- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000284950
作品紹介・あらすじ
三世紀半ば以降,日本列島各地に驚くほど巨大な前方後円墳がいくつも生まれた.なぜこの時期,この形で造られたのか.考古学と歴史学がタッグを組み,最新の発掘成果から,長年問われ続けてきた古代の〈巨大な謎〉に挑む.
感想・レビュー・書評
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昨年5月の刊行。おそらく現代で、最高で最新の前方後円墳について書かれた本だと思う。残念だったのは、かなりの専門書であり、読者を選んでいること。前方後円墳体制の始まりを中心に読ませて貰った。
よって、下記のメモはいつも通り専門用語いっぱいなので、無視してくださってOKです。何故メモするのかというと、WEB上にすぐ検索できる形で保存していると、旅先や講演で参照する時に便利なんです。(←)で書いているのは、私の問題意識。いつか「質問したいこと」の候補や発見です。
因みに
「日本はいかにして統一されたか」
「そんなん決まってるだろ!大和政権が戦争をして勝ったからだ」
と思った貴方。
それは、無数の考古遺物によって否定されているのが、現代の理論的到達点です。松木武彦さんの所で、少しだけ言及しています。
「前方後円墳とは何か」和田晴吾
・前方後円墳の数は約4700基(帆立貝形墳500基含む)、前方後方墳は約500基。
・様々な形の弥生墳丘墓がつくられた(地域ごとの政治的なまとまり)が、「特定の地域を越えて広がったのが前方後円形と前方後方形の墳丘墓であった」
・弥生墳丘墓の変遷概念図(25p)を根拠にして、溝を渡る通路としての陸橋部が帆立貝形のように広がり、それがやがて儀礼の場として長大化した。円墳形の変遷も、奈良県橿原市瀬田遺跡によって空白期が埋まったとして「都出1979」の説が再確認できた。前方後円墳の形の起源は壺ではなかった。
←まるで「これで形の起源は説明できた」と主張している。私は大いに不満だ。周溝のある墳丘墓は、中国地方にはほとんどない。瀬戸内にある弥生末期の前方後円墳形墳丘墓は、既に帆立貝形だったり陸橋部が長かったりしていて、その変遷と合致しないからである。一挙にこの学者への信頼度が下がった。この本のキモともいえる部分がたった数行で処理されていること自体にも、不満を覚える。
・古墳時代の墳丘祭祀の復元については、参考になるところがある。しかしながら、最初期の祭祀について一言も言及がないのには不満がある。
(吉村武彦)
・大山古墳(仁徳天皇陵)の建設日数と金額の試算(大林組1985)
(1)建設用工具は鉄製および木製のスキ・モッコ(もち籠)・コロ(移動の時の下に入れる棒)
(2)労働者数はピーク時で最大2000人、牛馬は使用せず。最初と最後の頃は1日1000人程度
(3)作業時間は1日8時間、1か月に25日の労働。
(4)賃金をどう計算したのか、不明。
こういう前提条件で、以下の試算になった。
工期15年8か月(現代工法では2年6か月)
作業員数は述べ680万7千人(同、2万9千人)
総工費は797億円(同、20億円)
←これから考えると、全国第四位岡山県造山古墳も10年以上かけたのか?そのそばの作山古墳は途中止めになった。作りかけて10年以内に何が起きたのか?
←奴隷として極限まで働かせたのか?兵士の閑散期労働として活用したのか?公民の閑散期労働だったのか?はっきりしないが、後者の方がリアル。
←史上初の大規模墳丘墓である楯築の王の場合、死ぬ数年前(170年ごろ?)から準備する余裕はあったのか?ないとすると、死体は長いこと腐るまま木棺の中に置かれたままだったろう。大量の朱は、その為に必要だったし、小型の孤帯石はしばらく木棺の上に置く為に必要だったし、埋める際には焼いて砕いて土に混ぜたのも、科学的に必要だった。悪霊として蘇らぬように最大の用意をしたのだろう。孤帯石埋葬が他遺跡から出てこないのも、事前に墓を準備していなかった特殊事情によるものかもしれない。後は、それを真似て特殊器台が登場する。孤帯紋様の秘密とは、その辺りに無いか?←私の知る限り、こういう視点の研究書はないはず。
「古墳と政治秩序」下垣仁志
近藤義郎「前方後円墳の時代」の解説を書いた学者なので、悪く言いたか無いが、一般読者に判らせようという気がない。中身は重要なことを書いている気もするのだが、周りくどく書いている気もする。専門は「理論考古学」らしい。道理で。
・前方後円墳体制を支持する立場から、登場期よりも、400年の間に変化していった部分を分析することで政治体制を推測する。
「国の形成と戦い」松木武彦
松木さんは、生存する現代学者の中で最も信頼する方です。重箱の隅をつついたり、難しい言葉を難しく捏ねる学者が多い中で、最も全体像から世界を見ることができる稀有な考古学者だと思う。比較的文章も優しい。
・倭国乱とは(1)青銅器から墳丘墓という、列島社会の祭祀の全面的刷新(2)近畿の中心化の確立、という2つの歴史的帰結を導いた社会の大変動であった。
・青谷上寺地での109体の人骨大量遺棄事件は、2世紀。倭国乱か、その直前の時期。
・2世紀に長い行軍ができる大規模な戦闘組織や、それを支える兵站体制が整っていたと見るのは難しい。近畿の軍事的卓越も考えにくい。
・3世紀に入ると、特定勢力による軍事的卓越の痕跡を残さぬまま、受傷遺体や防御的居住がほとんど見られなくなるという考古学的事実は、魏志倭人伝の通り、2世紀後半の緊張や競り合いが、根本的な決着をつけられぬ矛盾を残したまま、相互の妥協と協調の中に抑え込まれたことを意味しよう。このことが、日本の社会統合の特性、とりわけ地方の組織化のあり方に重大な影響を持った。
←大いに支持する。考古学者からこのようにはっきり書いてくれるとホントに、私が作った仮説ではないにせよ、心強い。つまり、倭国は外国のような大戦争をすることなく統一されたのである。
・前方後円墳を首位とする古墳の築造、鏡の授受、銅鏃の授受は、別々の枠組みで行われていた。これが、この後どのように相互に構造化され、王権を形作るか。
・外国との緊張関係を利用して、大和政権は政権になった。つまり、圧倒的な武力で、列島統一を果たしたわけではない。
←明治維新も似ている。これが日本という国の伝統ならば、コロナ禍という「外圧」は、日本を変えるチャンスなのかもしれない。もっとも、東日本大震災でさえ変われなかった日本でもある。
文献学からみた古墳時代を吉村武彦が述べているが、省略する。
「加耶の情勢変動と倭」申敬澈
金海(キメ)の大成洞古墳群には、私は四回は行った。ここに展開される、金海と日本との比較分析は、まだ流動的だが、とても重要だ。残念ながら、弥生末期の土器と金海良洞里古墳群との比較はなかった。
「前方後円墳が語る古代の日韓関係」
韓国の前方後円墳については、面白い論点はあるが、省略する。
対談は羊頭狗肉に終わった。
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