記憶/物語 (思考のフロンティア)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (123ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000264273

作品紹介・あらすじ

或る出来事-しかも、暴力的な-体験を物語ることは、果たして可能だろうか。もし不可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。だが、誰が、どのように語りうるのか。記憶と物語をめぐるポリティクスを、パフォーマティヴに脱構築する果敢な試み。

感想・レビュー・書評

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  • 巻き込まれたように読む必要が生じて一読したが、自分には合わない書だった。言語や映画での表現だけでは表しきれない重要な部分があるのは当然で、それでも何かメッセージを伝えようとそれぞれが頑張って創作しているのだと思う。認識が偏らないためにも同じテーマの作品を違う視点から表したものなども体験する必要があるのだろうと認識を新たにした。

  • 「語ること(表象)」を巡る議論の展開を踏まえて、戦争などの激烈な体験(=<出来事>)の表象の限界について述べている。

    語られないことは認知されず、存在しないものとされて忘れ去られてしまうが、しかしそもそも語ることすらできない物事はどうすればいいのか。語りえないものを語りうるものとして単純化して片付ける「物語」の欲望を退けながら、<出来事>を記憶することはいかにして実現しうるのか。

    岡さんの、明晰かつ文学的な文章が堪能できる素晴らしい一冊です。

  • 岡 真理はアラブ文学研究者だが,ポストコロニアル・フェミニズムという,現代思想の流行のテーマを扱っているため,『現代思想』などにも寄稿していて,いくつか文章を読んだことはあったが,著作を読むのは初めて。
    彼女の文章は少し不思議なところがある。もちろん,テーマ的にも難解な箇所があるのに,さらっと読めるのだ。まあ,それは小冊子で書き下ろしという,このシリーズものだからこそかもしれませんが,女性的なのかもしれません(などとフェミニストに対して書くのはどうかとも思いますが)。
    本書の中心にはパレスチナ問題がある。はっきりいって私は戦後60年続いているこの問題について知るようになったのは,研究を始めて少し経ってからだ。さすがに,今日だとその問題がどういうものかは知らなくても,パレスチナという言葉は誰でも知っていると思う。しかし,私が高校生の頃,その名前はどこに登場しただろうか。しかも,最近よく聞くようになってからも,なにが問題何かも基本的に知らないのに「パレスチナ問題」というものが自明のように,ニュースでイスラエルの映像が流される。でも,本書はその基本的な知識も省略せずに書いてくれる。ヨーロッパの長い歴史のなかで迫害されていたユダヤ人は,第二次世界大戦でナチス・ドイツの「ホロコースト」に遭ってしまうわけですが,そんなユダヤ人を保護するために建国されたイスラエル。もちろん,米国が主導だったわけですが,今度はもともとその地に住んでいたパレスチナ人が迫害に会うことになったわけですね。もちろん,いきなりここに国を作るから転居してくださいといわれても,そんなことはできません。それが可能になるのは強制的な暴力を除いてありえません。詳細はまだ知らないことばかりですが,想像も及ばないすごいことですよね。
    本書ではこの問題そのものを扱うのではなく,そういうことが(パレスチナ問題に限らず),映画や小説などに描かれることを深く考えようとしています。誰によって語られ,それを受け取る人たちはどのように受け取るのか。なかには是枝監督の『ワンダフルライフ』なども取り上げられていて,私では思いつかない視点が新鮮だ。私はこれは日本映画なのだからという前提からそんなことは自明なこととして観てしまったが,恐らく国境などない死後の世界のはずなのに,登場人物が全て日本人であるということは実は不自然なのかもしれない,ということだ。この物語に登場する老人には戦争の記憶があるが,この全て日本人であるということと,戦争を語るナショナリスティックな物語。これが本書で問われる,この映画の問題だ。
    まあ,ともかくさっと読めて刺激がある,そんな魅力的な本です。

  • パレスチナ人難民の虐殺事件や第二次世界大戦中におけるホロコースト、あるいはいわゆる従軍慰安婦に関する問題などを手がかりに、記憶の表象可能性の限界を指摘するとともに、そうした限界を超えて語ることへの希望を示そうとする試みです。

    ガヤトリ・スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』以来の問題設定を踏襲しており、こうした議論に食傷ぎみの読者は不満をおぼえるかもしれません。たしか内田樹も、そうした批判を展開していた記憶があります。とはいえ、個人的には本書で紹介されているいくつかの議論を通じて、記憶と物語をめぐる問題のさまざまな切り口を見ることができて興味深く読みました。

    バルザックの『アデュー』という作品についての考察や、「ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース」と叫びながら敵陣に突撃した日本兵のエピソードを介した議論など、とりあげられている例がさまざまな問いを喚起しているように感じられるのですが、小さな本なので十分な議論を展開する余裕がないとはいえ、はじめから結論のほうに向かって水路が用意されているような議論の展開は、本書のようなテーマをあつかっている本のばあいには少し残念に感じてしまいます。

  • 【目次】
    はじめに [iii-xvi]
    目次 [xvii-xviii]

    I 記憶の表象と物語の限界 001
    第1章 記憶の主体 001
    1 到来する記憶 001
    2 余剰と暴力 005

    第2章 出来事の表象 011
    1 小説という語り 011
    2 表象しうる現実の外部 015

    第3章 物語の陥穽 024
    1 虚構のリアリズム 024
    2 出来事の現実 029
    3 物語への欲望 035
    4 物語の欺瞞/欺瞞の物語 044
    5 否認される他者 053

    第4章 記憶のポリティクス 056
    1 傷痍兵という出来事 056
    2 記憶を語るということ 060
    3 否認の共犯者 066

    II 表象の不可能性を超えて 075
    第1章 転移する記憶 075
    1 外部の他者へ至る道筋 075
    2 ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース 077

    第2章 領有することの不可能性 082
    1 封印される余剰 082
    2 偽りのプロット 085
    3 単独性・痕跡・他者 092

    第3章 出来事を生きる 099
    1 出来事の帰属 099
    2 難民的生の生成 102

    III 基本文献案内 113

    あとがき(2000年1月 岡真理) [121-123]

  • 言っていることに同意しまくりだったけど、それを言っては私たちは何も出来ないと思った。だからこの本に同意することももちろん出来ないのだ。

  • 元従軍慰安婦の女性が、「私は女の歓びを知らない」と言ったときの岡の衝撃と、その衝撃の解釈が印象的だった。

  • 具体例の概説に飽き飽きとするが、
    内容は総じておもしろく、
    記憶や出来事、物語をめぐる人間の精神構造を、的確に示唆しているように思う。

    ●以下引用

    人がなにごとかを「思い出す」と言うとき、「人」が思い出すのではない、記憶の方が人に到来するのだ。

    記憶が、-あるいは記憶に媒介された出来事がー「私」の意思とは無関係に、わたしにやって来る。ここでは、「記憶」こそが主体である。そして、「記憶」のこの突然の到来に対して、「私」は徹底的に無力であり、受動的である。

    フラッシュバックとはそれ以上に、記憶に媒介された暴力的な出来事が、今、まさに現在形で生起している、そのような場に自分自身が、そのとき心と体で感じたあらゆる感情、感覚と共に投げ出され、その暴力にさらされるという経験であるのではないだろうか

    50年という歳月によっても「過去」として馴致することができない生々しい暴力として今なお、現在形で、彼女の身に生起し続けているのではないだろうか。

    出来事を言語化すること-そのとき、出来事はつねに過去形で表現される-それは、人が出来ごとを「過去」に馴致する、飼い慣らす-ことではいか。「過去」のものとして飼い慣らされた出来事は、私たちの記憶のなかで安定した場所を見つけるだろう

    出来事というものが本質的にはらみもっている再現することの不可能性、それをいかにしてか語ることによって、小説はそこに、言葉では再現することのできない「現実」があることを、言いかえれば「出来事」それ自体の在処を、指し示すのではないか。

    その出来事の暴力を肉体が生き延びるためには、彼女は、我と我がに起こったこといっさいを忘却しなくてはならなかった。

  • ホロコースト、戦争、震災・・・<出来事>の他者と共有化は、様々なメディア(小説、映画、ルポ)を通じて常に「リアリティ」が重視された物語として「表象」されようとする。しかし、その「リアリティ」や「リアリズム」への傾斜によって表象される<出来事>の物語が、作り手の目論見通り「リアリティのある物語」として受容されるたびに、それは逆説的にも<出来事>の忘却へと繋がり、<出来事>の表象不可能性を露わにしてしまうというパラドックス。表象とはある出来事の側面を「可視化」をもたらすと同時に、別の側面の不可視化をもたらし忘却させ、総体としての出来事を見えなくしてしまう極めて暴力的な行為なのだ。
    しかし、それでも私たちは<出来事>の表象による記憶の継承は「他者によって、すなわち<出来事>の外部にある者たちよって分有されなければならない、何としても。」なぜなら、この記憶を継承していくことができるのは、この「<出来事>の外部にある者たち」によってのみであるし「これらの者たちにその記憶が分有されなければ、<出来事>を生きた者たちの存在は、他者の記憶の彼方、『世界』の外部に抛擲され、歴史から忘却される」から。

    「言葉は全然、透明ではない。その不透明さを想起することが今、何よりも大切なのではないか。透明化され、意味を確定しているとされるそれらの言葉に不透明さをとり戻すことが。透明な言葉こそが実は、私たちが<出来事>の記憶に触れるものを幾重にも阻害しているのだということを想起することが。」(p.107)

  • <出来事>の共有には、当事者以外による分有がなさねばならない。また、印象的だったのは、映画『ワンダフルライフ』における、俳優たちの確信に満ちた自然さであるが故の不自然な演技、「自分の語りが受けとめられないかもしれないという不安ゆえに人の語りが自然と帯びる、他者への呼びかけの声が決定的に欠けている、加えて筆者の母及び祖母の戦争体験談という、無意識のうちの「戦争という<出来事>のの暴力を現在の物語として生きざるを得ない他者の存在を想起させる契機を欠落させ、自らの被害だけを記憶し、想起している」ということ。

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著者プロフィール

京都大学大学院人間・環境学研究科教授
専攻:現代アラブ文学、パレスチナ問題研究
主な著作:『彼女の「正しい」名前とは何か――第三世界フェミニズムの思想』(新装版、青土社、2019年)、『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房、2018年)、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)、『棗椰子の木陰で――第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社、2006年)、『記憶/物語』(岩波書店、2000年)。

「2023年 『記憶と記録にみる女性たちと百年』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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