星をつなぐために (沢木耕太郎セッションズ〈訊いて,聴く〉 IV)

  • 岩波書店 (2020年6月13日発売)
3.39
  • (3)
  • (6)
  • (12)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 92
感想 : 15
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (326ページ) / ISBN・EAN: 9784000280808

作品紹介・あらすじ

「かく」とは天上の星をつないで星座を描くことなのか? フィクションとノンフィクションをめぐるスリリングな10のセッション。書き下ろしエッセイ「「かく」ということ」も収録。【柳田邦男、篠田一士、猪瀬直樹 、辻井喬、村山由佳 、瀬戸内寂聴、角幡唯介、後藤正治、梯久美子】

みんなの感想まとめ

フィクションとノンフィクションの境界を探る対談集で、著者は多様な作家たちとの対話を通じて、創作の真髄に迫ります。特に、ノンフィクションとは何かを深く考察し、事実をつなぎ合わせることで新たな意味を生み出...

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 2020年に発行された、沢木耕太郎の4冊の対談集の4冊目。作家との対談を収めている。対談相手としては、柳田邦夫・後藤正治・梯久美子といったノンフィクションの作家とのものが多い。
    ここに収められている対談を読むと、沢木耕太郎が、また、対談相手の作家たちが、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、モノを書くということがどういうことかについて、誠実に深く考えながら作品をつくっているのだということがよく分かって、好感を持った、というよりも、感銘を受けた。それは例えば、そもそもノンフィクションとは何?という問いから始まって、ノンフィクションを書くとした場合でも、その方法論はどうするのか、というようなことを一作一作ごとに作家が真剣に考えながら書いているということである。この対談に登場する作家の何人かの作品はたくさん読んでいるが、そういった真剣さに思い及ばず、物語としての面白さに惹かれて読み飛ばしていたような気がする。
    本書の副題は「星をつなぐために」である。
    星座というのは、空に浮かぶ星と星を線でつないで何らかの形をつくることにより出来ている。当たり前だけれども、もともと、「おうし座」とか「うお座」とかというものは自然には存在しない。人間が星と星をつないで、意味を与えたので初めて存在するものである。沢木耕太郎は、ノンフィクションとはそれに似ていると語っている。事実の1つ1つが星だとすれば、それをつないでノンフィクション作家は意味を与えている。それがノンフィクション作品であるということを語っている。なるほどな、と思う。

  • 沢木耕太郎の対談集セッションズの最終巻。今回はフィクションとノンフィクションに焦点を当て、9名の書き手との対談が収録されている。

    意外にも沢木さんは、ゲストの時だけでなくホスト役の時も、自分のことを多く語っている。瀬戸内寂聴さんとの対談の時だけは、さすがに寂聴さんに多くを持っていかれているように思う。それも楽しい。

    古い対談ばかりが収録されており、どこかで読んだような既読感がある。正直、前3作と同じく、長年の沢木ファン以外にはあまり響かないのではないか。まあ結局シリーズを買い揃えてしまったのだけど。

  • この前読んだ石井光太の『本を書く技術』で紹介されていたので、手を伸ばしてみた。

    〈沢木耕太郎セッションズ〉と銘打たれ、2020年に出た対談集成4冊のうちの1つ。本書は“対談の形式を借りたノンフィクション論”になっている。

    対談相手はノンフィクション作家(柳田邦男、猪瀬直樹、角幡唯介、後藤正治、梯久美子)か小説家(辻井喬、村山由佳、瀬戸内寂聴)、文芸評論家(篠田一士)であり、いずれも“ノンフィクションとは何か?”が主なテーマとなる。

    相手がノンフィクション作家の場合、もちろんノンフィクションの方法論をめぐって語らいが進む。小説家の場合、小説とノンフィクションの違いが対談の焦点となる。

    篠田一士(はじめ)のみが文芸評論家だが、これは彼がノンフィクション論集『ノンフィクションの言語』を上梓したタイミングで行われた対談なのである。

    対談集としては玉石混交で、1980年代の対談は内容が古すぎるうらみがある。それでも全体としては面白いし、沢木耕太郎ファンなら必読だろう。

    柳田邦男との対談は2つ収録されており、そのうちの2つ目《書くことが生きることになるとき》が、じつによい。
    柳田の『犠牲(サクリファイス)』を俎上に載せた対談で、かなり突っ込んだ内容になっている。

    また、後藤正治、梯久美子との対談も素晴らしい。それぞれ奥の深いノンフィクション論になっている。この3編は私にとっての「玉」だ。

    角幡唯介との対談もいいことを言っているのだが、俎上に載る「極地もの」「登山もの」のノンフィクションに私自身が興味ゼロなので、入り込めなかった。

  • 沢木 基本的な態度としては、大ざっぱにいうと、世の中に対して、というより人間や物事に対して肯定的な態度で取り組もうという姿勢を意識的に持っていらっしゃるんですか?
    柳田 いろんな人がいろんな生き方をしている。それを素直に認めていくという気持ちは強いです。たとえば新聞に悪の権化みたいに書かれた人でも、その人の人間像全体というのは何か違うんじゃないかとか、そういうことはよく感じますね。

    柳田 人の話を聞いてそのまま言葉にすると、それは話した人の心をそのまま字に移し替えたことになるかというと、必ずしもそうじゃないみたいなんです。
     大江健三郎さんが『ヒロシマ・ノート』を書いた時、被爆者のおばあさんのところにインタビューに行ったんです。詳細なインタビューをして、速記のように正確に書き起こして読んでもらった。すると、これは本当のことを書いていない。そのようじゃなかった、もっと悲惨だった、と言うんですって。さらにまた聞いて、もう一度読んでもらっても、いや違うとまた言う。
     人間の内面にあるものを聞き書きするのは、書くも難しい作業だといえる。まして夫婦間の愛憎とか葛藤と言うと、微妙な綾や細かい襞があってものすごく難しい。それをあえてノンフィクションで作品に取り込もうとしたそもそもの動機は何ですか?
    沢木 質問に対する答えになるかどうかわからないけど、僕自身のテーマで言うと、インタビュー論というものを書きたいとずっと思っているんですよ。
     日常生活の中で、お互いの発言が弁証法的に発展していくような会話というのは本当に少ないですよね。ほとんどが情報の伝達か独白の考察で、人間の会話というのは、大部分がインタビューで成り立っているとは思うんです。つまりインタビューというのは、人間の生活にとって本質的な要素をもっている。じゃ、そのインタビューとはどういう行為なのかを根源的に考えてみたくなったんです。

    柳田 インタビューされる側は初めからストーリーを持っているわけではなくて、インタビューされることによって初めて、大家にゃ記憶を整理する作業が始まるわけです。だから壇ヨソ子さんにとっては、人生の総括みたいな作業になったと思うんですよ。
    沢木 そうですね。話しながらきっと、いろいろなことを確認なさったでしょうし、『檀』を読んだ時も、ああそうだったのかと思ってるところもあるんじゃないでしょうか。
    柳田 そういうインタビューはカウンセリングに似ているんじゃないかと思うんです。カウンセリングは、カウンセラーが指示的にこうしなさいと言うんじゃなくて、受ける人が自分の中にある混沌としたものを自分で整理し、意味づける作業なんですね。そうしてハラにおさまるかたちで物語れるようになると精神の平衡を取り戻すんです。
    沢木 カウンセリングとまではいかないにしても、話を聴きながらある諒解点を求めていくと言う作業になったと思うんですね。
    柳田 ある雑誌で檀ヨソ子さんが、、一年間続いたインタビューが終わって本を手にした時は、自分の人生がすべて失われたような気になった、それまで胸の中に未整理ながらいろんなものを溜めてきて、これが自分の人生だというのがいっぱい詰まっていたのに、すっぽりなくなってしまった……と発言していましたね。
    沢木 そうなんですよ。満点の星空に星座を見つけることで心の平衡を保つという部分と、その一方で自分の中にこんなにいっぱいあったものはこんなに単純だったんだろうか、というふうに思う部分と、やっぱりあるんでしょうかね。
    柳田 おそらく壇ヨソ子さんが自分でこの本を書いたら、そういう喪失感はなかったかもしれない。それを作家が書いたために、熱気をもっていつまでもほとぼりが冷めず、愛憎両面あった混沌としてものが、夜空の星座のようにきれいに作られてしまった。そうするとね、原爆被害者のおばあさんが、いや、現実はそんなんじゃないって言ったように……。
    沢木 もっと違うものだと。
    柳田 第三者の作家が作って見せてくれたから、何かきれいにできすぎて、ああ私の人生ってあんなものだったのかという気持ちなのかな。でも、沢木さんが罪なことをしたって意味じゃないですよ。作家が誰かを描くということは、そういうふうにその人の人生を吸い取ってしまう作業なんじゃないかな。

    沢木 まさに自分の物語を自分が描くといったときに、いちばん問題になるのは、自己の内部を人目にさらす上での羞恥心をどう克服するかにほとんど尽きるのではないか、というぐらいの感じが僕にはあるんですね。
    辻井 よくわかりますね。
    沢木 辻井さんは、堤清二的な人物の物語を描く中で、家族の物語とか、お母様の物語を書いてこられましたね。
    辻井 ええ、書きましたね。
    沢木 その際、羞恥心の克服を経験によって徐々に学んでいったのか、それとも最初のときに、ある腹の括り方をしてストーンと行ってしまったのか、どんな感じですか。
    辻井 やっぱり自分のことですから、正確には言えないけれど、徐々にでしょうね。ですから、母が死んだときに書いたものぐらいから、克服する方法を覚えたという感じかなと思います。自分自身を外在的なものとして見れないとだめなんですよね。そうしないと、羞恥心がどうしても付きまといますからね。自分自身を外側のものとして見るというのは、多少時間がかかりますね。
    沢木 そこがフィクションとノンフィクションの分かれ目になるような気がします。ノンフィクションというのは結局、羞恥心を克服しないですむところまでしか行けないんじゃないでしょうか。たとえ、「私」を書くのであっても。
     ところが、フィクションにおいては羞恥心を克服しなければならないところまで行きたいという願望が書き手にあって、それをどう飼い慣らして処理するかということで、みんな悪戦苦闘しているんだろうと思うんですね。
    辻井 どうだろう、そこは。沢木さんね、ノンフィクションでも同じじゃないですか。
    沢木 どうでしょう。僕の持論では、小説家は悪人であることができるけど、ノンフィクションのライターは悪人であることができないんです、書いたものの上では。全員善人になってしまうんです。
     でも本当は、ものを書いていく以上、善人であり続けることは不可能に近い。ところが、ノンフィクションというジャンルでいうと、みんながみんな、あらゆる場合において善人になってしまう。
     ところが、小説家というのは、悪人であることができる。
    辻井 小説という意味ではみんな悪人ですよ。普遍的な価値観みたいなものがあれば悪人になれる。ですから、輪廻転生というような一種の普遍的な価値の意識があれば、紫式部は「源氏物語」が書けるんです。あるいは「浜松中納言物語」でもいいし、「平家物語」でもいい。「平家物語」の場合は一種の無常感でしょうかね。これは一つの仏教に裏付けられたもの、あるいはもっと原始的な仏教というのかな。イスラムなんかにもあります。
    沢木 ノンフィクションというジャンルも、悪について書くことはできると思うんです。悪については。だけど、書き手が悪そのものになることができない。ところが小説家は悪について書くことはできます。もちろん、そうじゃなくて、書いている書き手が悪そのものになることを許すという感じが小説にはあるんです。それは卑俗なレベルでモラルを破壊するかどうかという問題じゃなくて、本質的に、悪そのものになることができ得るものではないかという……僕は小説を書いていないので、幻想を持ちすぎているのかもしれないんですけど、でも、そういう部分があります。
    辻井 その問題は、ドストエフスキーとかトーマス・マンがずっと直面した問題意識ですね。つまり、小説家は時として悪そのものになれる。悪そのものになることによって、初めて悪を描き出すことができるというふうな、そのおぞましさ、しかしそれ以外に小説家というのはありようがない。
     例えば谷崎潤一郎という人はどれだけそれを意識したかわからないけど、しかし悪そのものみたいな……。
    沢木 そうなんです。谷崎潤一郎が悪だという、そういう感じの悪なんです。それが小説というものの最もすばらしいところだと思うんですけど、そこまで行くためには修練していくという局面が多々あったんでしょうね。まさに、羞恥心の克服といったような……。

    沢木 作品に精神的なものを露出しようと思ったときに、絶対的に存在する羞恥心というものを飼いならす方法を、すぐれた作家というのは身につけているよね。僕なんかは今、ポツポツと小説を書きながら、自分はそれができていないと思ったりするわけですよ。
     村山さんは、精神的なものの核にあるものを何らかの形で表に出すということがあったときに、その羞恥心というものを自分でうまく飼いならせていると思う?
    村山 それがですね。私にとっては、むしろそこを超えていきたい衝動の方が強くて、いかにそれを虚構にとどめておくかということのほうが難しいんですね。つまり、羞恥心をかなぐり捨てたがって暴走する自分をいかにコントロールするかという。暴走したままだと、私にとって切実なストーリーであっても小説では無くなってしまう気がするんですね。読者が入り込める余地のある普遍性のある物語として提示しようとするならば、そこは飼いならさなくちゃいけないなという意味で……。
    沢木 手綱を絞ったわけね、自分で。
    村山 羞恥心を解除するだけでは充分ではなくて、ここから先を書けば露悪になってしまうんではないとか、ここまで書かなければ人間を描いたことにはならないんじゃないかとか。その辺のすれすれを見きわめるのが非常に難しくて。『ダブル・ファンタジー』を書くときに一番自問自答したところでした。
    沢木 ものを創作するというときに、二つに分かれると思うんですね。それは純文学とか大衆文学とかいうレッテルとは全然関係なくて、いくところまでいくんだという覚悟を持つか、そうはなく、受け手にどのように提出できるか、そのことこそ重要なのだと考えるか、そのどちらかを選択していくのかという問題が出てくるじゃないですか。どちらも大事だ、という言い方もできるかもしれないけど、どっちを選択するかは創作する人の本質にかかわってくる。
    村山 そうでしょうね。そうだと思います。ただ私は非常に欲張りで、今までは、読者にどれだけのカタルシスをもたらすことができるかが、私のカタルシスだったんですね。
    沢木 なるほど。
    村山 その延長でいろんなものを書いてきて、でもある時からふっと目覚めるものがあって、私は黒村山と呼んでいますけれども、そういうものを丸出しにして書いたものが『ダブル・ファンタジー』でした。じゃ、『ダブル・ファンタジー』ビフォアとアフターがあって、きっぱり分かれてしまったのかというと、いや、両方いけるぞという気がするんです。その時々によって、どちらかの自分を中から引きずり出して書くと。

    沢木 僕は熱量という言葉で理解していることがあります。ノンフィクションは、対象の熱量が大きければ、書く人がわりと未熟でも、作品として成立することがありうる。たとえば、ものすごく有名な人だったり、大きな事件や出来事であれば、ちょっとくらい書き手が下手なことをやっても、対象の熱量の大きさでもってしまうということがある。

  • 沢木耕太郎をほとんど読んでないので評価できねえ。特に面白くはなかった。

  • 2021年8月5日読了

  • 有り F/サ/20 棚:26〜27

  • 【セッションのお相手】
    柳田邦男
    篠田一士
    猪瀬直樹
    辻井喬
    村山由佳
    瀬戸内寂聴
    角幡唯介
    後藤正治
    梯久美子

  • 読了 20200820

  • 20200810 セッションズの最終巻。結局、ノンフィクションとフィクションの定義について、おそらく作者の悩みと決断。のようなものを人との対談ではっきりさせたかったのではないかと思う。読む側からしたら面白ければ良いと言う事で済むがライターか面白さを追うとそこでフィクションになってしまうと言うジレンマなのだろう。結局、残るか残らないかなのだと思う。

  • <調>

    沢木耕太郎のセッションズその4.全部で4冊あるこのシリーズのうち図らずも既に3冊読んだので,本書も入手して読む.

    先の三冊は一冊ごとに見事につまらなくなる急坂をどんどんと滑り落ちて行った.したっけこの最後の第4巻がどうなるかはもう予めすっかり僕には分かっていたのだが...

    予定調和的に巻末の『「かく」ということは』と云う題目の本書刊行の為に沢木が近日に書いた「あとがき」みたいな文章から読む.面白い.沢木が自分で書いているのだから面白い.

    しかしその他の対談集は論外である.聴いたことしかももう随分昔の事を只々書き写しているだけなんだから.
    シリーズ完了してやれやれ良かった.まあ岩波書店から出ているのだから,商業的な成功は二の次で,記録書的なものに成れば良いのだろうなぁと思っておく事とした.

全11件中 1 - 11件を表示

この本が好きな人におすすめの本

著者プロフィール

1947年東京生まれ。横浜国立大学卒業。73年『若き実力者たち』で、ルポライターとしてデビュー。79年『テロルの決算』で「大宅壮一ノンフィクション賞」、82年『一瞬の夏』で「新田次郎文学賞」、85年『バーボン・ストリート』で「講談社エッセイ賞」を受賞する。86年から刊行する『深夜特急』3部作では、93年に「JTB紀行文学賞」を受賞する。2000年、初の書き下ろし長編小説『血の味』を刊行し、06年『凍』で「講談社ノンフィクション賞」、14年『キャパの十字架』で「司馬遼太郎賞」、23年『天路の旅人』で「読売文学賞」を受賞する。

沢木耕太郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×