- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000246910
作品紹介・あらすじ
サンスクリット語などインドの言葉が原語であった仏典は、中国の文字や言葉に翻訳されて伝わることにより、東アジアの文化的基層となった。鳩摩羅什や玄奘ら、高僧たちの翻訳理論とはいかなるものか。どのような体制で、どれくらいのスピードで行われたのか。中国に無かった概念をどう訳したのか。さらに、中国で作られた、「偽経」とは?仏典の漢訳という、人類の壮大な知的所産を、専門外の読者にもわかりやすく解説した、初めての本。
感想・レビュー・書評
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仏教の漢訳をめぐる諸問題について解説しています。翻訳論・文化論としても読むことができます。特に、中国文化をインド文化に対して、積極的に相対化していて、わくわくする思いで読みました。
普通の日本人は、漢訳仏典から仏教を知ります。これが翻訳であることを百も承知でありながら、漢訳特有の問題点についての整理はなかなか難しいのです。それらを一から解説しています。
アブストラクトは9章の最初に出ています。私が特におもしろいと感じたのは、「偽経」についてのところです。どうせ中国式のニセモノの話だろうといえばそれまでなのですが、そういう問題とリンクするものがあり、文化の根深さを感じたのです。それも肯定的な評価です。
やはり鳩摩羅什はすごい。玄奘も立派ですが。これも、現代に通じる翻訳の問題に通じるものがあります。
ヨーロッパのある研究者に、日本人の古典の翻訳は「訳」ではなく、置き換えだと言われたことがありました。漢訳は語単位の翻訳から出発しますが、キケロ以来の問題と比較することで、漢訳のめざしていたものとそうでないものを示しています。
仏教に興味のない人でも、宗教の翻訳とか、中国文化に興味あれば、とてもおもしろいと思います。ただ書物の性格上、仏教語アレルギーの人には苦しいかも知れません。 -
異文化交流というと、すぐに外資系企業の実態とか移民の受け入れとか、そういったテーマが取り上げられてばかりいるが、歴史を見渡せば中国における仏典の受容というのは壮大な異文化交流の事例である。その観点から本書は非常に興味深い。
また、支那の指摘についても面白いものがあった。中国は自らを世界の中心と認識していたが、仏典がインドから輸入されたことから仏典翻訳の世界では中国は世界の中心とはなりえないこととなった。そのため、自らを称する言葉の一つに「支那」があったという。 -
中国における仏典漢訳について、欧米のトランスレーション・スタディーズの動向を横目ににらみつつ、初学者・一般向けに体系的に解説した初の概説書。冒頭に本書の構成の説明、本文にさしはさまれる参考文献の紹介、付録の地図・年表・文献表・索引など、今時の著作には珍しく丁寧をきわめた作りであり、かつ実例や学問的裏付けに基づく記述に終始しながらも、適度にくだけたわかりやすい語り口で、非常にリーダビリティが高い。
内容は、仏典漢訳の歴史(常に行われていたのではなく、時代的・地域的なムラがあった)からはじまり、主な翻訳者の紹介、翻訳作業の実態、偽作経典をどうとらえるか(一方で「翻訳」時に構成を入れ替えたり、要約版を作成した場合もある)、仏典の漢訳の中国文化への影響(新字・新語が作成されたり、従来の意味が変容したり)、翻訳不可能な語・概念の取り扱いまで、順を追って進んでいく。特に、それらのテーマの前提としてある翻訳の実態の解説(はじめは公開ゼミのようなかたちで文言の解釈を質疑したりもしていたが、後には専門家集団が分業して訳していった。翻訳のスピードは早く、まずは単語レベルでの逐語訳をし、後に語順を入れ替えて文章を整えるなど)、翻訳不可能性の問題に直結する「翻訳を読んでのわかりやすさか原典に忠実な逐語訳か」の議論(仏典漢訳の二大巨頭である鳩摩羅什と玄奘の翻訳に対するアプローチの相違など)については、多くの例を引いて詳述されており、たいへん興味深い。 -
本を読む理由は、日本を知るためである。普段使っている仏教に由来した言葉を知って納得するためではない。インド語の仏典がどの様に漢訳され、大系をなしてきたかの歴史を知るためである。かってあった膨大な翻訳活動を理解しないと、経典がどういうものなのか概括的に捉えることができない。一般に知られていない僧伝(訳経僧の伝記)や経録(経典目録)を辿ることで、大蔵経の中身を知ることができる。
翻訳が文化であることをあらためて識る。
面白そう、、、今度図書館に予約。。。
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