僕が批評家になったわけ (ことばのために)

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000271059

感想・レビュー・書評

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  • 率直な感想としては、よみやすくて面白くてためになったなぁ、ということ。

    読みづらいところもあるにはあるけれど、
    こうして批評・評論めいたことを書きたいなと思わせるほど、
    自分にとって批評や評論に対する、ある種の「うさんくささ」の正体を教えてくれた気がする。

    そう、俺にとっていつも評論や批評は、「ためになるけどうさんくさかった」。
    ほんとうになんだろう、頭でっかちのおじさん・おばさんの言葉って比喩がぴったりなのだ。

    学問的な裏付けがあるかって言うとそうでもないし、かなり直観や印象でもの言うし、
    いきなりよくわからん図表とか書いて「これこれのことをこう呼ぼう」って概念創るし、
    なんか知らないけど「えらそう」で「訳知り顔」で「文句ばかりいってる」。

    これが、高校時代に読んだ教科書の中の評論や、新書のなかの批評家・評論家たちのイメージ。
    その印象はこの本読むまで、けっこう変わってなかった。

    でも、学問も知らず、知識もなくても、徒手空拳で何かについてなにかしら考えて、
    語りあうことが出来るゲームが、批評だし評論なんじゃないの、と。
    加藤さんは(俺が読み取ったものだけれど)この本でそう述べていると思う。

    この背景にはおそらく、本書中にもいくらか出てくるけど、
    やはり竹田先生の哲学観や批評観の影響があるような気がする。

    その影響関係も交えて、自分なりに哲学と批評というゲームのルールを分類するなら、
    思考や認識、世界観や価値観といった、「ことの本質」についてゼロから考えるのが哲学ゲーム、
    文学や建築、釣りでも人付き合いでも、「ものの本質」についてゼロから考えるのが批評・評論ゲームなのかなぁと。

    前者はだから「考えるとは何か」、「価値とは何か」と抽象的なことについて考えていくけれど、
    後者は「文学においてリアルとは何か」「釣りの良さは何か」と「ものの本質」について考える。

    そう考えると、戦後から現代まで連綿と続く批評の考え方が、
    いわゆる「物自体」の「表象」を考え続けているのは腑に落ちる。
    そこには確かな「もの」が無ければいけないのだろう、思考の宛先としての。

    だからこそ評論の裾野は広いのだ、特定の「もの」に関心がある人であれば集まってくる。
    それゆえに批評はうさんくさくなる。「もの」を語るから当然それはひとつの仮説に留まる。
    しかも科学的な実証性や再現可能性を追求しないとなれば、これはもう「もの」から乖離するのも必然だ。

    それでも、これでいいのだと、加藤さんは背中を押す。
    難しくなければ語れない「もの」もあるし、自分なりに言い換えれば、
    難しいものとことばが好きな人たちのQoL(生活の質)の問題なのである。
    誰かの権利を侵害していない限り、そのようなものやことばを好きな人たちの権利を侵害する権利は誰にもない。
    と思う。

    つらつら書いてきてしまったけれど、とくに面白かったのは、最後の「批評の未来」の章。
    二階と一階と地下室のアナロジーで、学問と批評の対立を見事に乗り越えている。
    もしくは理論と実践、思想と実生活、個人と世間の対立。

    ニヒリスティックな地下室もアカデミックな二階も経験した後で、一階の世間的な生活に戻ること。
    そのなかで、地下室で見えた風景や二階から見えた風景をわすれずに、一階の人に語ることの大事さ、難しさ。

    正直、これは自分の理想型だな、と感じた。
    それでもやっぱり、批評や評論のうさんくささはどうにかしたいけれど、
    こうした生活の闇も理想も実際も忘れぬ在り方で、俺は批評をしたいし、学問をしたいと思う。

  •  自分にいま感じられる言い方で、誰にとってもそうであるはずだというようなことをいってみること。普遍的なことをいおうとして変な言い方になってしまうこと。自分の思考の力だけを頼りに本を百冊読んでいる人と五分五分の勝負をするのも面白い。なにが美しいかは本を百冊読んでいるかいないかに関係しないから。さもないと考えるということの意味がなくなる。

    『ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。』14頁

  • 親しみやすい評論入門。

  • [ 内容 ]
    批評に背を向けても、私たちは生きられる。
    だが、もし批評がこの世になかったら、私たちの思考はいまよりもっと貧しいものになっていたのではないだろうか。
    批評とは何か。
    批評のことばはどこに生き、この世界とどのように切り結んでいるのか。
    批評という営みが私たちの生にもつ意味と可能性を、思考の原風景から明らかにする。

    [ 目次 ]


    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  •  文藝評論の入門書ってなにかないのかしらん、と、もうしばらく文藝評論をやっておる身としては不思議になって、この本しか出てこなかった。で、方々の図書館にあるので、とりあえずこの本が「文藝評論入門」でいいんだろうな、ということで読みはじめました。

     「書評には基礎知識が要るのか否か」という問題が、すなはち文藝評論というジャンルをマイノリティにしている大きな問題でして、本書の中において作者は「文芸批評とは、それぞれの知識に関係なくわたりえある知のゲームだ」と書いております。ここは本当にそうなのよね。ちょっと詳しい人に聴くと「記号論は通過してなきゃいけない」とか「ポストモダンは一通り読んだの?」だのとまず、聞かれてしまう。んだけれども、もっと各人の「実感」に即したレベルでの話題が繰り広げられないと、どんどんと文藝そのものへの敷居が高くなるばっかりでね。そもそも「記号論」ソシュールから読んだとしても、わかりゃあせんのです。それはアタシが馬鹿だからかもしれない。が、実感の伴わない話を情報として知っていてなんの役に立つのんか。
     地動説、だからなにさ。せいぜい知っていても「説明がつく」というだけで「納得がいく」というわけではない。この辺は本書の中で小林秀雄の「人間の建築」なんかを引いて説明してあったけれども。

     えー、本書、たしかに「文藝評論入門」ですが、筆者にとっては100%中身が理解できるものではありませんでした。しかしながら、そういう「前提の知識を必要とする」文藝評論という現場を目の当たりにして、踏み込んでいく契機としてはいい本だったのではないかと思います。

     この本をもーっと噛み砕けないものかな。
     もちっとスキルがついたら、そういう試みもしてみたいところです。

  • 「批評が何か、そんなことは知らない。しかし、お前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。たとえばある新作の小説が現れる。これがよいか、悪いか。その判断に百冊の読書は無関係だ。ある小説が読まれる。ある美しい絵が出現する。そういうできごとは、それ以前の百冊の読書、勉強なんていうものを無化するものだからだ。だからすばらしい。」

    小林秀雄が現代風の話し方で書いたような威勢のいい啖呵だ。こうした断言口調には何かしら人を納得させてしまおうとする書き手の熱っぽさを感じてしまう。だから、書かれていることの検証などそっちのけで、うん。そうだ。そうだ。などと相づちを打ってしまいそうになる。ところが、書き手が加藤典洋だと、そうは簡単にいかない。なぜか、この人の書くものには、いつも判断停止を誘うようなところがあるのだ。

    それはどういうことかというと、加藤には加藤の言いたいことがある。それは、よく分かる。よく分かるのだが、そのために説明しだすと、うん、ちょっと待てよ、話はそう簡単にはいかないだろうと思わされることがよくある。自分ではよく分かっていることを説明するときにおきがちな誤解だ。

    知らない人に道を教えるときは、曲がり角や分かれ道に特に注意する。それと同じように論理がそこで新たな展開に入るときにはあらかじめいろんな道のあることを説明してくれるとありがたい。人によっては書いている人と同じように思わない人だっている。だから、あなたはこう思うかも知れない。でもね、これはこういうことでしょ、という一言がほしいのだ。たとえば、こういうところ。ここで網に喩えられているのは「批評」である。

    「その魚をとるのに、どんな深海までもぐらなければならなかったとしても、どんなに高度な網が必要だったとしても、魚は魚。誰もが食べたら、おいしいか、まずいか分かる。子供が食べても、おじいさんが食べても。」

    ちょっと、待ってほしい。子どもの時はおいしくなかったものが、大人になってから食べてみるとおいしかった、などという経験は誰にだってある。まして、年寄りになったらなおのことだ。年齢によって、おいしいと思うものはちがうだろう。また、ところが変われば、おいしいと思う食べ物はちがうこともある。イカやタコを食べない文化圏に育った人には、あの味は分からない。

    その魚がうまいか、まずいか、うまいとしたら、なぜうまいのか、味わう側の味覚の方も問題にしてもらわないと話が見えてこない。現に加藤自身、別のところで、同じ批評でも読まれる世代によって受けとめ方にちがいが出ることを書いている。「ことばのために」というシリーズ中の一冊である。初学者のために敷居を低くしておきたいという気持ちがあるのはよくわかるが、簡単に書くことがかえってわかりにくくするということもある。裾野を広げたはいいが、山頂に行き着けないようでは困るのだ。

    随筆の代表選手のように考えられている『徒然草』を批評の原型として持ち出し、批評というものの範囲や、評論とのちがいについて考えさせている点、やさしい言葉と難しいことばで書かれる批評のちがいはなぜ起きるのか、インターネットが内田樹のように難しいことをやさしい言葉で書ける批評家を生んだという指摘等々、考えさせられるものを多く含んだ本である。比喩の用い方にはもう一工夫ほしいと思うが、「批評とは何か」を考える上で読んで損はないと思う。

  • ¥105

  •  批評とはなんぞや?のわたしの問いに答えたような答えていないような。

  • 以下のページで感想書いてます。
    http://blog.livedoor.jp/subekaraku/archives/50212650.html
    ほかのページでもたくさん。

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著者プロフィール

加藤典洋(かとう・のりひろ)
1948年、山形県生まれ。文芸評論家。早稲田大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒。『言語表現法講義』(岩波書店)で新潮学芸賞、『敗戦後論』(講談社/ちくま学芸文庫)で伊藤整文学賞、『テクストから遠く離れて』(講談社)と『小説の未来』(朝日新聞出版)で桑原武夫学芸賞を受賞。『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(幻戯書房)、『敗者の想像力』(集英社新書)、『戦後入門』(ちくま新書)など著書多数。

「2018年 『白井晟一の原爆堂 四つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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