バン・マリーへの手紙

  • 岩波書店 (2007年5月18日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (232ページ) / ISBN・EAN: 9784000244367

みんなの感想まとめ

この作品は、心の深い部分に触れるエッセイ集であり、読者はゆっくりとしたテンポで自らの感情や思い出に浸りながら読み進めることができます。「バン・マリー」というタイトルが示すように、湯せんのようにじっくり...

感想・レビュー・書評

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  • いかにも宛名めいているが、バン・マリーとは、人の名前にあらずして、ものを湯煎にかけること、もしくは湯煎鍋そのものをさすフランス語である。浴槽、お風呂を意味する「バン」に、マリー(マリア)をくっつけると「マリアの風呂」。湯を沸かした鍋の中に小さな鍋を浮かせ、その中でゆるやかな温度で調理したり、保温したりする技術が考案された14世紀頃はマリア信仰が盛んだったため、その優しさを喩えに使ったものとされる。

    著者は幼稚園時代、冬になると石油ストーブの上にのせた銅メッキ製のたらいに、水を入れた鍋を浮かせ、その中に牛乳瓶をいれ湯煎して飲ませてもらった記憶を持つ。大学生時代、その話を披露すると、ひとりの友人が、「だからお前はいつも白黒をつけずに平気でいられるんだな。煮え切らないのがいちばんよくない。きりっと冷えてるか、湯気がほくほく立ったホットにするか、どちらかに決められないような奴はろくな人間にならない」と、説教されたという。

    「友人の言葉に違和感を覚えたのは、それがどうやら重度の視野狭窄に見舞われつつあった時代の雰囲気を代弁しているようにも受けとりえたからだ。白黒がつけられないのではなく、白黒をつけない複眼的な思考に共感していた。そして今でも共感している私には、マリアの力を借りた湯煎に相当する中間地帯を設けることと表面的な優柔不断は、あくまで別物だったのである。」

    話は、そこから「ヨハネの黙示録」に飛ぶ。「われ汝の行為を知る。我は寧ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温きが故に。我なんぢを我が口より吐出さん。」という例の有名な一節である。

    いかにもキリスト教の神らしい二項対立的命題の立て方だが、階段の踊り場やら、回送電車やら、この本でいうなら飛び立たない飛行機という、中途半端というか、どっちつかずなものの様態を愛し、ものごとを一刀両断して二者択一を迫る思考法を嫌うのが、堀江敏幸というあり方なのだ。

    牛乳の喩えに戻るなら、「熱いものが冷めてぬるくなったのではなく、はじめは冷たかったものに熱を与えてそこまで温度を上げていくことが誰の目から見ても積極的な行為であることは明らかだし、微温状態の維持だってかならずしも容易なことではない」。

    このエッセイ集には、はるかな時を経て甦る記憶が、言葉の連想によって、今ここにある事象と交錯する類の話が多い。著者は、バン・マリーという装置に「すべての事象に適用可能な無色透明な濾過層としての役割を与えてみたい」と語る。日々の暮らしの中にある何気ないものから生じた、それだけでは生硬な素材が、がんがん火であぶり、炒めるような作業でなく、火加減に気を配りながら湯煎にかけられるようにして、まるで別物のように変化して現れ出たのがこれらのエッセイ群である。

  • 本書はまさにタイトル通り、買って、たなごころでゆっくりと自らの体温に馴染ませながらそして自らも行間に揺らめくテンポに馴染みながらゆっくりゆっくり読むに相応しい。借りて、延長しながら読了してそう思った。

  • ふむ

  • 「崩れを押しとどめること」

  • 牛乳は噛んで飲むものである / 落下物について / 崩れを押しとどめること / 挟むための剣術 / 十三日の金曜日ふたたび / 声なき猫の託宣
    がとくに好きだった。
    フランス文学(かな?それすらも危うい...)は全然わかんないけど、著者の日々の思索が物語に寄せてあって、それがとてもいいなあと思った。

  • この日本語のリズムだけで心地がいい。

  • あなたはこの本を手に取ったときに、その表紙の美しさと手触りに軽い驚きをもつだろう。
    そして、なにか記憶の遠いところの、柔らかなあたたかいかすかな懐かしさを覚えるだろう。

    その色はまさに湯せんされたミルク。
    幼いときに幼稚園で飲んだあたためられたミルク。

    ゆっくりと湯せんで時間をかあけてあたためられたミルク、その味わいが文章全体を包んでいる。日常の何気ない出来事、私たちの毎日に転がっているような見逃しがちな出来事さえも、彼の手にかかると魔法のようにやわらかく、やさしい日々の出来事に変わる。大切な思い出、宝物のように変わる。

    それは何気ない出来事だけではなく、膨大な知識に裏付けられた敬遠しそうな内容でさえもやわらかく包んで、「いつかわかるときがきたらわかればいいよ。待っているからね」とでもいうように変えてしまう。

    私の大好きな人が私に教えてくれた大切な本。
    その人はこれを読むたびに幸せな気持ちになるといっていた。
    そして私もこの本を読んで幸せをもらった。
    いまでもこの本を読むたびに彼を思う。
    悲しいときでもすべてのものをいとおしんでゆっくりとあたためられた文章は、おだやかに悲しみを包んで私に「ここにいてもいいんだよ」という安心とほんのりとした幸せをくれる。

    この本はきっとあなたも幸せにしてくれるはず。
    心の底からゆっくりと、ゆったりと「湯せんされた」ミルクを飲んだ子供のときのように。

  • フランスのことを知らないと分からないこともあるが、
    文章は心地よい。

  • 堀江氏の書く、なんとも、句点までの距離の遠い、しかし、深遠なる、静謐で密度の濃い文字列に酔いしれる。平日の昼間、さまざまの思いをめぐらすのに適している本といえる。一度読み始めると、彼の他の著作が気になってくる、不思議な、麻薬的な副作用をもつ。特に印象に残ったのは、デスモスチルスの話と冠詞の話。

  • 堀江氏の書く、なんとも、句点までの距離の遠い、しかし、深遠なる、静謐で密度の濃い文字列に酔いしれる。平日の昼間、さまざまの思いをめぐらすのに適している本といえる。一度読み始めると、彼の他の著作が気になってくる、不思議な、麻薬的な副作用をもつ。特に印象に残ったのは、デスモスチルスの話と冠詞の話。

  • + + +
    去年(だったかな?)の週刊ブックレビュー(NHK)でおすすめされていて、熟考の末購入したもの。
    これも平行読書にプラスしました。
    堀江敏幸さん、初めて読むので楽しみだぁ。2008.6.2.

  • タイトルから小説と思ったらエッセイでした。バン・マリーとは仏語で「湯煎」のことだそうで、ものの考え方の象徴として使われてます。とりあえず筆者のインテリ加減はよくわかりましたが、あけっぴろげな知識の羅列に「わかりましたスイマセン」と言ってしまいそうに・・・。今度は小説読もう。

  • 『バン・マリー』とは湯煎のことで、この命題は直火を当てないように柔らかく包み込むように、散文集全体にわたって貫かれている。最後の渡り鳥についての記述にしてもキーワードとなって出てくるのだ。いつものことながら堀江さんの美しい日本語にうっとりする。欲に囚われた生活をしていて、何かすっきりと澱を洗い流したい時、堀江さんの文章に助けをもとめるのだ。『思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出は僕たちのなかで血となり、眼差となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然と現れ浮かび上がるのである。』

  • 堀江敏幸という作家を紹介されたのは、専門の技術書ばかりを読む習慣から徐々に解放されつつあった頃で、とある聡明な女性から面白いと思ってもらえる筈とパリの周辺を巡る随筆のようなものを手渡されたのが初めだった。

    堀江敏幸の書く文章は、例えば「いい文章」などと言われることもあると後々知ったけれど、その時の自分の印象は決してポジティブなものでは無かったので、本を紹介してくれた人にはなんて言ったものかと考えたりしたのだが。

    兎に角、多くの言葉が費やされるのに、さっぱり何が言及されているのかが解らない、というのが率直な思いだったのだ。

    その後、彼の書く書評が面白くて、書評に釣られて読んだ本がまた面白くて、彼の書く小説が面白くなって、と、徐々に堀江敏幸に関する印象は変わっていったのだが、「バン・マリーへの手紙」を読んで久しぶりに初めて堀江敏幸を読んだ時のことを思い出した。

    しかし、堀江敏幸が好きになった今では、この大量に投げ込まれた言葉たちが、結局のところは言葉にならないものと彼自身が観念しているはずのことに対する正直な吐露であって、にも係わらず言葉にせざるを得ない衝動(そんなに前のめりなことではないとは思うけれど)という態度の表れなのかと理解する。

    言葉を必要以上に重ね、連想に連想を重ねることで何かに辿り着こうとするもどかしさに、むしろ共鳴する。そして、その言葉を選び取る感性は確かに優秀で、いい文章、に仕上がっているということなんだろう。

    時々、そんな言葉を扱う技術が過ぎて、鮮やか過ぎる結末が用意されていたりすると、その文章の向こう側に堀江敏幸のあの飄々とした顔が浮かんで来て、少しだけ、しゃくな感じになったりもするけれど。

  •  読んでいる間中、むやみやたらと「堀江敏幸センセイ、大好きだー」叫びたくなるような文章と内容で大変に困った(笑)。 岩波書店の「図書」に掲載された本の周辺に関する随筆なんですが、そのまま入試問題に使われそうな端正な文章と、まるで私だけに語りかけてくれるかのような(爆)、ちょっとゆっくりした文章のテンポが心地良くって、つい文章に酔いながら読んでしまった。付箋を張らずに、気になった部分を抜き出してメモしてるんですが、メモだらけ。図書館で借りたものの、こんなことなら借りずに買えば良かったなと、後悔している。 紹介される本についてのエピソードの枕に綴られる堀江センセのほのぼのエピソードが、キュートでおちゃめで、たまんなかったりする。で、そのエピソードも、思わず衿を正したくなるような真摯なものばかりではなく、ほっこりしてしまうような柔らかいものまで収録されてるので、そのヘンの緩急の付け具合もまた、たまりませんー。好き好き好きー! という訳で、この一冊を読んで、また読みたい本がどっさり増えましたことよ。トホホホホ。(バン・マリーとは何者?表紙の片隅に答えがあるのね。今さっき気づいたわ!) 結局は『いつか、王子駅で』のように、堀江センセの意識の流れを綴ったもので、初めて知った事実ばかりがてんこもりなのだけど、そういうスノッブな知識をひけらかす、上からの視線ではなく、嫌味ではないところが稀有な文章だと思う。堀江作品全著作読破を目指すのだっ!!

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著者プロフィール

堀江 敏幸(ほりえ・としゆき):1964年、岐阜県生まれ。作家、仏文学者、早稲田大学教授。95年に第一作『郊外へ』(白水社)を刊行。著書に『熊の敷石』(講談社文庫)、『雪沼とその周辺』『河岸忘日抄』『その姿の消し方』『おぱらばん』(新潮文庫)、『正弦曲線』『戸惑う窓』(中公文庫)、『オールドレンズの神のもとで』(文春文庫)などがある。

「2025年 『鶴 長谷川四郎傑作選』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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