- Amazon.co.jp ・本 (116ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000270731
作品紹介・あらすじ
なぜサッカーはあれほどまでに観衆を熱狂へと駆り立てるのか?サッカーは単なるゲームではない。それは、日常世界の多様な意味をさまざまなレベルにわたって読み取らせる、記号論的なゲリラ戦の繰り広げられる場なのだ。「私はサッカーのファンが嫌いだ」と言い切ってはばからないエーコが、サッカーとサッカーをめぐる言説の解読に挑む。
感想・レビュー・書評
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開催中のワールドカップの熱狂から距離を置いてサッカーを眺めるにはよいかもしれない。エーコはサッカーが嫌いなのではなく、サッカーファンが嫌いなのだそうだ。その理由は面白く機知があると感じる部分と、難癖つけているような部分とが入り混じっている。
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2014年6月~7月 企画コーナーにて展示
越谷OPAC : http://kopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1000453228 -
サッカーや紅茶という自分にとっての興味対象がもつ意味を考えたくて再読。でも、読んでるうちに違うテーマについて考えてた。
なぜ、Jリーグのファンはやたらと社会的装置になりたがり、自己をアピールしたがるのか。
本書で語られているのはもちろん、長い歴史をもち、文化的装置として一定の地位を持ち得た欧州のサッカーだけれども、そこに至らぬ日本のサッカー文化やファン心理を考える上でも非常に参考になった。
そもそも本棚から引っ張り出してきた目的はどこかへ行ってしまったけどね。 -
「私はサッカーが嫌いだ」という、有名な文句を中心に、流動する記号と社会の関係などを、読み説く入門書。
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期待はずれでした。
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サッカーファンとサッカーに対する熱狂を記号論的に読み取る
エーコのエッセイを、さらに著者が解釈した著作。
の日本語訳。ややこしい。
記号論にはまったく知識がないので難しいところもあったけれど、
スポーツ(とくに熱狂的なもの)に対する、コミュニケーションの
あり方は身につまされるものもちょっとあったりとかして。
しかもこれを読みながら、サッカーを見ているという不届きぶり。
現代のコミュニケーションについて、「言語情報の伝達は重要では
なく、もっぱら誰かが自分に話しかけている、という事実の確認
だけが、人間に感情的安堵を与える」という解説・今福龍太の引用は
はっとさせられるものがあった。
内容はどうでもよくて、つながっているということに安堵感を
持っているというのは、実感としてそういうところがあるんじゃ
ないかって、思うから。