文化の読み方/書き方 (岩波人文書セレクション)

制作 : 森泉 弘次 
  • 岩波書店
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レビュー : 2
  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000285575

作品紹介・あらすじ

『ヌガラ』や『ローカル・ノレッジ』で知られる文化人類学者クリフォード・ギアーツが一九八八年に出版した本書で向けられる主たる関心は、「人類学者はどのように書くか」という問題である。そこで主要な人類学者たち、レヴィ=ストロースやエヴァンズ=プリチャード、マリノフスキー、ルース・ベネディクトらの民族誌のテキストを読み解き、観察する側と観察される側の関係性の中で露わになる独善性や作為性をえぐりだしながら、いま人類学者が民族誌を書くことの意義を根本的に問い直してゆく。

感想・レビュー・書評

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  • 原題:Works and Lives: the Anthropologist as Author(1988)
    著者:Clifford James Geertz(1926-2006)
    訳者:森泉弘次(1934-)

    【感想など】
     絶版だが、大阪市内のジュンク堂で幸運にも見つける。
     四つの民族誌へのラディカルな考察。本書の文章は晦渋とまではいかないが、テーマの重さを差し引いても読むのに体力を使う。原著も同様。
     最初の和訳は1996.9。原題は直訳だと『著作と生涯』だから、やはり邦題の方がスッキリしている。

    【抜き書き】
    □264頁。「訳者あとがき」から。

    “このテクストという用語[ターム]は必然的に〔……〕解釈学的人類学がめざしているものの標識としてギルバート・ライルから借用して用いた「濃密な記述」(thick description)という用語[ターム]を想い出させる。この語は通常「厚い記述」と訳されているが、〔……〕むしろ「濃密な」という訳語を提案したい。”


    【版元】
    フィールドワークをふまえて民族誌を著わそうとする人類学者たちにとって,「書く」行為とは何か.彼らは世界各地の民族・文化とどうかかわり,それをどのように記述してきたか.「劇場国家」論などで知られる著者が,レヴィ=ストロース,マリノフスキー,ルース・ベネディクトらの主要著作を批判的に検討しながら,文化人類学の本質と課題を明らかにする.
    https://www.iwanami.co.jp/book/b258639.html


    【目次】
    はじめに(ニュージャージー州プリンストン大学高等研究所にて、一九八七年二月 クリフォード・ギアーツ) [vii-ix]
    目次 [xi-xiii]

    第一章 あちら側にいるということ――人類学と執筆の場面 001
    第二章 テクストに内在する世界――『悲しき熱帯』の読み方 035
    第三章 スライド写真技法――エバンズ=プリチャードによるアフリカ文化の透かし絵 069
    第四章 目撃者としてのわたし――マリノフスキーの子どもたち 103
    第五章 われわれ対われわれでない人びと――ベネディクトの旅 145
    第六章 こちら側にいるということ――ともあれそれは誰の生活か 185

    原注 [213-226]
    訳注 [227-260]
    訳者あとがき(森泉記) [261-277]
      ギアーツの思想への案内として
      本書への道案内として
    岩波人文書セレクション(二〇一二年八月 森泉弘次) [279-284]




    【抜き書き】
    ・「第五章 われわれ対われわれでない人びと――ベネディクトの旅」の後半部から。
    ・ルビは全角括弧にしめした。

     しかしながら、「彼ら」が奇妙に思える例から逆に「われわれ」のほうが奇妙に思える例へと移動していくこの短い一連の引用だけからでも推察できるように、このように相異なる二文化のあいだを強引に通過していく間に不協和音的歪みが現われてくる。著者一流の大作戦を本来の筋道から少々ずれさせてしまう意外な逸脱が現われてくる。運航不能となった軍艦を救出した米艦隊司令長官の功に報いるに勲章をもってすれば十分という考えを信じられない日本人から、日本人は自害のうちに自己実現を見出しうるという事実を容易に信じられぬアメリカ人に至る道筋を著者が辿るうちに、なぜか読者の目に日本は常軌を逸した気ままな民族というイメージをますます希薄にしていき、他方なぜかアメリカは同じイメージを濃くしていく。これは否定しがたい事実である。日本人の「行動におかしいところがある」というのは実は真っ赤な嘘で、おかしいのは事実を逆立ちさせて見ている連中のほうなのだ。書物のはじめのほうではわれわれが戦った相手の中でもっとも異質な姿で現われた敵が、おわりのほうにくると、われわれが打ち勝った敵の中でもっとも筋の通った生き方をしている国民となっている。日本の新聞は敗戦を「日本の究極的な救済に全面的に貢献するもの」と宣言した。日本の政治家はマッカーサーの核の傘の下で祖国をめでたく治めた。そして天皇は、現神[あきつかみ]たることを否認すべしという占領軍総司令官の勧告に促されて、自分は実際には神とみなされてなどいないが、外国人はそう思っているようだし、国のイメージのためにも神格を否定したほうがよかろうと思うのでそうするのだと愚痴をこぼした。
     アジア人のほうがこのように倒錯的な考え方から実用主義的な考え方へ、アメリカ人のほうは理性的な考え方から偏狭な地方人的思考へと奇妙にも移行していき、太平洋のまん中へんのどこかで硬直性と柔軟性とがいれ替わる過程、これが『菊と刀』が語る真の物語である。もっとも、ここでも、この物語が語られるのは、きちんと筋立てのできた物語としてよりはむしろ実例の列挙によるお説教という形式においてである。東洋の神秘を解きほぐそうとするおなじみの試みとしてスタートしたものが、最後には西洋の明晰さが不完全なものとして脱構築されてしまう ――しかも余りにも完璧に――のである『文化の型』におけると同様、われわれが最後の頁に来ていぶかしく思わざるをえないのは、ほかならぬわれわれ自身のことなのである。西欧文化の確実性はいったい依拠しているのか。それがわれわれ自身のものであるという事実を除けば、たいした確実性が残されているわけではなさそうだ。

     そういうわけでまたもや、そしてこんどはもっと力強く、というのもベネディクトは前著よりもっと自信に満ちて(『文化の型』では彼女が訴訟事件で被告を弁護する弁護士のような筆致で書いているとすれば、『菊と刀』では被告に判決を下す裁判官のような筆致で書いている)アメリカの例外者至上主義を、それに対してことさら人目を引く異様な他者の例外性――アメリカのよりもっと例外的な――を突きつけることによって、解体してみせる。だがここでもまた、それこそ彼女が事実やっていることであり、やっているつもりのことであり、そして最終的にかなり立派にやり遂げたことであるという事実がぼかされている。しかも、しばしばまったく見えなくなるほど徹底的にぼかされている。そしてここでも厄介な事態――すなわち彼女の仕事が彼女をとりぼく知的環境に誤った取り入れ方をされていること――を引き起こしている元凶は、彼女自身の著作の最良の誤読者であるベネディクト本人があいもかわらず奨励している、同じ解釈上の踏み越しである。

     真珠湾攻撃パターン死の行進、ガダルカナル、および憎悪を舌足らずにわめき散らす近視眼的サディストたちが大勢出てくる無数のハリウッド映画から二、三年たったのちに彼女が書いた日本人論、思えばなんという並々ならぬ勇気であろう。このベネディクトの勇気についてはこれまで少なくともときおり論壇で注目されることはあったが、どういう道をとるのが時代を前進させるのか、どういう方向が時代を向上(危険を冒すほどに向上)させるのかという問題に関するアメリカ人読者の既成観念に彼女のこの著作が及ぼした破壊的影響については、まだ注目されていない。文化人類学の研究論文を読むさい求めてはいけないものについてまだ教えられていない大学生は、この書物の鋭い風刺性を感じ、戸惑うこともあるが、にもかかわらず、この著作に関する一般的概念はせいぜい、それが日本人の扱い方を教える心理学および政治学の教科書であって、その考え方は少々突飛で、実証的裏づけは少々弱く、道徳的には少々曖昧さを残しているという評価でしかない。この書物がこれまで書かれたもっとも辛辣な民族誌の一つであることはまちがいないし――「〔日本人が〕自殺事件を大きくとりあげるのは、アメリカ人が犯罪事件を大きくとりあげるのと変わらない。日本人はわれわれと同様、他人が自分に代わって大それたことをしでかしてくれたかのように楽しんでいるのだ」――これまで書かれたもっとも苛烈な揶揄的著作であることも確かである(「〔日本人の道徳的義務感は〕彼自身につきまとって離れぬ自分の影のようなもので、たとえて言えば、ニューヨーク州の農民が借金の抵当[かた]にはいっている土地について絶えず思い悩むように、あるいはウォール街の投資家が安値で売り急いだ株価が値上がりする数字を見て絶えず後悔しているように、絶えずその影におびえているのだ」)。それにもかかわらず、この書物は一つの学問領域とそれを専攻するのに必要な感受性を訓練するための小テキスト、人間やってやれないことはない、という楽天的人生観の手引きとみられているに過ぎないのだ。
     以上がまさしく、この書物が書かれた思想的および政治的脈絡(書かれたのが戦時下および終戦直後であったがゆえに、思想的-政治的脈絡と言ってもよい)である。己れの著作を単なる文学的作品のレベルから学問的著作のレベルにまで高めるのに必要であるとベネディクトが思ったもの、それはもはや自然発生的実験室、「元素的諸形式」(formes élémentaires)、あるいは人類学が「寄与」しなければならないものを端的に示す「甲虫を観察してごらん」式のイメージではなかった。それどころか、「国民性」、「政策学」、および「距離を置いて異文化を観察すること」であった。そして彼女の周囲に集まった人びとは、彼女のいるところどこにでも顔を出す弟子のマーガレット・ミードだけではなかった。ミード自身、もっと大規模なカンバスと、もっと戦略的な目標に向かっていた。心理学専攻の戦士、宣伝活動の分析家、諜報の専門家、計画策定者からなる組織的集団が、ベネディクトのまわりに結集していた。いわば軍服をまとった学者集団である。
     アメリカの社会科学におけるこの特別な時期の物語(それはまさしく一つの時期であった。なぜなら一九五○年代の末期に至ると、そうした動向は、とてつもない大きな成果を約束しながら期待外れの結果しか出せなかったために息の根を止められ、終わりを告げたからである)について冷徹な分析的手法で書かれるのは、今後の課題である。これまで書かれているのは逸話、過大な讚辞、老練な学者の回想に過ぎない。だがベネディクトは、そうした類いの文体、目的、気立て、彼女なら気質とでも呼びそうなものが、余り得意ではない。ここでも、彼女が自分の主題について語っているとき言っていることと、なぜ主題について語っているのかその理由について語っているとき実際に言っていることとが、うまく噛み合わないのである。

  • 人類学者たちが民族誌をどのように書くか、その意義を問う本ということで読みました。著者がレヴィ・ストロース、エヴァンス・プリッチャード、マリノフスキー、ルース・ベネディクトらを批評している。比較人類学ともいうべき本で、私にとっては理解しづらい難解な本でした。唯一ベネディクトが「眠りは・・日本人の最も完成された特技の1つ。彼らは西洋人が一睡すらできぬひどい状況の下でも完全に寛いで眠る。これが日本人を研究テーマとする学者たちを驚嘆させてきた」との言葉は面白かったです。人類学は二流の学問と著者が言い切る明快さは驚き。後書きに次の言葉が「幅広くて鋭い問題意識と、人間存在、とりわけ近代西欧文明に属する人々とその影響下に生きている諸民族が置かれている未曾有の危機的状況への透徹した人類学的洞察」

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