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Amazon.co.jp ・本 (200ページ) / ISBN・EAN: 9784000287302
みんなの感想まとめ
他者との関係や自然とのつながりを通じて、「いのち」の本質が探求される作品です。個人主義が進む現代において、いのちは単なる個のものではなく、共同体や環境との関わりの中で理解されるべきだと説かれています。...
感想・レビュー・書評
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関係、繋がりの中のいのち
おのずから生きる -
(「はじめに」の部分で印象に残った箇所)
他者との関係を意識することの中に、私の「いのち」は存在している。また、人によってはその人が持っている信仰が、つまり、その信仰との関係が死の人の「いのち」を存在させることになったかもしれない。自然との関係や思い描く他者との関係、ときに神や仏との関係がその人の「いのち」を支え、「いのち」を与えたのである。「いのち」は自然や神仏を含む他者との関係の中に存在していた。
上野村に暮らす人々は、自分たちの命が自然、その村の共同体、その村の生業、先祖、伝統との関係のなかで存在している。そこに暮らす人々はその共同体によって自分の命の置き所や生き方死生観を諒解する。その人たちにとっては、その場所と共同体の中で生きることが、絶対的に一番よく、満足できるところである。生きることの価値は、その共同体が教えていた。そして、ありふれた普通の一生を成し遂げることが重大であった。その共同体の生き方をまもってこそ、村の人々は生を納得し、死を諒解した。
シュティルナーやヴァイとリングがみていたものは、人間のいしきは思考は決して自由なものではないということだった。資本主義や共産主義などの様々な社会的な思想やそのそのとき思想の傾向に依拠して、物事をとらえている。しかし、自分では自分で自由にものを考えていると思っている。この錯覚が社会を支えている。
同じことが「いのち」に対しても言える。誰もが「いのち」とは何かをわかっていると思っているが、実際にはその時代、その社会が概念を提供し、その概念を受け入れているだけだったりする。
そして、生の意味、死の意味も論証できることではないし論理的に説明できることではないが、その共同体の中に居たり、共同体が教えてくれたりすることで、共同体の内部にいるとそう思えてくる、ということを超えないのである。これも信じるという行為のなかで生きていることになる。
柳田國男によると、伝統社会では、生と死は親しい関係にあったと述べている。その親しさは、先祖=祖先を祀るという行為を通してくる。祀るからこそ、その祖先はこの世界に戻ってくる。ときに、子孫たちを見守っている。すなわち祀るという行為が生者の世界をつないでいる。
祀るという行為によって、死者ち生者をつないでいる。仏壇や神棚にお茶た食べ物を置いたり、声をかけたるすることも、祀る行為である。死者は消えてしまった人ではなく、関係の中に存在している。このような習慣が今も続いているということの中に、伝統社会から受け継いできたものが、今も精神の古層にも凝っていることが示されている。
つながりを成立させているものが、祀るという行為である、それは共同体が定着させた。人々の思い、願い、祈りが生み出したものである。いわば願いをとして人々は生者の世界と死者の世界を親しいものにしてきた。
「おのずから」の世界
ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」
人間の命は誰かや何かに管理できるくらいに軽いものとして人間を扱う社会がある。 -
簡単な言葉で書かれているし、それほど分厚い本ではないのに、読み進みません。
内山さんの言いたいことを本当には分かってないんだろうなという気がしました。 -
「いのち」「死」「生き方」を共同体から説く。近代以降になると自分を包む世界がなくなり「裸の個人」になり、家族しか自分をつつむものがない。そこで家族が壊れると本当の「裸の個人」になる。それは自然・祖先・仲間との「時空」のつながりのあった日本の魚山村の共同体と対極の世界である。共同体では、自分は自然と祖先と仲間に包まれており、安心して死を迎えることができる。▼「いのち」を現代は個的なものとしてとらえている。しかし「いのち」は関りとの関係の中で、「場」のなかで了解されてゆくものだ、と説く。▼考えさせてくれる本だが、自由・平等・博愛が昔に比べて身近なものになった現代の側面も評価するべきだと思った。
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784000287302 -
キリスト教は個人を基盤にするという性格を内蔵していた。それは前身にあるユダヤ教が流浪の民であったユダヤ民族として生きる個人の救済を目的にした宗教、ユダヤ人として生きる個人に祝福をもたらす宗教だったことからきている。ユダヤ人ではなくてもユダヤ教を信じれば天国にいけるとしたことで、ユダヤ人の宗教を民族、人種を超えた普遍的な宗教に替えたことにあったのだが、流浪sるう個人の救済が原点にあったことは確かだった。
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