- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000610391
作品紹介・あらすじ
軍の命令か、医の倫理の逸脱か-。終戦直前の一九四五年春、名門大学医学部で行なわれたおぞましい「実験手術」により、米軍捕虜八人が殺された。当時、医学部第一外科の助教授であった鳥巣太郎は、この生体実験手術に抵抗し、四回あった手術のうち参加したのは最初の二回(正確には一回半)であった。しかし、戦後に行なわれた「横浜裁判」で、首謀者の一人として死刑判決を受けた。鳥巣は苦悩の末、死を受容する心境に達したが、鳥巣の妻・蕗子は様々な妨害をはねのけ、再審査を請求し、減刑を勝ち取った。本書は、鳥巣の姪である著者が、膨大な戦犯裁判記録のほか、知られざる再審査資料、親族の証言などを基に、語り得なかったその真実を明らかにするものである。
感想・レビュー・書評
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1945年5月から6月にかけて計4回、8人の米軍捕虜の生体実験を行った『九州大学生体解剖事件』で、一番の責任者として死刑宣告を受けた鳥巣太郎助教授が、再審査により減刑を勝ち取るまでの経緯を、鳥巣の姪である著者がまとめた記録。
本書の前に遠藤周作『海と毒薬』を読んでいたが、小説にはあまり描かれていなかったことがある。それは、生体で治療法を試してみたい、という医師としての研究心が関係者の中に少なからずあったということだ。
そのような考えは平常時には忌まわしいものとして切り捨てられるだろうが、戦時中、鬼畜米兵は人間にはあらず、という理屈がまかり通っている中で、医師の倫理が狂ってしまったのだといえるだろう。
本書の中心となる鳥巣太郎は、当時生体実験を行った医学部第一外科の助教授であった。
彼は手術直前に母が倒れたという報を受け故郷に戻っていたため、詳細を知らないまま生体実験に参加し、手術の最中に事実を知る。術後、次回以降の生体実験の中止を教授に進言するが、封建的な医学部組織の中で意見を聞き入れられることはなかった。
二回目の手術では部屋に入らず助教授室で煩悶していた鳥巣だったが、様子を確認しに行った際に手伝いを命じられ、消毒を行ってしまう。
三回目の手術時は、当時兼任していた専門部(専門学校)の会議を言い訳に参加を断り、四回目の手術では再び休暇を取り故郷に帰っていた。
生体実験に参加してしまったとはいえ、どうして鳥巣が一番の責任者として死刑を言い渡されることになったのか。それにはさまざまな要因がある。
まず、戦後隠ぺい工作を行った軍の首謀者に様子を聞くよう教授から伝令を頼まれたことが重要視されたこと。
事件の中心人物である小森軍医見習士官と第一外科の石山教授が裁判前に死んだため、誰かを責任者として罰する必要があったこと。
弁護士が個々の罪を軽くするより誰かをスケープゴートにして全員の罪を軽くする方針をとったため、鳥巣は自分に有利だが他の人の不利になる発言はしないよう言われたこと。
生体実験後捕虜の解剖を行った解剖学教室教授の罪を軽くするために、弟子たちが当時「専門部」教授(助教授相当)であった鳥巣の肩書から「専門部」を意図的に抜いたこと(これで、鳥巣の肩書は「医学部第一外科の『教授』」となる)。
死刑を言い渡された鳥巣はいったんそれを受け入れようとするが、妻の蕗子が奔走し、再審査を願い出る。本書の後半では、主に蕗子の活動を中心に描かれるが、子供を一人で育てながら生活費を稼ぐために教員として働き、助けてくれる人を探して手紙のやりとりと遠路の往復で再審査の手続きを進めた蕗子の熱意には脱帽せざるを得ない。これは、蕗子が女性としては高学歴であり、普段から鳥巣と対等に話し合える間柄であったこと、鳥巣の人柄を蕗子が信じていたから成し遂げられたのであったのだと思う。
再審査の結果、鳥巣は10年に減刑され、1954年に満期出所した後は福岡で外科医院を開業し、85歳で亡くなるまで一介の医師として生きた。
憲法の教科書を読んでいた著者に鳥巣が強い口調で言った言葉が胸に刺さる。
『以素子、憲法の解釈はただ一つだ。あの憲法を作った日の気持ちに立ち返って考えればすぐわかる』
『日本は永久に戦争を放棄したのだ』詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1945年5月、米軍のB29 55機は九州に爆撃に向かい、このうち2機が撃墜された。乗組員たちは、あるものは住民によってその場で殺され、あるものは怪我を負って後に命を落とし、あるものは捕虜となった。生き残ったのは11名。うち、1機の機長のみが情報を得るため東京に送られ、残りの捕虜の処遇は西部軍司令部に委ねられた。東京の捕虜収容所はすでに満員だったためである。軍司令部も処置に困ったが、当時の日本軍は裁判なしに捕虜を処刑することも多かった。したがって、この際の捕虜も処刑する方向だった。だが、経緯の詳細は不明だが、捕虜のうち8名は大学医学部で「生体解剖」されることになった。悪名高い九州大学生体解剖事件である。
そもそも誰がこの忌まわしい事件の首謀者だったのか、詳細は明らかでない。
事件の中心にいたものが、あるいは空襲で死亡し、あるいは裁判を前に自殺してしまったこともその一因である。生き残った者も、自分の罪を重くしないように、証言を歪めた場合もある。
本書の著者は、外科教室の助教授であった人物の姪にあたる。最近になって国立国会図書館に裁判資料が保存されていることを知り、この資料や他の証言などを元に、当時、何があったのかに迫ろうとしたのが本書である。
ことが明るみに出たのは終戦後の秋のことだった。事件に関する投書があったのである。BC級戦犯の逮捕が続く中、著者の伯父、鳥巣助教授も逮捕された。
主導したと思われる教授が自殺した後、鳥巣は、教室の準責任者として、事件の責任を問われた。GHQによる本件の裁判は合同裁判であり、これほどまでに人々の耳目を集めた事件では、スケープゴートとなるものが必要であった。つまり、誰も責任を取らないという結末では収まりがつかない。誰かが責を負えば、関与した他の者の罪を軽くできるという弁護側の方針もあった。
実際のところ、鳥巣の本件への関与は薄かった。
「実験手術」と称された生体解剖は計4回行われた。1回目はそれと知らず、教授に命じられて手術室に入った。軍関係者が同席する威圧的な雰囲気で行われたそれは、明らかに治療のためのものではなかっただが、当時の封建的な教室の空気の中では、教授命令は絶対だった。代用血液の効果などが調べられ、悪いところなどない臓器が切除された後、捕虜は絶命した。
帰宅した鳥巣は妻にこの話をする。妻は激しく反対した。もう捕虜の手術には参加しないよう夫に懇願した。2回目の手術があると知った鳥巣は、教授に止めるように進言したが、はねのけられた。参加を命じられたものの自室にこもり、手術が終わるのを待った。そろそろ終わる頃かと手術室を覗くと手術は続いており、やむなくごく補助的な役目を果たした。3回目・4回目は参加していない。
だが、教授が死亡してしまった以上、責任を負うとなれば鳥巣なのだった。
加えて、鳥巣には「本当に止められなかったのか」という負い目もあった。積極的に主導したのではなくても、やはり責任はあるという思いがあった。
一方、鳥巣の妻はあきらめなかった。時には、手術に関与した他の被告の家族から白い目で見られながらも、夫の減刑のために奔走した。
一度は死刑判決が出ながらも、妻の努力の甲斐もあり、鳥巣の刑は10年に減刑される。出所後、鳥巣は小さな外科医院を開き、開業医として患者のために尽くして一生を終える。
後年、鳥巣は、『生体解剖-九州大学医学部事件』を書いたノンフィクション作家の上坂冬子にインタビューを受ける。その際、命令に従うよりほかに仕方がなかったのではないかと問う上坂に、鳥巣は強く言ったという。
「それをいうてはいかんのです。」
「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。」
「ともかくどんな事情があろうと、仕方がなかったなどというてはいかんのです」
戦争がなければこの事件はなかっただろう。戦争の狂気の中で、突然突きつけられる異常な事態に、自分ならば確信をもって「否」と言えるのか。
ざらりと苦い事件の後味とともに、その問いが重く残る。 -
生体実験の事より、その後の裁判に奮走されたご家族の話が重点。
私達は他国の独裁政治を断じるくせに、まだ自国にくすぶっているフェアでない動きさえ自明に出来ないのか、と絶望。 -
戦時中のことを日頃語ることのない伯父さんが,発した
「日本は永久に戦争を放棄したのだ」
「軍人は決して責任を取らんものだ」
という言葉.
これを読んだ後,ドシンと,そしてストンと,入ってきます.
ぜひぜひこの時期のご一読を -
卑怯者にイライラした
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蕗子の心の内なのか筆者の感想なのかわからない部分がある。筆者は夫妻の姪であって作家ではないから仕方ない。
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/728172 -
戦争は全てを狂わす。その中でも良識をもった人は確実にいることも知った