これはメモ的なものでまた書き変えていくつもりです。
「私はガス室~」に続き、ナチのユダヤ人収容所に関して読んだ2冊目。
著者ギッタ・セレニーによる優れた構成、入念な取材、そして熱意により、収容所の状況、そこでの人間模様がかなりの客観性を持って書かれていると思った。
主軸となるのは2つの絶滅収容所所長の所長を務めたフランツ・シュタングル、そしてその夫人へのインタビューだが、関連人物への豊富なインタビューと資料による検証もあり「私はガス室~」よりも、ナチのユダヤ人絶滅計画についての詳細な資料として興味深く読んだ。
私自身は恥ずかしながらこれらの本を読むまで強制収容所と絶滅収容所の区別もできていなかった。有名なアウシュビッツが強制収容所と絶滅収容所からなっていたことも知らなかった。ナチスのユダヤ人射殺部隊のことも。
それだけに、絶滅収容所の実体には驚いた。まさに人間を処理するための場所だったのだ。
機械的に人間を処理する空間。
虐殺は歴史上無数にあったが、その規模と能率性においてナチスが行ったことは人類史上空前絶後である。
またヨーロッパで東から来た場合と、西から来た場合のユダヤ人の収容所での扱いの違い、カトリックの総本山であるバチカンのナチスとユダヤ人殲滅計画への対応など興味深いことが多く、読み飛ばすことなく読了した。
シュタングルによると「犠牲者は到着から2時間以内に全員殺されていた」しかも1日に数万人の規模。
衝撃的だ。人間処理工場である。
圧巻はラストのシュタングル、そして夫人への最後の質問。
読んだ当初は最後の面接でのシュタングルの投げやりとも思える不可解な言動の真意がわからなかったが、脚注を読み、長い沈黙の意味を考えて自分なりに、シュタングルの心のゆれ、本心の一部が理解できたような気がする。
シュタングルという人物部については
人間の闇”“心の闇”という言葉で語るより、別の言葉で語った方が、リアリティーがあるように思えた。
それは、
自分を守るための“わりきり”“無関心”“非情さ”ということだと私は思う。
人間は生きるためであれば、他人を大量に殺害することにも無感覚になり得る非情さを持っているということ。どこまでも鈍感になれるのだ。
私自身はそう感じた。自分、家族を守るためであれば、他人に対して共感する心をシャットアウトし、大量殺人に加担することができるということ。
ただ、あまりに深い問題であり、この本について示唆されたものはまだ自分でとうてい消化できていない。
シュタングルは最後の取材を終え、10数時間後に死亡したという。
自殺ではなく自然死で。
ギッタ・セレニーとのインタビューが終了したこととの不思議な因縁を感じる。
訳文(精神障害者絶滅計画T4での関係者のコメントに対する傍点など)、あとがきを読んで、訳者についても知的で誠実な人物との印象を抱いた。ほかの著書も読んでみたいと思う。