重力との対話――記憶の海辺から山海塾の舞踏へ

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 4
  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000610308

作品紹介・あらすじ

国際的な活躍を続ける舞踏カンパニー・山海塾を率いる著者が、自らの生い立ちから舞踏家に至り海外公演を展開するまでの道のり、さらには創作活動や作品に込めた想いを縦横に語る。踊ることとは何か、生死・時間・身体とは何かという、普遍性を湛えた人間の内的本質に迫る、待望の日本初エッセイ。いままで歩いてきた道、そしてこれからも歩き続ける道を見つめつつ己の中で繰り返す、その果てなき問答とは-。

感想・レビュー・書評

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  • 山海塾は、日本国外での評価が高く、世界のコンテンポラリーダンスの最高峰である パリ市立劇場 (Theatre de la Ville, Paris) を拠点として、およそ2年に一度のペースで新しい作品を発表し続けている。1980年に日本国外での公演を開始して以来、世界43ヶ国のべ700都市以上で公演を行っている。(Wikipedia)
    出口治明さんのお薦めで読んでみました。
    一度、生の舞台を見たいと思ったし
    なにより天児牛大さんの文章は非常に面白かったです。
    一部メモ。

    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

    ダンスという言葉は辞書によると、フランス語ではdanse、古代ドイツ語ではdansonとなり、これらの意味は伸ばす、引っ張る、引きずるということである。
    そしてほとんどの国の言葉がこれらの表記にちかい単語なのであり、共通している部分はanである。
    語源としてはサンスクリット語のタンtanという言葉。
    ギリシャ語ではティネインteinein、ラテン語ではテネオteneoということでやはりそれらも引っ張る、緊張するという意味である。
    緊張(テンション)ということがダンスの表現と非常に関わりをもっている。
    確かにあらゆる民族舞踊、クラシック・バレエ、モダン・ダンスにしても身体的なテンションによって表現されている。
    ただし、ダンスであれ日常生活であれ、テンションだけでは腕一つとっても動かず、伸ばしたままの腕を動かすには力を緩めなければならない。
    緩めることで再び伸ばすことが可能になる。
    指、手首、肘、と末端部分からの力を緩めていくと、腕は肩から吊られた状態になる。
    この力を緩めた腕の状態のままだと肩から吊られたままで、他動的(意思によらない)で自動的(意思による)な動きとはならず、動かすためにはテンションが必要となる。

    動は常にテンションとリラクゼーションを行き来することで成立している。
    ダンスという言葉はテンションと同義であるが、私にとっては常にテンションとリラクゼーションの両方が気になる。
    身体を基とした動であるがゆえに。

    ダンスから身体それだけを見た場合はダンスの未発生、あるいは未成立の状態といえるのかもしれないが、身体はとりもなおさずダンスを支える基である。

    ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

    「ダンスは伸ばすこと」というのが、私にとってすごいツボでした。
    マイブーム。

  • 昔、山海塾を知ったときは白塗りとスキンヘッドの姿は「怖い」「気味悪い」という印象でした。

    山海塾の主催者である天児牛大さんが野口体操の影響を受けていたというのは新鮮な驚きだった。

    そして山海塾って古いイメージがあったけど今なお活動中というのも初めて知った。

    身体と重力の話など、興味深かったです。

    今の視点で山海塾を見てみると案外面白いかも。

  • 著者の天児(あまがつ)は、自らのある発見のことを殊更に大仰に、
    「生卵は立つということを知らされたのは1969年のことであった」
    と書いている。

    まるでアイザック・ニュートンが樹から林檎が落ちるのを見て万有引力の法則を発見したのと同じ位の世紀の大発見であるかのような書きぶりだが、天児がその発見を契機として思索を深めた結果捉えた自己と地球との接点から宇宙へも拡り得る存在認識の境地は、まさに世紀の発見に匹敵する深さと広さを持っていると、本書を読了した私は深く納得する。

    本書のタイトルの通り、天児が舞踏を通じて「重力との対話」を追求し続けてきた思索と身体をつかった実践との軌跡が読むことでひしと伝わってくる。
    「生卵は・・・」の一文は、「やさしく・ていねい」と題され一編の書きだしの一行なのだが、その編の中で、生卵にはたった一本だけ目には見えない重心線があり、その一本が地球の中心に向かう重力線と完全に重なり合った瞬間にだけ、危ういバランスの中で立つのだ、ということを著者なりの表現で述べている。そうしてそれが、足裏の一点の接点で地面に触れて立つ人間の起立とも全く同一の原理であることを説く。

    私は天児の主宰する山海塾の舞踏を実際に観たことはない。それは私以外の多くの日本人も同じだろう。山海塾は日本よりも海外で注目され高く評価され、2年に一度のペースで上演されるパリ市立劇場での公演も常にチケットは即日どころか瞬時完売という状態だという。ただ、もうかれこ二十年近く前、TVCMに何秒間かだけ登場した彼らの白塗りの身体の、なんとも言葉では表現できない突き抜けた存在感のある動きは、印象が鮮明すぎて忘れることができない。その忘れることのできない「突き抜け」感は、天児が到達した存在認識の境地の産物であることも、やはり本書を読めば納得させられる。
    例えば、「やさしさ」と「ていねいさ」とを表現するののに、さっきの極めて危ういバランスの中で「立った生卵」が載った台を目の前にして、人はどんな後ずさりの仕方、目の遣り方をするかを想像してみなさい、と天児は説く。言われたといりにそおっと歩き、わずかな振動も見逃すまいと卵を凝視する自らの目線を想像したとき、読む者は、ああこれこそが「やさしい」目線、「ていねい」な身のこなしだと心底得心する。

    私は、ブラット・ピット主演の映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のワンシーンを思い出した。平穏で静謐な安寧の中にあったチベットに中国人民解放軍が進駐してきた瞬間の意味を極めて象徴的に描いた場面だった。
    人民解放軍が間近に迫ったとき、善良すぎるチベットの僧や民は、彼等を友好的に歓迎しようと準備する。
    地面に歓迎の意味の砂絵を描く。繊細で綺麗で、まさしく「やさしく」「ていねい」に描かれた地面の砂絵は旧来のチベットの文化と習俗の人情の機微も善良で、また他者の善良さをも無条件に信じる有り様の象徴だった。
    しかし、人民解放軍は矢庭に民に銃を突きつけながら進入し、足元の歓迎の砂絵など一顧だにしないで踏み散らした。中国の多民族支配と覇権主義の優しさや丁寧さとは対極にある本質を鋭く表現したシーンだった。
    ほんの一例、言うなれば「立った卵の原理」とでもいうべき天児の言葉についてだけここでは紹介したが、彼の幼年時代かの記憶から始まり、世界に通じる舞踏芸術家となった現在までの回顧は、宇宙や世界に通じる真理を重力との対話を通じて体得した者の、圧倒的に説得力のある言説で溢れている。

    外から流れ込んでくる浅薄な情報に翻弄されている今日の私たちにとって、自己の内面にあるはずの重心線、その接点で接する地球と、それを通じて宇宙へ繋がり得る真理を、内省自省させるかけがえのない名著であると思う。

  • 山海塾を主宰する天児牛大の自伝的なエッセイ(第I部,第III部)と、作品についての短い文章(第II部)からなる。
    正直あまり読み応えのある内容ではないが、山海塾にとって野口体操が非常に重要であることがよくわかる。
    山海塾の活動のドキュメントとしては、吉川洋一郎『オピネルと孔雀の日』(2008年、幻冬舎ルネッサンス)の方がはるかに面白い。

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