歴史を哲学する (双書 哲学塾)

著者 : 野家啓一
  • 岩波書店 (2007年9月5日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (170ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000281522

作品紹介

過去はどのようにして知りうるのか。有限な人間は神であるかのように唯一の正しい歴史を語ることはできません。私たちは過去を想い起したり、その痕跡などから歴史に迫ろうとします。そのとき「歴史的事実」とされるものは何なのか。「客観的事実とは何か」について探究する科学哲学・分析哲学の知見いっぱいの刺激的な講義。

歴史を哲学する (双書 哲学塾)の感想・レビュー・書評

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  • ・11/6 ようやく読了.歴史とは、過去とは、事実とはと、いろいろと考えることはあるんだなぁと素直に感心してしまった.でもやっぱり何度も戻って読まないと良く分からないよなぁ.これを喋ることができるってのは、どうなんだろう.

  • 以下引用

    「史」とは祝祷のための器を「神に捧げて奉る形式の祭儀で、史祭をいう」とあり、さらに「史がのち史官、記録を司るものの意となるのは、もと史祭における祝詞などを保存し、その先例旧行によって伝統を保持し、記録するというその職掌を通じて、のちには文書・記録そのものを保管するものとなったのであろう」(字源による)

    中国最初の体系的歴史書である「史記」を書いた司馬遷が、そのような「史官」、つまり記録係の役職にあった

    歴史的出来事は、歴史記述に先行します。ある出来事が生起したからこそ、われわれはそれを後から記述することができるわけです

    歴史記述は目の前で起こっている知覚可能な出来事をリアルタイムで「記述」したり、「描写」したりすることとは、その性格を根本的に異なる

    歴史記述は、証拠や証言をもとにして歴史的出来事を、「復元」する作業にほかなりません

    歴史的出来事の存在は、歴史記述を離れては確認することができません

    歴史的出来事の存在論的先行性を端的に示しているのは、過去に起こった事柄の「痕跡」にほかなりません。具体的には、遺跡、遺物、文書、証言など歴史学で「史料」と呼ばれているのがそれに当たります。もちろん、これらの史料は過去の出来事の「痕跡」であって、歴史の出来事そのものではありません。

    歴史解釈とは、われわれが直面している現実的諸困難に対する応答である。

    歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、われわれは歴史に意味を与えることができる

    歴史の意味もわれわれに委ねられている

    歴史的対象は、それらが想起される限りにおいてのみ、真の存在を示すのである

    文化の世界をもつために、我々はたえず歴史的想起によってこれを征服しなおさねばならない。しかし想起はただ再生の行為だけを意味するのではない。それは新しい知的総合ー構成的行為ーである

    根深い誤解がある。それは。想起を過去に起こった出来事の再現や、模写と考える誤解です

    昨日デパートで彼と会った、という想起命題の意味の中に昨日という日やデパートや彼の過去が実在しているのである。誤解を招く恐れがたっぷりあるが、過去とは言語的に制作されたものである

    記憶は収蔵庫であり、想起はそこからの蔵出し

    歴史家が歴史記述に用いる多様な資料、すなわち文書、発掘品、建造物、記念碑、絵画、伝承といったものはすべて、「外部化された記憶」とみなすことができる。むろん、外部化された記憶は、そのままでは「歴史的事実」とはなりえません。それは想起される必要があります。歴史的過去において、体験的過去の「想起」に相当する営みが「物語り行為」にほかなりません。つまり、記憶の収蔵庫に収められた史料は、物語り行為によって想起され、「歴史的事実」とすて現実化されるのです。比喩的に言えば、外部化された歴史はポテンシャルエネルギーであり、「物語り行為」はそれを運動エネルギーに変換する装置

    過去の実在は、歴史的過去を体験的過去に結び合わせ、それを知覚的現在に時間的に接続する「物語り」のネットワークの中でのみ試行的に構成される

    ベンヤミン/有名な人々の記憶よりも、無名の人々の記憶に敬意をはらうほうが難しい。歴史の構築は無名の人々の記憶に捧げられる

    歴史は言うまでもなく過去の出来事を叙述するものです。しかし過去の出来事を精密に描き出そうとするなら、それは骨董品をめでる愛好家と同じ。歴史家が、記憶に値する出来事を選択するとき、そこには過去への眼差しとともに、未来への期待の地平が潜在的にではあれ働いています。

    ありうるべきミライノ生活形式を構想する力こそは、歴史的記憶のもっている潜在力とでもいうべき

    歴史的身体

  • 本書のタイトル『歴史を哲学する』とは、何を表すのか…哲学を学んだことがない人にとっては、疑問符が飛び交います。それは、「歴史哲学」についてのことだ…と言っても、まだ???。その?を解き明かすのが本書の目的です。

    かくいう私も、哲学を学んだことがない人のうちのひとりなので、最初はうまく内容をつかめませんでした。特に本書における講義の第1日目(本書は、大学の講義をそのまま文章に起こしたような構成になっています。)、いきなりその核心に迫る講義内容で、「果たしてこんな理解(無理解)で、最後まで読み切れるのかな…」と不安になりました。それほど内容が分かりにくかったです。

    その第1日目の主題は、「言語論的転回」と「内在的実在論」という言葉に表れていますが、これは最後まで読んではじめて、その内容が理解できるようになると思うので、最初は理解できなくても大丈夫だと思います。

    次の第2日目の講義は、ぐっと砕けた感じになり、分かりやすい例が述べられているので、「歴史哲学」が何を言おうとしているのかが、分かりかけてきます。その後の講義は、その「歴史哲学」について、ひとつずつ丁寧に展開されていくので、それらをひとつひとつ読み進めていくと、最後には「歴史哲学」がどのようなことなのかが、分かってくると思います。

    そして、「歴史哲学」を知らずに「歴史」を語ることは、非常に危険なことなのだと感じます。でも、マスメディアなどでその「歴史」を語る人たちのうちどれだけの人が、この「歴史哲学」を知ったうえで語っているのかな…と疑問に思いました。「歴史」を語ることは、それほど大きな意味を持つことなのに、それに無理解なまま、安易に「歴史」を語っているのではないか…とちょっと不安に思いました。

  • 2013年127冊目

  • 2013年1月、論文の方法論を求めて1年半ぶりに再読。以前読んだときは目からウロコに思えた本書、および歴史哲学の分野が、再読してみてそうでもないように思えたのは残念。
    だが、以前の私の不勉強は割り引いても、今回、本書の内容をほとんどきれいに忘れ去ってしまっていたことから、この残念さは、内容を消化しきったがゆえの感動の希釈化が原因ではなさそうだ。平たく言えば、著者の善意は疑うつもりはないけれど、本書の内容がそれほど大したことない……、のかもしれない。
    歴史哲学(または科学哲学)の分野に進みたい、という人にはそれなりに参考文献がいるから一読の価値はあるだろうし、最終章(補講)の大森庄蔵に関する議論は概要としてでも有用だし、ベルクソンの引用も印象的だったが、それ以外の点では、…うーん、あんまりおすすめしないかな。

  • 良書。但し再読の必要あり。
    哲学塾のシリーズはわりとそうだな。

    講義録だからでしょうか。口語でもってテンポよく進むから進んじゃうのだけど、そういう場合って特に、大切なところも軽く読み飛ばしちゃうから危険ですね。

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