永山則夫 封印された鑑定記録

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000241694

作品紹介・あらすじ

日本社会を震撼させた連続射殺事件の犯人、永山則夫。生前、彼がすべてを語り尽くした膨大な録音テープの存在が明らかになった。一〇〇時間を超える独白から浮かび上がる、犯罪へと向かう心の軌跡。これまで「貧困が生み出した悲劇」といわれてきた事件の、隠された真実に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • <「永山事件」の精神鑑定に当たった医師が録音したテープから浮かび上がる、犯人の像>

    昭和43年の秋、日本中を震撼させる、1つの連続射殺事件が起きた。
    事件には奇妙な特徴がいくつかあった。
    22口径という殺傷能力がさほど高くない拳銃が使われていること。1ヶ月足らずの短い期間に、東京・京都・函館・名古屋という広範囲の地域で、4件の事件が起きていること。被害者は互いに面識がなく、共通点も見つからないこと。金品が残されているケースと金目の物をすべて奪うケースが混在していること。
    凶悪犯か、愉快犯か。警察の総力を挙げた捜査にも関わらず、犯人は杳として知れず、4件の後はぷっつりと犯行が止んだ。
    半年後、事件は急展開を迎える。半ば自首のように現れたその犯人は、永山則夫。19歳の少年だった。

    本書は、この永山事件の背景を知る手掛かりとなる膨大な録音テープが発見されたことから生まれた。本書の著者は元々、永山事件の取材をしていた(『死刑の基準-「永山裁判」が遺したもの』(2009年))。日記を読み進めるうち、この事件の精神鑑定に当たった石川義博医師が、永山を相手に生育歴に関するインタビューを行っていたことが判明する。これらが録音されていたことを著者は突き止める。100時間を超えるテープを石川医師から託された著者は、丁寧に聞き取り、書き起こしていく。
    浮かび上がる事件像は、「貧困と無知が引き起こした犯罪」という通り一遍の言葉からは抜け落ちてしまう、1人の少年の姿を鮮やかに描き出していた。

    非常に吸引力の強い本である。
    テープの内容に沿って物語は進む。
    石川医師は、会話を通じて、永山の幼時の記憶を徐々に解きほぐしていく。
    幼い則夫少年がどのように育ち、そしてついに犯罪に手を染めることになったか、読者もまた追体験していくことになる。
    則夫の家は、子だくさんの上、父は博打打ちだった。元々、母親に十分な愛情を掛けられることもなかった則夫は、一度は厳寒の網走に兄姉とともに「捨てられ」、一冬、子どもだけで過ごしたことすらある。どうにかこうにか生き延び、やがて青森にいた母と再び暮らすことになるが、学校には馴染めず仕舞いだった。その後、社会に出てからも同じ場所で長く勤めることが出来ず、出奔を繰り返す。兄弟とも関わりはあるが、極めて冷淡なものだった。

    本書を読み進めて行くと、永山の生来の性格もあったのだろうが、そこに生育歴が加わり、人との関係をうまく結ぶことが出来なくなったのではないかと思えてくる。
    親はなくとも子は育つ、と言う。だが苛酷な環境で育つ子どもは、やはりどこか、「育ちきれない」部分を抱えてしまうのではないか。
    一方で、この母を責めることも躊躇われる。母は貧困から抜け出す術があることに思い及ばぬほど困窮していた。母自身もまた、ネグレクトと言ってもよいほどの幼少期を送っていた。

    この物語の主人公は永山だが、石川医師の物語もまたある。石川医師は、この事件の鑑定に関わったことで、それまでの人生の舵取りを大きく変える選択をすることになる。
    それは1つには、この物語が、「理解ある人物との出会いで、かたくなな心がほどけ、更正・再生した人間の物語」というような、単純な図式を辿らなかったからともいえる。
    永山は結局のところ、人との関係を結べるようになったのか?
    裁判が大きな騒ぎとなっていく中、石川医師は大きな落胆を覚えることになる。その後、犯罪精神医学の現場を去り、臨床へと向かっていく。
    これはまた、本書のもう一つの山場でもある。

    永山は決して知能が低かったのではなかった。
    本を読み、特にドストエフスキーに傾倒し、四男である自らを『カラマーゾフの兄弟』に登場するスメルジャコフになぞらえている。事件前の最後の出奔の前には、『罪と罰』を読んでいた。ラスコーリニコフが老婆を殺したところまで読み、本を置いてきてしまったことを、永山は残念に思っていた。
    彼が『罪と罰』を最後まで読んでいたら罪を犯さなかった、というほど、ことは単純ではないだろう。だが、もしもこうした本のことを語り合う友人や家族がいたならば、あるいは違った結末があった、かもしれない。

    最初の犯罪に手を染めるまでの彼は、何者かに対する恨みを腹の中にためながらもどこか怯えた子どものようでもある。
    亡くなった被害者が複数いる以上、軽々しいことは言えない。
    だが、断罪することが、最良の、あるいは唯一の道だったのか。
    そして、人が社会生活を営めるか社会から外れていくか、その境界はそれほど確たるものではないのではないか。
    その問いが残る。

    著者の熱意を感じさせる労作である。

  •  堀川惠子さんのノンフィクションには毎回深い学びがある。

     前半部分をよんでる時は、永山則夫の置かれた環境に、このような状況に追い込まれた子どもがいたという事実に言葉を失った。

     でも、読み進めるうちに読んでいるのが苦しくなった。永山則夫の過酷な状況に心は痛むけれど、彼のあまりの被害妄想に、かすかないら立ちをも正直なところ覚えた。

     でも、それでも読み進めていくと、彼のしてしまったことは人として許されないことだけれど、でも彼もまたこの社会の犠牲者だったのではないかと思った。

     ある弁護士
    「少年事件を担当すれば誰でも気がつくこと、それはあまりに偶然が左右するということです。あの時この人と出会っていれば、この一言があればということがすごく多いのです。成長期の不利益条件は誰もが抱えていて、うまくいけば乗り越えられるし、運が悪ければ外れっ放しになる。

     永山則夫の家庭環境はひどいものだった。だからこそ、なおさらに「あの時、あの出逢いがあったから」
    そういう人が必要だった。でも、彼にはなかった。彼自身が誰かに相談するという術をもってなかった。


     そして、著者の言葉にその通りだと思った。
    ”人間として生きていくための基盤となる家族、そして、その絆を失った人たちへの第三者のまなざしこそ、取り返しのつかない犯罪への一歩を止める何にも替え難い力になることを確信しました。
     多くの犠牲の上にやっと光が当てられた事実が、今なお苦しみを抱える親や子どもたち、彼らを見守り支える人たち、そして罪を犯すまでに到ってしまった少年たちに向き合うすべての人々に役立てられることを祈っています。”

  • 3月終わり、内科の長ーーい待ち時間のあいだに読み、4月になってもういちど読む。

    雑誌『SIGHT』の冬号では、斎藤美奈子選「青春の3冊」のうち1冊が、この『永山則夫』だった(他の2冊は『世界泥棒』と『青春と変態』)。

    高橋源一郎が、「『無知の涙』だと、勉強する機会もなかった青年がああいう事件を起こして、それで獄中で学んで書いたっていうストーリーだったでしょ。違うんだよね。…(略)…僕たちは『無知の涙』のせいで、永山に関するイメージを持っていたけど、違ったんだなっていうふうに訂正させる力はあるよね」(『SIGHT』p.163)と語っている。

    私も永山則夫の『木橋』や『無知の涙』を読んだことがあるけど、まったく知らなかった石川鑑定の存在、1年近くかけて永山と対話した石川医師によるその鑑定記録を読んでみて、私は永山作品の何を読んでいたのだろう…と思った。

    永山則夫による連続射殺事件は私が生まれる前の年に起こり、永山は私が生まれるちょっと前に逮捕され、1997年に死刑が執行された。当時、職場で新聞7紙のクリッピングを担当していた私は、朝刊の大きな見出しをおぼえている。永山はいわゆる団塊の世代にあたり、『二十歳の原点』の高野悦子も同年生まれだ。私とちょうど20違う。

    永山事件では、当初、重鎮・新井尚賢医師による永山の精神鑑定がおこなわれた。それなりのボリュームがあり、必要な事項をそつなくこなしたものだったが、多くは家裁の記録や警察と検察の供述調書に頼るもので、永山の生い立ちについては「幼少期における生活環境の影響は少なくない」と書きながら、それ以上まったく踏み込んでいなかった。

    永山則夫の弁護団から第二次精神鑑定をお願いしたいと依頼を受けた石川義博医師は、いったんは断った。だが、今ある資料だけでもこれほど悲惨な幼少期を過ごしていることが明らかなのに、その内容を分析もせず「影響は少なくない」のみで切り捨てている新井鑑定を、石川医師はみすごせなかった。

    少年があれだけの重大事件を犯すには相当な事情があるはずで、それをカウンセリング的に、永山に自由に話してもらいつつ、話したがらないところを尋ねながら、焦らず急かさず、「本当に医師を信頼して語ることが出来るまで、待つ」という姿勢でやろうと、石川医師は考えた。

    ▼「永山が犯した罪について"あなたはこうだったんでしょう"とか"だから犯罪やったんでしょう"と言ったって本人はピンとこないですよね。彼自身が納得するためには、自分の言葉で、自分の体験したこと、心にうつったこと、目にうつったことを整理していかないといけないと思って。新井鑑定の『劣悪な幼児環境の影響は少なくない』という一言が本当なのかどうか、それを確かめるためにも、永山自身の言葉で語らせるしかないと思いました」(pp.58-59)

    石川医師が永山と向きあい、鑑定にかけた期間は278日間。その際の永山の語りを録音した100時間以上のテープを石川医師は手放さずにいた。「貧困がうんだ悲劇」と言われてきた永山事件、「金ほしさ」の犯行とされた動機について、永山自身が真実を語っている。そうして書かれた鑑定書は、細かな文字で二段組、182頁の厚さがあった。

    その内容は、「被告人、永山則夫が生まれてから事件を起こすまでに経験したあらゆる出来事の詳細と、それに伴う彼の心の軌跡、さらには犯行後の心境に至るまで膨大な情報を網羅していた。また永山則夫本人に留まらず、永山の両親の結婚生活や極めて複雑な兄弟の関係、永山の父方と母方それぞれの三代から四代前までのルーツを辿り、まさに永山則夫へと続く一族の系譜まで掘り起こしていた」(p.13)というものだった。

    この本は、石川鑑定とそのもととなった永山の語りを録音したテープをもとに書かれている。「犯罪行動とその心理」を理解するには、石川鑑定ほどの質量がなければ無理だろうとつくづく思った。だが、この石川鑑定は、あれほど長時間自らを語った永山からも「これは自分の鑑定じゃないみたい」と否定されてしまう。

    二審の無期懲役判決で裁判官は石川鑑定を参考にしたと思われるが、最高裁が差し戻したあとは、まるでなかったかのように一切触れられなかった。

    石川医師は、あれだけの時間と労力、知力を尽くしてやったことにいったい何の意味があったのかと思ってしまった。永山自身の批判にしても、精神療法であればまた話し合い、お互いに納得もできる。けれど、鑑定ではそれはできない。「反論も対話もできず治療にも結び付けられないのなら、二度とやるまい」(p.309)と石川医師は決意し、実際、以後は犯罪精神医学の道をすっぱり退く。しかし、鑑定で永山が語り尽くした録音テープだけはどうしても捨てられなかった。

    著者がこの本で書こうとしたのは「家族」だ。
    ▼少年事件の根を「家族」という場所に探ろうとする時、必ず問いかけられる疑問がある。
     ──同じ環境に育った他の兄弟は、立派に成長している。
     このもっともらしい問いかけは、少年の心の闇を照らし出そうとする光をいつも遮断してきた。しかし、100時間の独白は、その問いに対しても明白な答えを突きつけていた。(p.8)

    この本でも、永山の語りに添って、家族のこと、優しかった長姉セツのこと、兄のひどい暴力、自分を「三度捨てた」母のこと、ほとんど記憶にない父のことが明らかにされる。石川医師は、幼い則夫を母代わりに世話した姉のセツと、母のヨシにも話を聞いている。母もまた、母に捨てられた子ども時代を送っていた。

    それらをふまえて「たとえ同じ屋根の下、同じ両親の下で育った兄弟であっても、その時々の夫婦仲や経済状態によって子どもが育つ環境はまったく違うものになってしまう」(pp.68-69)と著者は書く。

    ▼戦前、夫婦仲は必ずしも悪くはなかった。特に網走に越してからふたりは協力し、三人の子を高校まで出している。しかし、夫が戦地から帰って来て、ふたりの亀裂は深まった。永山が生まれた昭和24年(1949)、夫の博打三昧を主因に家庭は崩壊の危機に瀕し、大勢の子どもたちを抱えた母ヨシは心理的にも経済的にも追い詰められていた。そんな最中に生まれた永山のことを、母は以前、「法律がなかったから流せなかった」とも語っている。
     歓迎されない子を身ごもった上、生まれてみたら憎らしい夫に何から何までそっくりときた。心に積らせてきた夫への憤懣は、一気にその子へとぶつけられることになった。網走で、幼い永山に乳もやらず、その世話を長女セツに任せっきりにした理由は忙しさだけではなかった可能性もある。(p.115)

    永山にとって「愛情とか褒められるとか尊重されるとか、そういうもの」は長姉のセツが与えた。だが、セツは精神を病み、幼い永山のそばにずっといられなかった。小学校の6年間、ほとんど欠席ばかりの永山が、5年生のときだけは風邪で休んだ数日をのぞき毎日出席している。その1年は、症状の安定したセツ姉さんが病院から帰ってきた時だった。

    ▼それまで何年も不登校だった子どもが、たったひとりの人間の存在で、せっせと学校に通うようになるのである。成績表を見る限り、5年生の時に際立って成績が上がっているわけでもない。それでも永山は6日しか休んでいない。幼い子どもにとって、愛する人から愛情を注がれることがいかに大切で尊いことか、石川医師が注目した小学校の出欠記録は示している。(pp.126-127)

    その日々は長く続かなかった。石川医師は「惜しい」と思う。網走で、母代わりだったセツ姉があと数年永山のそばにいてくれたら、あるいは青森の家に退院してきたセツ姉が発病することなく永山に愛情を注ぎ続けてくれたら、永山の人生は全く違うものになっていただろう、と惜しむ。

    永山は集団就職で東京へ出てきてから、短い間に職を転々とする。辞めるきっかけはいつも同じ、「人間関係を作れず孤立して、何をされても被害的に受け止めてしまい、果ては身ひとつで逃げ出すというパターン」(p.175)の繰り返しだった。

    自分自身を一人前にしようと永山は努力するのだが、空回りしてしまう。石川医師は、その背景をこう分析する。
    ▼「人が努力をしようと意欲を出すこと、つまり努力のエネルギー源は、愛情とか褒められるとか尊重されるとか、そういうものがなければ続かないし実らないんです。…(略)…それで自信や安心感を得て、やる気、努力する力が出てくるわけなんです。…(略)…いわば人間の根っこです、基本的信頼感とも基礎的信頼感とも言いますが、それがなければ人間は成長できないし努力もできない。」(p.217)

    根っこがないまま努力を続け、永山は疲れ、くたびれ果て、さらに悪くなってゆく。転職を繰り返し、自殺未遂を何度も繰り返すまで自分を追い詰めていく。職場に入った最初は、熱心に働く。それは「過去の嫌な自分を消し去り、自分の弱さを補償し、完全なよき人間に変身するため」(p.218)である。だが、人間関係をうまくつくれず、誰にも相談できず、それでも頑張り続けて、無理が積もってゆく。そして、何かきっかけがあると前後の見境なく、逃避する。

    東京で頼った兄たちにも見捨てられ、「セツ姉さん以外の人、全部、憎んだね…」(p.268)と、永山の心のなかには怨みがうずまいていた。その怨みが、偶発的だった東京と京都の事件のあとの、函館と名古屋の事件となってしまう。だが、その「殺人の動機」を永山はみごとに隠し通した。石川医師の前で語るまでは。

    著者は大谷恭子弁護士(『それでも彼を死刑にしますか 網走からペルーへ 永山則夫の遙かなる旅』を書いた人)の話を引いている。

    ▼「少年事件を担当すれば誰でも気がつくこと、それはあまりに偶然が左右するということです。あの時この人と会っていれば、この一言があればということがすごく多いのです。成長期の不利益条件は誰もが抱えていて、うまくいけば乗り越えられるし、運が悪ければ外れっ放しになる。その分析を石川鑑定は見事にこなしています。少年の更生可能性は、時間をかけなければ判断できません。永山君が『新井鑑定』では語らなかったけれど、三、四年が経ってやっと語れたように、その時間が必要なのです。どうしてこうなったのかという理由は、少年事件は原因に近いから探せば分かる。それが今、まったくやられてないのが残念でたまりません」(p.342)

    著者はこうも書く。
    ▼日本の司法は、人々が納得する応報的な刑罰を科すことばかりに主眼が置かれ、被告人を事件に向かわせた根本的な問題に向き合ったり、同じ苦悩を抱える人々に示唆を与えるような修復的な機能はほとんど果たしていません。近年の裁判員裁判では、審理の効率化や裁判員への負担軽減ばかりが優先され、被告人に向き合う作業はますます疎かにされているように感じます。
     被告人に全身全霊で向き合い、結果として治療的でもあった石川医師の試行錯誤には、事件について本質的な洞察を深めるためのヒントが随所にちりばめられています。核心を衝いたその取り組みは司法の場であまりに軽んじられましたが、それを生かしていくのに手遅れということはないはずです。(p.346)

    永山が死刑執行の朝まで自分の独房に置いていた身の回り品の中に、ビニールをつなぎ合わせたカバーで大切に包まれた「鑑定書」があった。永山自身がたくさんの書き込みをしていた。他の裁判資料はすべて宅下げにした永山は、死刑執行のその日まで「石川鑑定」を手放さなかった。おそらくは、鑑定書に記された自身の生い立ちと、母の人生を繰り返し反芻したのだろう。

    この『永山則夫』のあとに、『ルポ 虐待』を読んだ。大阪の二児置き去り死事件を起こした若い母に、石川医師のように全身全霊で向き合った人はひとりもいないのだろうと思った。100時間以上の録音テープや8ヵ月をかけた鑑定書とは比べられないとはいえ、なぜ彼女があの事件を起こしたのかを本当に理解するには、もっともっと時間が必要なはずで、裁判は何を明らかにしたのだろうと思う。

    もうひとつ、「永山のルーツを辿り、一族の系譜を掘り起こした」という石川鑑定について読んで、『週刊朝日』で橋下徹の「本性」を暴こうとした記事の問題のことを考えた。永山の事件は「貧困が生んだ事件」とさんざん騒がれた。その見立ては全くの誤りではないのだろうけれど、貧困のなかでなぜ犯罪に至った者とそうでない者がいるのかは説明できないし、永山の動機もそれだけでは理解できないだろう。『週刊朝日』の取材班がやろうとしたことと、石川鑑定がやったことと、どこが違っているのかを、ちょっと考えてみたいと思った。

    永山が事件に使った拳銃は、手のひらに隠れるような、欧米では女性の護身用に使われるものだった、というのも私には発見だった。

    ※誤字
    p.350の参考文献リストの2行目
    『発達傷害と司法』浜井浩一・村井敏邦編著 現代人文社
    →発達【障】害の誤り

    (3/31一読、4/23二読)

    ※『DAYS JAPAN』2014年1月号、堀川惠子「封印された鑑定テープ 永山則夫が語った100時間」掲載

    ※NHK ETV特集「永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~」(2012年放映)
    https://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/1014.html

  • 「永山基準」
    あたかも、それが死刑判決へのチェックリストのように都合よく引用されてきた「基準」である。
    その永山基準の元となった事件の犯人永山則夫が、精神鑑定のために受けた際の100時間にも及ぶ録音テープが発見された。
    当時、永山の鑑定を担当した石川義博医師が、その後の自身の医師としての歩む道すら一考を余儀なくされた永山の鑑定を経て、これ以外のすべての犯罪精神医学関連資料を処分した中、唯一40年以上大切に手元に保管していた録音テープである。

    本書は、その独白テープを元に、ほぼ時系列に永山の幼少期から、犯行を犯し逮捕、鑑定、その後に至るまでを、逮捕後の裁判、母ヨシや姉のセツ、石川医師への取材、また永山が獄中から出版した書籍や書簡からの引用も交えながらまとめたものである。

    このようなある犯罪のルポ、犯人がその事件を起こす背景を扱ったノンフィクションをいくつも読んだが、その犯人のほぼすべてに共通しているのは、成育歴に何かしら問題を抱えていることだ。
    幼少期の家庭環境に問題があり、尚且つ、そばで継続的にサポートしてくれる大人が不在、さらに言えば、その本人が繊細な感性の持ち主であったというケースがほとんどなのだ。
    おそらく、この3点のうち、どれか一つが満たされなければ、大きな犯罪を起こすところまでは行かなかったのではないだろうか。
    少年事件の弁護を多く担当する大谷恭子弁護士の「少年事件(中略)はあまりに偶然が左右するということです。あの時この人と出会っていれば、この一言があればということがすごく多い」という言葉の通り、それくらい、そんな一言や出会いで変わってしまうくらい、少年の精神発達は途上で、だからこそ思いもかけない結果につながってしまうことがあるのだ。

    ここで取り上げられている永山も例に漏れず、生まれてから事件を起こすまでの19年の間、ほとんど放任されたままで育っている。そしてやはりというべきか、永山の母親も、虐待を受け過酷な家庭環境で育っていた。ここでも虐待の負の連鎖がこの親子を苦しめているという事実。
    家族の愛情を感じる機会もなく、誰かに自分の話をしっかりと聞いてもらった経験もないから、困ったときに人に相談するという知恵もない、社会で生きていく術を教わるチャンスがないまま社会に放り出され、いわば、体だけは大人、精神的には幼い子供のまま成長した永山が、窮地に陥った(実は、それほどの窮地ではなかったのだが、それに気づくことも、困っていると誰かに助けを求めることもで知らなかっただけ、というのが本当のところだ)時、自分の身を守ろうと思いがけず起こしてしまった第一の殺人。ここからとうとう本当の身の破滅が始まってしまったのだ。

    実は、環境こそ不遇であったが、一家そろってかなり優秀な頭脳の持ち主であったことは確かなようだ。皮肉なことに、逮捕され、獄中で様々なサポートに出会い、本を読み必死に勉強したことで、初めて人間的な精神発達を遂げることができた。永山が、ある時から死刑になる自分の境遇を受け入れ、支援者たちとの関係をも断ち静かにその時を待つようになったということこそ、それを強く物語っているように思えてならない。

    永山の抱えていた問題が何であれ、実際に何の落ち度もない4名もの方の命が奪われたことに変わりはなく、その罪はどうしたって償わなければならない。
    だがやはり、死刑という量刑を考えたとき、本当にその判断は正しいのか、と疑問に思わないではいられないのだ。果たして、自分の力ではどうすることもできなかった、その術すら知らなかった未熟な人格に対して、国家による殺人、死刑という量刑は正しかったのだろうか。

    著者が取材をした際の石川医師の言葉が忘れられない。
    「犯罪の本当の原因を突き止めなくちゃ、刑事政策も治療もあったもんじゃないんですけど、日本は余りにも、それをやらないで来ましたよね。調べれば調べるほど、本当の凶悪犯なんて、そういるもんじゃないんですよ、人間であれば…」
    そしてもうひとつ、あとがきの著者の言葉を引用しておきたい。
    「日本の司法は、人々が納得する応報的な刑罰を科すことばかりに主眼が置かれ、被告人を事件に向かわせた根本的な問題に向き合ったり、同じ苦悩を抱える人々に示唆を与えるような修復的な機能はほとんど果たしていません。近年の裁判員裁判では、審理の効率化や裁判員への負担軽減ばかりが優先され、被告人に向き合う作業はますます疎かにされているように感じます。被告人に全身全霊で向き合い、結果として治療的でもあった石川医師の試行錯誤には、事件について本質的な洞察を深めるためのヒントが随所にちりばめられています。核心を衝いたその取り組みは司法の場であまりに軽んじられましたが、それを生かしていくのに手遅れということはないはずです。」

    永山基準は、最近になって「基準とはいい難い」と、今までの扱われ方に異を唱える最高裁の見解が示されたそうである。

    修復的司法。
    この実現が果たされるのはいつになるのだろうか。

  • 自分自身が納得するためには、自分の言葉で自分の体験したこと、心に映ったこと、目に映った事を整理していかなければならない。だから、石川医師は永山に語らせたのだ。

    人が努力をしようと意欲を出すこと、つまり、努力のエネルギー源は、愛情とか褒められるとか尊重されるとか、そういうものがなければ続かない。母親的な優しさとか保護とか愛情があってそれで自信や安心感を得てやる気、努力する力が出てくる。そういう基盤があっての努力だったら実りがあるが、元がないと努力というのは多くの場合、疲れ、くたびれ果て、さらに悪くなるという方向にしか向かわないことが多い

    石川医師だけに語った真実。それは、石川医師がカウンセリングの手法で鑑定したからだろう。ただ、それは、そもそも患者の心を治療するためのものだった。だから永山はこの石川医師との面談を重ねることによって、真実を語ると同時に、不幸にも、また、幸いにも、自分の夢を持つことになってしまった。悲しいことに。鑑定は、278日間に及んだ。
    ただ、石川医師は、これを機に精神鑑定は絶対にやらないときめた。反論も対話もできず治療にも結びつかないからと。

  • 請求記号:289.1-HOR
    https://opac.iuhw.ac.jp/Akasaka/opac/Holding_list?rgtn=2M020305

    <平島奈津子先生コメント>
    本書は、世間を震撼させた連続射殺事件の犯人(犯行当時、未成年だった永山則夫)の鑑定記録と丹念な取材によって、事件の背後にあった孤独な少年の心の軌跡を描いたものです。鑑定医と永山少年(青年)との心の交流の、その結末を知った時、私は、精神療法家として心を揺さぶられる思いがしました。折に触れて、繰り返し読むたびに教えられることがある本です。

    <BOOKデータ>
    連続射殺犯・永山則夫。犯行の原因は貧困とされてきたが、精神鑑定を担当した医師から100時間を超す肉声テープを託された著者は、これに真っ向から挑む。そこには、父の放蕩、母の育児放棄、兄からの虐待といった家族の荒涼とした風景が録音されていた。少年の心の闇を解き明かす、衝撃のノンフィクション。

  •  死刑囚・永山則夫の精神鑑定を行った医師が残した録音テープを基に、連続射殺事件の真相を追う。母親に捨てられ、兄たちから疎まれ虐げられる凄絶な生い立ち。心に負った傷が彼を犯罪に追い立てた。人間を人間たらしめているのは心であって、その心が健全に育つためには愛情を注がれる必要があるのだろう。彼は確かに罪を犯した。しかし、本来与えられるべき愛情を与えられなかった彼もまた、被害者といえるのかもしれない。

     次第に人間らしい感情に目覚め、獄中で小説を書き、遺族への償いを続け、支援する女性と結婚までした永山であるが、逮捕から二十八年目で処刑される。

     それにしても「心」の問題は取り扱いが難しい。著者の「応報的な刑罰を科すばかりではなく、加害者を事件に向かわせた根本的な問題にもっと向き合うべき」との主張は尤もであるが、だからといって被害者遺族の感情まで蔑ろには出来ないだろう。そもそも我々は、何のために人を裁くのか。

  • 19歳の連続射殺犯、永山則夫の精神鑑定記録。
    当初は、貧困ゆえの金目当ての犯行と決めつけられていたが、この鑑定によって見えてきたのは全く違う永山の心の動きだ。
    貧困、母親のネグレクト、兄弟からの暴力や無関心。そこから生まれる人間不信や孤独感。
    結局は家族の問題が、一人の子供を歪んだ人間にしてしまった。

    どんなに貧しくても、どんなに家庭環境が悪くても、皆が皆犯罪者になるとは限らない。でも、きっとどこかに一線がある。
    その一線の目の前で、自分自身の力や、誰かのほんのちょっとした優しさで、踏みとどまることができるか、できないか。
    決して永山が特殊な人間だとは思わない。

    犯罪が起こったとき、その動機を皆が納得しやすいものに求めがちだけれど、人の心の中はもっと奥深い。裁判のための鑑定というよりも、永山にとっては自分を見つめなおすカウンセリングになったのだろう。

  • 皮膚科で待っているとき、何気なく手に取り、読み始めたらおもしろくてとまらなくなった本。医院に頼みこんで貸してもらい、家で少しずつ読んだ。

    私はどうしても被害者のことを考えてしまうので、子どもを殺された遺族が永山の印税による慰藉を受け取らなかったというエピソードに胸が痛くなった。

    それから、2審で無期懲役が出たとき、あの子が死刑にならないのであれば私が殺してやりたいと言った遺族の言葉もちゃんと書いてあるところが、この本を書いた堀川惠子さんの公平なところだと思った。

    永山本人が死刑を望んでいるのであれば、逆に無期懲役にして、本を書かせてどんどん印税稼がせて、遺族への慰藉にあてさせる方がよかったんじゃない・・・・?と思った。

    歴史の教科書に出てきた尼港事件が出てきて、背筋がぞっとした。

    永山の母は尼港事件の数少ない生存者の一人らしい。


    裁判がけっこう恣意的なものだということも分かった。

    まず判決ありきの裁判ってあるのね。

    死刑にするために、科学的な石川鑑定を全面否定するなんて暴挙としか思えないけど、検察側があくまで子どもを殺された遺族の立場に立っているのだと考えれば、むしろ石川鑑定なんてない方がいいと思うだろうな。

    兄弟へのあてつけのために函館と名古屋での殺人を犯したらしいけど、そんなあてつけのためにわが子や最愛の夫を殺されたらたまったもんじゃない。

    だけど、石川医師の長い時間をかけた鑑定を経て、永山は確かに(カウンセリング)治療の効果を得ていた。

    人が変われるのであれば、永山もいつかは子どもを殺された親の気持ちも分かるようになっただろうか?

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著者プロフィール

1969年広島県生まれ。『チンチン電車と女学生』(小笠原信之氏と共著、日本評論社)を皮切りに、ノンフィクション作品を次々と発表。『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命―死刑囚から届いた手紙』(講談社)で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫―封印された鑑定記録』(岩波書店)で第4回いける本大賞、『教誨師』(講談社)で第1回城山三郎賞、『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)で第47回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回早稲田ジャーナリズム大賞、『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社)で第23回AICT演劇評論賞、『狼の義―新 犬養木堂伝』 (林新氏と共著、KADOKAWA)で第23回司馬遼太郎賞受賞。

「2021年 『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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