おいしそうな草

著者 : 蜂飼耳
  • 岩波書店 (2014年3月20日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000259552

おいしそうな草の感想・レビュー・書評

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  • 2017年1月22日紹介されました!

  • 「忘れる、ということは、思い出さない、ということと同じだろうか。」

  •  表題を気にしながら、「言葉と草の葉」を思い浮かべながら読み進む。詩人である著者は、日常生活の中で様々なものたちに出会うたびに、過去の会話を甦らせたり、詩や小説を思い出したりしながら、「ことば」の不思議な世界に誘われている。

     「慣れることがもたらす穏やかさは、感覚の死でもある」(詩と唐辛子)
     「ここでいう出会いとは、現実のなかを流れていく物事が、ぱっと割れて芯を見せる、そんな瞬間のことだろう」(みんなの蜜柑)
     「美は網の出口だと著者(イエイツ)はいう。つまり、はっとさせられ、心を持ち上げられるようなこと」(時計が止まる)
     「言葉はその一切を捕獲しようとする。できない。できなくても、やめない。言葉はいつも追う。狩りのすがただ」(狩りのすがた)
     「雑草に言葉はない。<私>を通して、それは言葉になろうとする。というより、もっといえば<私>が雑草になりかける。言葉がそれを押しとどめる」(おいしそうな草)
     「文字のない時代のことを、いま文字を通して考えるとは、なにをしていることになるのだろうか」(旧石器)

     あとがきで、この文集が連載された際のタイトルは「ことばに映る日々」だったとある。さらに、この本の表題となった「おいしそうな草」という言葉は、『古事記』(上つ巻)に人間を表す言葉としてたった一箇所だけ出てくる「青人草」に触発されて生まれたことも明かされている。
     日本人は、『古事記』で人を草に見立て、『万葉集』では葉に見立て、古来から自然とともにある存在として<言の葉>を発して来たことに気づかされる。
     キリスト教にあっては、『旧約聖書』のイザヤ記(64章)で人を泥塊に見立てていることを思う。陶工である神により形作られるのが人間というわけだ。

     「人はおいしそうな草であることが、できるか、どうか」というこの著者の思いに親しみを覚えてしまう私には、やぱり日本人の血が流れているのだろうか。それとも日本語を覚えたからそう感じてしまうのだろうか。
     私もまた、著者に誘われて、いつの間にか、言の葉の叢に迷い込みつつあるらしい。

  • 蜂飼耳さん トークイベント |ジュンク堂書店|
    ジュンク堂書店 池袋本店
    開催日時:2014年05月17日(土)19:30 ~
    入場料:1000円ドリンク付き
    問い合わせ
    TEL 03-5956-6111
    ジュンク堂書店池袋本店
    東京都豊島区南池袋2-15-5
    http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=5019

    岩波書店のPR
    http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/5/0259550.html
    『おいしそうな草』moreinfo
    http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0259550/top.html

  • 『「書くまい」とする衝動。次々に書くという動きの対極にある、こうした抑制の力が、何かをぐっと堪えたまま発語へと反転していく。言葉になる手前で、だれにも聞こえない音で、きしむ』ー『蛙はためらわない』

    世の中には、常に頭の中を充たそうとする雑音が溢れている。そして一度頭の中に入り込んだ雑音は、いつまでも不快な音で鳴り続ける。そんな雑音の元を頭の中から掃き出すことができればよいのに、と思う。

    蜂飼耳の名前を見るたび、そんな連想が頭の中を通り過ぎる。この人もまた、自分自身の頭の中の雑音に悩む人であるのかと。

    ぶんぶんと鳴っていた音の正体が、耳から飛び出して来るのを見遣ると、そこに舞うのは、忙しく羽根を動かし続け一点に固定しようとする蜂ではなくて、優雅に羽根を羽ばたかせて、ふわりふわりと宙に留まる蝶であったりして、驚く。

    思いの正体は見えている姿とは異なることも侭ある。多くを語りたくはない。なのに言葉はだらだらと、溢れるようにこぼれ落ちる。慌てて口を塞ごうと手で覆うけれど、思いが溢れ出ているのは口ではない。そもそも耳には蓋がない。

    仕方なく飛び出して来るものに身を任せると、形のない他人のもののような思いは、急に一つの姿にとなって立像する。ああ、と思わず声が出る。

    この本に収められた一つひとつの文章がそんな思いの変化する様を見せつける。随筆のようであった言葉の配列は、いつの間にか散文のようになり、句読点ごとに、言葉が打たれるように置かれた時の余韻が一つひとつ深くなる。

    その過程をつぶさに見てやろう、そして、その不思議な変換の秘密を解き明かしてやろうと、身を固くすると、元々かげろうのようであった存在は、たちまち霧散し、非存在となる。耳の中を静寂が支配する。

    しかし、心地よい筈であったその状態は妙に身体を落ち着かなくさせる。その居心地の悪さが嵩じると、再び耳は煩わしいあの音で満ちてくる。その波に翻弄される。それに身を委ねるしかない。それが蜂飼耳を読むということ。

  • 今年の東大入試に出た文章も収められています。

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