大学と教養教育――戦後日本における模索

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  • 岩波書店
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000258791

作品紹介・あらすじ

第二次世界大戦後、アメリカの制度を範として日本の新制大学に導入された「ジェネラル・エデュケーション」という新たなカリキュラム。大学生みなが共通のに学ぶものとされながら、常に不要論と擁護論の狭間にあったこの「教養教育(一般教育)」は、導入期、大学大衆化時代から一九九一年の制度上の廃止、そして現在へと至るまで、どのように変容・定着したのか。そして日本の高等教育システムに対していかなる役割を果たしたのか。大学教育の歴史と全体像を俯瞰する、実証研究の労作。

感想・レビュー・書評

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  • 「教養教育」関連の文献を読んでいつも不満に思うのは、言葉の定義が不明瞭なことだ。“Liberal Arts” ”Liberal Education” ”General Education”という違った内容・目的を持つ教育が全て「教養教育」と訳されていたり、「普通教育」「一般教育」「教養教育」の表現が混在していたりすることが多い。その点、本書では言葉の使い分けに忠実だ。

    そもそも、なぜ日本に「一般教育」という科目群が導入されたのか、なぜうまくいかないのか。その原因を探るには、歴史的に考察していかなければならない。
    伝統的なヨーロッパの中等機関は、三分岐型の構造をもつ(ドイツであれば、卒業後に就職する「ハウプト・シューレ(5年制)」、卒業後に職業教育学校へ進学・中級の職に就く「実科学校(6年制)」、大学進学を希望する者が進む「ギムナジウム」(9年制))。しかし、アメリカの中等教育制度は完成教育機関としての機能が強く、大学に接続する選抜的な中等教育機関が発達しなかった。これがアメリカの Collegeで、伝統的にLiberal Arts(元々は言語系・数学系科目で構成)を中心に据えたLiberal Education(社会系・理科系科目の追加や寮での生活指導(=親代わり))であった。

    17世紀に誕生した植民地カレッジにおける教育は Liberal Educationと呼ぶが、その後19世紀に大学院(Graduate School)がスタートし、College が Universityとして発展すると、1・2年次の教育は、中等教育的な人格教育のLiberal EducationからGeneral Education に代っていく。Liberal Arts は、基礎(純粋)学問であるから、専門科目としても位置づけられている。
    アメリカでは、高等教育に接続する中等教育が発達しなかったから、これを補うために大学の中に取り込み、2年間の「(高等)普通教育」を行うこととなったのだ(というより、伝統ある大学(college)はもともと中等教育機関であったという方が近い)。この2年間の幅広い科目の履修を通して、学生たちは自分たちの専門分野を定めていく。そして3年次から専門(Major; Minor)を決め、2年間学修する。さらに学びを深めたい場合、あるいは、2年間の学び(基礎学問等)を踏まえて、職業に関連する学問を深めたい場合は、職業系大学院で深める、という流れだ。

    ところで、Liberal ArtsとGeneral Education の異同では、General Education が、その目的として幅広さと一貫性を掲げるのは、Liberal Education に由来しているが、Liberal Education は手段ではなく目的(人格)―アメリカは,植民地カレッジ以来の伝統である人間形成的な理念が付託された―一方、General Education は何らかの社会問題の解決が目的として課されたという。
    例えば第一次世界大戦後の「一般教育運動」は大学の専門主義に対する反動や大量の移民をアメリカ国民にする紐帯の役割が、また第二次世界大戦後の一般教育の注目には、大学に戻った復員兵の教育や民主化の促進という役割への期待があったという。

    第二次世界大戦後の日本における「一般教育」の導入は,高等教育に関する諸改革のうち「一元化」「単位制」「修士課程」と並んでもっとも大きな変革の一つであり,ドイツの大学の中心に据えていた、第二次世界大戦以前の日本の大学は,専門教育を教える専門学部が並立し、学生も教員も専門学部に分化する構造をもっていた。
    新制大学では、そうした学部構造をそのままにして,また日米の中等教育の状況の違いを考慮することなくアメリカのGeneral Education(「普通教育」と訳すべきだった))を必修として導入した。
    学部・学科の独立性が強く,所属教員はそれぞれの専門教育の見地から学生を選抜し,学生は入学時から専門が決定するという,大学の組織・教員・学生の三者すべてが専門教育主体に構成されていた大学に,専門にかかわらずすべての学生が共通に学習する一般教育という要素を,在学期間の半分にもおよぶ期間にわたって導入したのだ。

    アメリカのGeneral Educationには,植民地カレッジ以来の伝統である人間形成的な理念が付託されているが,当時の日本の高等教育にとってそうした理念はあまり親和性がなく,その理念の日本における整合性などについて議論を重ねるというよりも,むしろ一方では一般教育と専門教育とをどのように接合するか,また一般教育と専門教育の教育内容をどのように区別するかといったテクニカルな側面での問題が喫緊の解決課題であった.そのなかで,もっとも大きな問題は,一般教育を誰が担当するか,また,学部という組織構造と一般教育の実施体制とはどのような関係に置くのかという,教員と組織構造の編成に関するものであった。なぜそれが問題にならざるを得なかったのか。高等教育システムが戦後、拡大を遂げていく過程において,一般教育はどのようにかかわったのかという観点から分析,考察している。

    しかしこのような歴史的な背景を考えると、日本の教養教育(一般教育)が抱える問題は、中等教育・入試・高等教育そして、就職という問題をトータルで考えない限り解決の道はないのだろう。また「定員の厳格化」を求める文部科学省の方針からすると、大学に入ってから学びたい分野(学科)を見つけるための様々な分野の学習という一般教育の意義は見出しえず、学生にとって学ぶ意欲が見つからない科目群というレッテルは、返上できそうにないような気さえする。

  • 博論の先行研究として中心になるだろう。精緻なデータに基づいて分析しているかと思いきや、マクロな視点で教養教育を論じていた。色々考えるところがあるが、そこは博論でしっかり論じていきたいと思う。

  • 本書を読み終えて、コンサートホールのS席で重厚なシンフォニーを聴いた後のような心地よい疲労感と余韻を味わっている。他の高等教育研究者の研究成果と趣が異なり、芸術作品のような論文だった。膨大な資料から紡ぎ出された結論には、多くの読者が「納得」するはずだ。

    論文を書いている今、参考になったのは、枠組みの作り方、先行研究の扱い方、一般教育に対する評価の視点の3点だった。それら3つに共通することは、一般教育や教養教育の事例や現状を嘆いたり、批判のみに陥ったりしないこと、日米のリベラルアーツ教育や一般教育の差異を指摘し、アメリカでのそれを理想視・絶対視しないことが、基本的な背景としてある。教養教育の在り方について、賛成ないし反対の主張をすることを目的とせず、客観的視座を保ちながら論を展開し、収斂させる「構成」を範としたい。

    著者は、「教養」を身につけるための教育が「教養教育」という認識が、誤解であることを丁寧に教えてくれている。この「誤解だ」という指摘は、これまでも多くの論者によってなされているが、必ずしも説明が十分でなかった。本書で再確認できたことは収穫だった。

    なお、元の博士論文には序章に「分析事項と依拠するデータ」が示されているが、本書では割愛されている。この一覧表の意味は重要だと思われるが、紙幅の都合上だろうが掲載されていない。理解の助けになる表なので、必要に応じて原論文を参照してもよいのではないか。

  • 専門教育の中でも教養教育の理念を活かした教育ができるとすれば、教養教育と専門教育といった区別は必要なくなる。
    2000年ごろからは学部ではなく学士課程と呼ぶところもあるらしい。

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