏も金素雲氏の『朝鮮詩集』を介して朝鮮の“詩心”に接したひとりだった。金時鐘少年は、その精緻流麗な日本語で書かれた抒情詩の朝鮮の“詩心”に感動する。
けれども日本が太平洋戦争に敗れ、朝鮮が解放され、朝鮮語もよみがえると、金時鐘少年は体内で日本語による情感とは違ったリズムが脈打ちはじめたことに気づく。
すると、すりきれるほど親しんだ金素雲氏の『朝鮮詩集』にも疑問がわいてきた。金素雲氏の「名訳」へ賛辞を送った日本の近代詩壇の重鎮たちは、朝鮮語を知らないし原詩も読めないのだから、彼らには訳詩が適切だったかなんて分かるはずはなかったと……
60余年を経て、金時鐘氏は朝鮮本土に原詩収集と詩人たちの経歴調査をおこなう。
その結果、『朝鮮詩集』は、金素雲氏の訳詩というよりも、当時の日本の抒情詩にリズムを合わせた、金素雲自身の詩の歌であることを確信する。つまり「酷薄な歴史の試練にさらされてあった朝鮮の“詩心”からは遠くかけ離れたものだった」。だからこそ、金時鐘氏は朝鮮の真の“詩心”に忠実に迫ったのだ。
『蜻蛉』 李 箱
触れば指先が染まりそうな深紅の鳳仙花
ひらひら今にも舞い上がりそうな白い鳳仙花
いつの隙にか項(うなじ)を南に向けている忠義
一徹の向日葵の花
これらの花で飾られているというゴッホの墓は
いかばかり美しいことでしょう。
山は昼ひなか眺めても
晩春の雨にそぼ濡れて見えます。
ポプラは村の指標と同じく
そよ吹く風にもすらりとしたあの背丈を
抛物線でたわましながら真空さながらに澄んだ
大気のなかで
遠景を小さく縮めています。
身も翅も軽がると蜻蛉が飛び交っています。
されどあれは本当に飛んでいるのでしょうか
そのまま真空の中ででも飛んでいそうです。
あるいは誰かが
目に見えない糸で繰っているのではないでしょ
うか。
※作者生前(1935年ごろ)に『朝鮮詩集』訳者・金素雲氏に送られた日本語の私信を、とびとびに言葉を継ぎ合わせて詩の形に直したもの。
この詩集にはハングルの原詩も載っているのが嬉しい。金時鐘氏の訳詩と照らし合わせたり、金素雲氏がどのように意訳したのかを知ることもできるし、勉強になる。
たとえ日本語であっても朝鮮の詩心を伝え残そうした金素雲氏の訳詩。
朝鮮の詩心に忠実にあろうとされた金時鐘氏の訳詩。
そして今、私はどちらの訳詩も読める時代に生きている。詳細をみるコメント0件をすべて表示
著者プロフィール
金時鐘の作品
本棚登録 :
感想 :
