忘却のしかた、記憶のしかた 日本・アメリカ・戦争

  • 岩波書店 (2013年8月2日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784000247832

みんなの感想まとめ

テーマは、戦争を通じて日本社会がどのように「忘却」し、「記憶」してきたのかを探ることであり、歴史的視点からの深い考察が魅力的です。著者は、米国における日本理解の第一人者として知られ、戦中・戦後の日本を...

感想・レビュー・書評

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  • ジョン・ダワー『忘却のしかた、記憶のしかた』岩波書店、読了。戦争をいかに「記憶」し「忘却」し歴史を構成していくのか。本書は二〇世紀日本の戦争とアメリカの占領を材料に、選択と非選択がいかに分かちがたく結びついているのか事例的に検証する。 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247830/top.html

    例えばこんな具合だ。
    イラク戦後の経営はGHQの日本占領を指標とするが、むしろ日本の満州国創設に酷似しているし、原爆投下は、科学技術の欠如を自覚させるが、それは科学への楽天的な信頼性をも召喚する。

    陰影に満ちた考察は現代史の多様さを存分に描き出す。「日本のおこないを放免することなく、『日本問題』を理解するというジレンマ」を常に意識することで、本書は歴史の「暗転」を示し出す。遙かな高みから裁断するのではなく、錯綜した事象を解きほぐす手仕事には、著者の人間的暖かみを感じずにはいられない。

    ※冒頭の書き下ろしノーマン論は秀逸。

  • 著者 ジョン・W.ダワー 著
    外岡 秀俊 訳
    ジャンル 書籍 > 単行本 > 歴史
    刊行日 2013/08/02
    ISBN 9784000247832
    Cコード 0021
    体裁 A5 ・ 上製 ・ 366頁
    定価 3,300円

    冷戦の終焉や戦後50年という節目において,日米両国は,過去のアジア太平洋戦争をどう記憶し,忘却してきたのか──.歴史の複雑さをどのように直視し,現在と未来に生かすべきかを真摯に考察した,著者の本領発揮というべき論文集.1993年以降に発表した論文・エッセイを収録.各論文冒頭に,自身による書き下ろしの解題をつけた.
    https://www.iwanami.co.jp/book/b261457.html

    【簡易目次】
    日本の読者へ
    凡例



    第1章 E.H.ノーマン,日本,歴史のもちいかた

    第2章 二つの文化における人種,言語,戦争
         ――アジアにおける第二次世界大戦

    第3章 日本の美しい近代戦

    第4章 「愛されない能力」――日本における戦争と記憶

    第5章 被爆者――日本人の記憶のなかの広島と長崎

    第6章 広島の医師の日記,50年後

    第7章 真の民主主義は過去をどう祝うべきか

    第8章 二つのシステムにおける平和と民主主義
         ――対外政策と国内対立

    第9章 惨めさをわらう――敗戦国日本の草の根の諷刺

    第10章 戦争直後の日本からの教訓

    第11章 日本のもうひとつの占領

    初出一覧
    原注
    訳者あとがき
    索引

  • 忘却のしかた、記憶のしかた――日本・アメリカ・戦争
    (和書)2013年11月04日 20:27
    ジョン・W.ダワー 岩波書店 2013年8月3日


    柄谷行人さんの書評から読んでみました。

    図書館で借りたけれど購入したくなる一冊です。

    兎に角いい本です。

  • ジョン・ダワーの論文集や序論集といった感じか。
    筆者の指摘が鋭いのは、日本国民の多くが反戦や戦争責任を認識しているにもかかわらず、政権中枢がそのような認識をしていなかった。

  • 【由来】


    【期待したもの】

    ※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。

    【要約】


    【ノート】

  •  日本でもベストセラーとなったピュリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』で知られる米国の歴史家(日本史家)の最新著作。

     『敗北を抱きしめて』が、終戦直後の日本社会を重層的に描き出した一大叙事詩・群像劇であったのに対し、本書はいわば短篇集である。戦中・戦後の日本および米国社会から見た日本という大枠のテーマを、さまざまな角度から変奏した歴史評論集なのだ。

     米国社会における最良の日本理解者ともいえる著者は、正視眼で日本の戦後を見据える。書名の「忘却のしかた、記憶のしかた」とは、68年前に終わった戦争を、日本社会がどのように「忘却」し、どのように「記憶」してきたかを指している。

     『朝日新聞』屈指の名文記者として知られた外岡秀俊(現在は北海道大学公共政策大学院研究員)による訳は、平明でありながら格調高い。「訳者あとがき」も、それ自体が本書の見事な解説になっている。

  • 著者自身の解題のついた政治評論集。

  • 歴史から学べること。戦後のこと知らないことが多すぎる。いろはカルタ掲載の3ページを写真に撮る。

  • 著者は日本の近代史研究家。日本の戦中戦後史に関する評論をまとめたもの。
    著者のベストセラー「敗北を抱きしめて」は、以前読んだことがある。戦後の占領期の日本の社会風俗をテーマとした本だだったが、とても面白かった。この評論は、戦中戦後の日本についてのもので、「敗北を抱きしめて」の時代を補足するような内容になっている。戦後の日本人は何を記憶し、何を忘れているのか(忘れようとしているのか)をテーマとして取り上げる。日本が中国大陸で行った侵略行為は忘れたい記憶となり、原爆の記憶はその上に上書きされた忘れられない記憶となっている。日本人の行動が戦前戦後で間逆に変わってしまったのは何故か。当時の様々なテーマ-文化の違い、戦争の記憶、原爆、政治制度、風俗等を取り上げて考察を行っている。
    正直、自分にはこの評論集を考察できるような知識も無いし、歴史は書き手の立場によって肯定したり否定されたりするものなので、内容についての評価はできないが、著者がこの戦争や風俗をどのように見ているか、歴史の見方にはいろいろな視点があることを学べたことが収穫だった。
    明治~昭和を生き、戦争で全財産を失った自分の祖母の時代がどのような状況であったのか、戦中戦後の厳しい時代を生きた人達と日本を取り巻く空気が感じられ、とても興味深く読むことができた。

  • 1993年以降に発表された著者のエッセイ・論文集。書かれた目的はそれぞれ違うのですが、一貫して著者の主張は「日本だけが特別ではない」「アメリカだけが特別ではない」ということだということ。
    戦後の日本占領をモデルに、イラク戦争を正当化しようとするアメリカ国内の論に対して、日本による満州国の占領との類似点の方が多いことを証明されていく。
    アメリカによる日本占領が成功した事由について、世界のほとんどの目が、実は日本ではなく欧州に向いており、そのためGHQと日本政府というほんの少数の人々の手で国家を設計できたことにある皮肉。
    歴史認識は歪むというのが通例ですが、それが戦後どのように行われていったのか(日本とアメリカの中で)。我々は何を忘却し、記憶したのか。それを認識していないがために、歴史認識の違いによって、いかに他国と衝突することになっているのか。改めて考えさせられる本でした。

  • 面白い。
    日本史を勉強していないぼくにとっては、とても新鮮。

    中学生のころ、学校の図書館で、ベトナム戦争の写真集をみて、バラバラになったベトナム兵を笑いながら持ち上げている米兵にショックをうけ、家にあった南京大虐殺の死体の山に、これまたショックを受けたことを思い出した。

    そして、今の子どもたちが、そのような機会、環境を与えられているのか気になった。
    なにも知らずに大きくなっていないだろうか?

  • 世界は戦争と暴力の試練に苦しんでいます。世界がもし退歩する宿命にあるのでないならば、一国の階級と階級のあいだでも、国と国のあいだでも、暴力は説得と理性に道を譲らなければなりません。恐ろしいことに、暴力はことに社会の不人気な少数者に対して振るわれやすいものです。気のいらだった政府はききたくない声を黙らせます。しかし、そうすると、社会はそのなかに面白く思わない不平分子をかかえこむことになります。また同じことが大国と小国との関係についてもいえるのです。(p.34)

    ある同僚が急いで病院に駆けつけ、米軍がくるから女性たちを避難させるようにと勧めたとき、蜂谷博士は印象的な脇ゼリフを書きとどめている。彼がみるところ、その同僚は、日本の兵隊たちが中国でどんなことをやったのかを知っているために、そんなに動揺しているのだった。多くの日本人、とりわけ男たちがはじめ、アメリカ人に抱いた略奪のおそれは、かなりの部分、日本人が外国や占領地でいかにひどいことをしたのかという自分たちの苦痛にみちた知識を、相手に投影した結果だった。この時期の日本人の記録で、当時の日本人の水面下にあった考えかたを、これほど単刀直入に暴露した例はまれである。そして実際に到着した連合国の征服者たちが、地元の住民に、一般に慎みぶかく、ときには寛容にすらみえる態度をもって接したとき、訪問者の好ましい印象はいや増したのだった。(p.191)

    (政治的圧力と自己検閲の雰囲気のもとで、研究者の四つの試み)第一にわれわれは、歴史学にどう取りくむのか、その姿勢を一般の人に伝えなければならない。第二に、特別な研究から学んだこととその結論を、よりひろく知らしめねばならない。第三に、理想的にアメリカの経験を祝うとは何を意味すべきかについて、定義するようつとめねばならない。最後に、公式の歴史的正統派の御用達にたいするスミソニアンの悲しむべき降伏に照らして、研究者、とりわけ社会科学者、人文学者は、「公共の歴史」のあるべき使命について、真剣な顧慮をはらうべきである。(p.205)

    憲法九条は、日本の再軍備をすこしずつ容認するため、政府によって荒っぽく再解釈されたが、同時に、再軍事かの速度と範囲を抑えるよう効果的につかわれもしたものだった。昭和時代の歴代内閣は、兵力増大だけでなく、集団安全保障の取りきめへの参加や海外派兵をもとめるアメリカ側からの圧力にたいし、くりかえし憲法を楯に抵抗した。1970年に佐藤栄作首相が述べたように、「憲法の条章は海外出動を不可能としている」のだった。憲法のほかの条文、とりわけ個人の諸権利の保障と、おそらくは「象徴」にとどまる天皇の地位にかんして保守的な改正にも道をひらく可能性があったため、憲法改正議論は、「平和と民主主義」をめぐって戦後の関心が交差する、もっとも劇的な、最大の争点になった。(p.222)

    アメリカの「核の傘」が、ほんとうに日本を外部の脅威から守ったかどうかはうたがわしいが、アメリカの「経済の傘」が、日本の資本主義にはかりしれない恩恵となったことは議論の余地もないほど明白だ。(p.228)

    本質的には、60年代おわりの急進派は、冷戦の同盟関係のもとで日本は他のアジア人の苦しみを犠牲にして物質的に利益を享受しているだけでなく、日本以外の国で腐敗した独裁体制を支えることに貢献している。日本の平和と繁栄はつまるところ、どこか他の場所でおきている戦争と民主主義への抑圧によって、あがなわれたものだ、と。(p.237)

    敗戦国日本は、自然資源に乏しく、事実上、外交から経済的な関心をひくこともないという幸運に恵まれていた。私益のために占領政策を操作して、一儲けをたくらもうとする連中もいなかった。石油資源が豊かなイラクにおいて、外国資本は経済的な役割と同じく、大きな政治的な役割もはたす構えをみせている。
    占領下の日本は、戦後のイラクにとって何のモデルにもならない。他方で、それは明確な警告をあたえている。日本のように、望ましいとわかった環境においてすら、非軍事化と民主化は、畏怖すべき挑戦だった。その直後におきる事態をふくめ、すべての結果を真剣に想像することなく戦争に突進することは、リアリズムではなく、おそるべき傲慢なのである。(p.297)

  • 自らの国のあり方にここまで透徹した視点を持てるか。

  • 一個人にしても国家にしても、己に不都合な記憶や歴史は忘れ去りたいし、隠し通したいのだ。個人の場合は、無意識に潜んでいた記憶が何かのはずみで覚醒して後悔の念に苦しめられるのだが、国家の場合は自国に都合の良いように解釈したり、不都合なことは隠蔽や改竄を行い開き直りに近い所業である。「特定秘密保護法案」が施行されたら、ほんとうの歴史は語られることなく闇に葬り去られることになるのだろうか。はたして為政者は日本の何を隠して何を守ろうとしているのだろうか。隠すことによって得られる国益って何なんだろう。

  • 久米宏 vs. 池澤夏樹 ~ 原発、オリンピック

    10月26日放送の「久米宏ラジオなんですけど」のゲストコーナーでの池澤夏樹と久米宏の対談の一部。

    ■久米
    「アルゼンチンで開かれたオリンピックの招致運動で、今の日本の首相が『福島第一原発の放射線問題はアンダー・コントロールなんだ、原発自体はわれわれの意志の中にあってコントロールされているんだ』と発言をしたことは、僕は本当のことを言うと許せない範疇の発言なんですね。
    今、汚染水の問題ってほとんど毎日、新聞に載っているし、細かいトラブルは数限りなくあるんですけど、それでああいう発言をして、まあオリンピックをよんじゃうことも僕は反対なんですけど、汚染水問題って日本人はみんなどっかで、いいよもう面倒くさいよと思いながらも関心を持たざるをえないんですけど、あれは何十年と続く問題じゃないですか、半減期の問題も含めて。
    それって忘れやすい国民だと、忘れちゃったり、あれはネグレクトして生きていけるものなんですか?」

    池澤
    「目を逸らすんでしょうね、つまり早い話が。
    だけどあればひと言で言えば、人の体で言えば出血が止まらない状態ですよ。
    どうやったって血が止まらない、どんどん出ていくんだから、それは非常に怖い不安なことのはずなんだけども、でもあそこでああ言ってしまうのが政治家ってもんなんでしょうね。
    この間から考えているんだけど、政治って本当だったらまどろっこしいでしょう。
    みんなでいろんな議論をして、余計なことをいうヤツがいっぱい出てくるし、なんとかまとめなきゃいけない、それでないと前へ進めない。時間はかかるし。
    だけど元々民主主義ってそういうものだと思うんですよね、まどろっこしくて効率が悪くて。それに比べると経済というのは急ぐんですよ。
    今やらないと間に合わない、遅れる、ズルズル下がっていく、大変なことになる、、、とそうやって煽るものでしょ。
    だから政治と経済を並べてみると、経済に煽られるのをぐっと抑えて、まあもうちょっと考えようというのが政治家のポジションのはずなんだけど、そういうことを言う人は誰もいなくて経済と一緒になって全体を煽る。
    だからそれは原発を稼働しなければ日本は大変なことになるというような言い方になる。
    どっちが大変かというと、出血が止まらない方が僕は大変だと思いますけどね」

    久米
    「それはご本にもお書きになっていますけど、尖閣だとか竹島の領土問題で騒いでいる連中がいますけど、福島第一原発で人が住めなくなってしまった土地、多分何十年と住めなくなるだろう土地って国土を失ったわけじゃないですか。
    あの国土の広さって、とくに竹島なんて小さいですし、尖閣なんかよりもはるかに大きい土地を失ったのにもかかわらず、失った責任者を出せよと言わないけど、尖閣は渡すな、あれは日本のものだと言い張るという理屈がわからないというのは、僕も本当にそう思うんですよね」

    池澤
    「国土というのはなんなんでしょうね。
    係争の地はああやってどちらもがムキになるから、それほどのことかと思いながらね。
    だけど福島で住めなくなった土地というのはわれわれの国土ですからね、間違いなく」

    久米
    「そうです。かなり広いんですよ」

    池澤
    「右翼の人たちはそれこそこの大事な日本の国の国土を失って、それは昔だったら罪万死に値するということでしょう。
    でも日本の右翼さんはあまりそういうことは言わないから……」

    久米
    「尖閣だと竹島だと騒ぐんです。
    あんな竹島なんて小さなものは福島の土地に比べたら屁でもないみたいな、福島を返してくれたら竹島も尖閣も全部あげるよみたいな狭さですから。
    福島は何も騒がないんです、失われた土地に関して」

    池澤
    「これから何十年かたって福島県という土地がどこまで元に戻れるかというと、非常に暗い数字が出てますよね」

    久米
    「人口が随分減るという予測を福島はたてているみたいですね」

    池澤
    「福島で会った新聞記者の方が、うちの女房がこう言うんですよと。
    4歳の男の子がいるんだけど、『この子がきっと大人になっても福島以外の人と結婚できないよ。
    本人同士が好きあって一緒になろうと思っても、きっと相手の親御さんが何もわざわざ福島の原発の、あの時に生まれた子と一緒にならなくたっていいじゃないかと反対する。
    そういう運命なのよ福島は』って言ったんだって。
    彼は男だからそういう発想はなかったのね。
    やっぱりうちの女房みたいな女の方が感覚的に正しいことをつかまえてますよねと言ってましたね」

    久米
    「息子が成人した頃、まだそういうことを、あれは福島の出身よということを多分うちの息子は言われるだろうということを母親は本能的って言っていいんですかね、感じるんでしょうね」

    池澤
    「そう、そこまでパッと考えたんでしょうね。それが福島ですよ」

    久米
    「核の問題というのは、非常に時間がかかるっていうことを日本人は理解してないんじゃないですかね、もしかして。
    何十年単位のものだ、原子炉を燃やした後の燃えかすの処理にしても何万年単位のものだ、ヘタすると何億年単位のものだということは知らされていないんですか?」

    池澤
    「そうだとしたら、今オレが考えてもしょうがないと思って目をそむけるんじゃないですか。
    で、やっぱりずっと3・11以来、良くないニュースがえんえんとあって、それは直視しなければいけないんだけども、つい怯むというか。
    で、そのうちにオリンピックみたいな派手な話題が出ると、まあそっちの方がいいやと思って、オリンピックをやることが福島に対して、あるいはそうでない日本のさまざまな問題に対してどういう意味があるかなんて、まああんまりそういうことは考えないで、わーっとひとまずお祭りで騒ごうやということになっちゃうのね」

    久米
    「僕はオリンピックに関しては、一極集中をもう少し穏やかなものにできないかと前から言っていたものですから、また東京でオリンピックをやると、一極集中が間違いなくさらに進むと思うんです。
    で、東京都民がオリンピックをやることに喜ぶのはまだわかるですよ。
    僕は都民なんですけど反対なんですけどね。
    東京都じゃない人たちまでが、東京でオリンピックをやることにバンザイだなんて言ってたりするのが、これが理解できなくてね。
    いまだにワールドカップは国単位でやって、オリンピックは都市でやるというのがわかってない人がいて。
    今度のワールドカップはリオ・デ・ジャネイロだ、いや違うんだブラジルだと言っても、こっちは国単位だと、、、オリンピックは都市ですから、東京以外の大阪の人が賛成するのは、大阪の人は「バカ、何をゆうてんねん」と言ってしかるべきなのに、日本中がほぼ賛成しているような雰囲気が理解できないですね」

    池澤
    「しかもまたバカでかい競技場をつくるんでしょう。
    あの代々木のあれは、後をどうしていいかわからないようなサイズのね。
    これもまたおカネがグルグル回ると景気がいいという気がするのかしら。
    つまりバブルっていうのは後が悲惨だということを忘れて、あの時の浮かれ具合がまた帰ってくると思うのかしら」

  • 『忘却のしかた、記憶のしかた』という非常に魅力的なタイトルの本。著者の代表作『敗北を抱きしめて』("Embracing Defeat")もそうだが、邦訳も含めてタイトルの選び方には卓越したセンスが感じられる。"Ways of Forgetting, Ways of Remembering" - Ways、と複数形になっているところがここでは肝となるところである。記憶のしかたも多義的なのである。

    本書には主に1990年代後半から2000年代前半にかけて発表された著者の評論が収められているが、その多くは太平洋戦争が日米両国でいかに語られたのかに関するものである。『敗北を抱きしめても』でも使われた技法であるが、当時のちらしや広報などのビジュアルな材料を持ち出すことで、公式な発表文書からは見えない過去の空気を生々しく提示してくれる。

    第4章「愛されない能力」では、過去の戦争に対する日本国内の見方と国際的な評価について批判的だが国際的な評価を相対化した視点で述べられている。序文にある通り、著者は海外で「どうして日本人は、自分たちの近現代を否定せずにはいられないのか」と聞かれるという。著者はそれに対して反論をするも、ほとんど効き目はないらしい。その理由は、天皇の戦争責任を初めとする日本の戦後の対応であり、それが今日ここに至るまで影響を与えているという。

    第5章から第7章では広島、長崎への原爆投下とその後の情報統制とそしてそこから続いているスミソニアン博物館のエノラ・ゲイ展の騒動について書かれている。原爆は日本人にとって戦争における被害者としての立場を象徴する。それが第4章で触れられた過去の記憶の仕方をいっそう難しくさせている。また、スミソニアンにおける騒動があぶりだした米国における原爆投下の責任の所在とその評価も著者にとって不満足なままである。

    そして、最後の第10章と第11章はイラクの占領を日本の第二次世界大戦後の占領になぞらえたアメリカ指導部を批判し、同じ日本による満州事変から始まる十五年戦争にその符牒を見ている。軍部が穏健派を押しのけ、マスコミのコントロールを行い、偽りの開戦理由をもって突き進み、その高邁であるが偽善的な目的によって手段を正当化していると。ただし、著者も告白するように、その論は米国でもほとんど支持されることはなかったという。
    ただ9.11を反射的に真珠湾攻撃に擬したように、すでに50年以上も前のことであるが、過去の体験はいまだ国家としての意気を高めるための象徴や比喩として使われていることは重要で注目すべき事実である。

    日本の戦争責任に対する歴史と状況を批判する書ではあるが、それよりもアメリカのダブルスタンダードともいうべき傲慢な姿勢を批判するものと読むべきように思う。アメリカでまず出版された本なのだから、それはそうだろう。

    単純ではない世界を、その限界を意識しながら、そのままに見ようとする著者の姿勢は彼の著書を通して基本的に変わらない。事実認定に疑義を呈されている本多勝一や吉見義明の著作を留保なく参照すべき参考文献として原注で取上げているところなどでは、批判を受けるところはあるかもしれないが、そのことで反対の立場をとるものも、本書が提起する論点に目を背けるべきではない。アイリス・チャンの『レイプオブ南京』の事実認定に対しても冷静で批判的でもあるし、日本の保守派の知識人や漫画家(=小林よしのり)にも言及しているところから、日本における自虐史観からの脱却という一部の論調にも無知ではないはずだ。何より、歴史は何かを記憶するその仕方において、何かを忘却することに加担しているということを強調するために、そのタイトルを掲げているのだから。

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    戦争責任の問題は実に根深い。戦後のポリティックスにより歴史の記憶が操作され、ある種の忘却が促された。その処理の結果は、国際社会において根深い悪影響を長きにわたって与えている。中国や韓国との状況を考えればその通りだろう。特に、普段そのように見えない年配の人でも場によってそのことを隠すこともしない人がいて驚くが、その人自身は正当なことを言っていると考えているのだろう。これは日本だけの特殊な問題ではない。昔、20年以上前に数週間を過ごしたギリシア北部の町テッサロニキにおいて、現地の年配の方が過去のおそらくは自身が関与していない戦争の記憶のために、いまだにトルコのことを敵視していた。きっと、ドイツとフランスやポーランドとの間でも根深く変わらない心情的関係が続いているのだと思う。

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    朝日新聞の載った柄谷行人の書評はこれ。
    http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013092900001.html

    本書の内容を読まずとも、これを読んでも戦争の記憶のしかたが多義的であることが感じ取れると思う。

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    歴史に向かうとき、「謙虚さ」と「誠実さ」が必要なのだと思う。

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    本書の中で、「アジアの主要な核基地になっていた沖縄本島」と何の留保もなく書かれている。これは、アメリカ側から見ると当たり前のことなのかな。

  • まえがき、というか日本の読者へのメッセージが、いきなりハードである。目を伏せたい、読むのをやめようか、とさえ思えるほどに。
    戦時下で日本人がどのようにアメリカに恐れられ、忌み嫌われてきたか。そして戦勝国アメリカが、日本人に忘れさせたものと、心に染みつけたものを説く。第四章のタイトルにもなっている「愛されない能力」は著者の言葉ではないが、平等と責任の意識に欠けると…。てことは、愛せない能力でもあるなあ。その能力ゆえか、いまだ近隣国との折り合いが付けられていないのか。苦い本。

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