誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬
- 岩波書店 (2015年12月11日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000610858
作品紹介・あらすじ
イギリス人作家が、なぜフランダース地方を舞台に悲しい物語を書いたのか。本国ベルギーでは、なぜ人々に受け入れられなかったのか。アメリカで作られた5本の映画は、なぜハッピーエンドに書き換えられたのか。日本にはどのように紹介され、1975年のテレビシリーズはなぜ大成功したのか。そして、悲しいストーリーの『フランダースの犬』が今も日本で愛され続けている理由とは。
感想・レビュー・書評
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ベルギー人が、フランダースの犬について研究した結果を書いた本。日本では、誰もが知っているフランダースの犬であるが、ベルギー人はその物語を知らない。なぜなら、本作品はイギリス人が英語で書いたもので、オランダ語やフランス語に翻訳されなかったからだ。ベルギー人のアイデンティティや価値観からも、ネロやパトラッシュの生き方は受け入れられず、今でも無視された存在になっている。アメリカでは、5回も映画化されているが、そのすべてがハッピーエンドに書き換えられているなど、各国での文化、価値観によって受け入れ方が違うなど、興味深い内容であった。研究は精緻で、説得力あるすばらしい内容であった。
「これが奇妙なところだが、フランダースでは、「フランダースの犬」はほとんど無名だからだ。ベルギーでウィーダ(作者)は課題図書の作家ではないし、ネロとパトラッシュも歴史の遺産とはみなされていない。そればかりか「フランダースの犬」が海の向こうで何年もかけてたどってきた印象的な足跡のことを、フランダース人はまったく知らない。本書の始まりは、この対比にある」pix
「社会集団に関する記述や画像・映像は、その描写の対象となる他者について何かを語るというよりも、むしろそれらの表現が生まれた政治的・社会的な文脈、さらには表現者の関心や意図を伝えていることが多いからだ。画像・映像が客観的な情報を伝達できるはずだという説は長らく疑問視されている」pxi
「ウィーダはベストセラー作家であり、半世紀もの間ヒット作品ランキングの上位常連だった」p16
「フランダースの犬については、作家の死から100年となる現在までにアメリカ映画が5本、日本のテレビアニメシリーズが2本と劇場版アニメ映画が1本作られている」p30
「奇妙なことに、フランダースの犬はフランダースで生まれたものではなく、フランダース人がそれを輸出しているわけでもない。そこはハリウッドと日本がやってくれている」p31
「(フランダースの犬の)映画作品は、ウィーダの原作と同じく、ほとんどの部分が1872年のフランダースにかかわりがないばかりか、今日のフランダースとはまったく無関係である」p32
「アメリカの実写映画5作品は、いずれも国内外で成功を収めたとは言いがたく、もちろんフランダースでは全く知られていない」p68
「(日本のテレビアニメ「フランダースの犬」は)まず何よりもアニメというジャンルにおける傑作である。熟練の技とノウハウを示す貴重な逸品だ。作画のスタイルがすばらしく、ユーモアも優れている。そのうえ、物語と登場人物に対する愛情が画面からほとばしっている。テンポは完璧で、自然と四季の移り変わりに合致している。物語の構成ははっきりしており、毎回見覚えのある場面がはさまれるのにもかかわらず、飽きさせない」p74
「フランダースがオランダのように見えるというのは、大勢のフランダース人にとって我慢ならないことだ」p75
「フランダースの犬をめぐる物語は産業化を経る前の貧しい時代が舞台となっている。フランダース人としては思い出したくない過去だ。さらに、フランダース人の目から見ると、これは貧しく、何よりも人生に失敗する少年の物語であり、自分たちが打ち出したいイメージとは違う。フランダースがエネルギッシュで経済的にも豊かな地域としてその地位を固めようとしているいま、惨めな物語などごめんだ」p181
「イギリス人女性によって書かれたフランダースの犬はわれわれのものではないし、ネロとパトラッシュはフランダース人とはみなされない」p182詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
原作の意図とは異なる解釈で、ラストシーンが描かれていたとは知らなかった。キリスト教的な、天に召されて救われるという事ではなかったとは・・・。文学は、異なる文化的背景により、解釈されていく。それはそれで、正しいあり方なのではないかと思う。
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フランダース地方、雪、ほとんど、降らない。
思わず片言になるくらいの衝撃。
えええーそれじゃあネロとパトラッシュは何であんな目に?!
その答えはここに。
その先、作者の生涯もなかなかに劇的。
しかしこの本、書いたのはフランダースの方なのだけど、小説と実際の環境だけでなく、アメリカの映画版、そして日本のアニメ版との比較もされている。
連続アニメについては、1話ごとに内容を書く熱の入れよう(日本のアニメ大好きな方らしく)。
実は私はあのラストシーンとオープニングくらいしか見たことがないのだけど、よくわかりましたありがとう。
フランダースでこの作品を観光に活かすかどうかという章は、なかなか考えさせられる。
観光したがる日本人は毎年大勢行くそうなのだけど、フランダースの人からすれば、過ぎた昔の貧しい暮らしを掘り起こされるなど迷惑だし、あちこちオランダと混同しているし、ていうかまずその作品知らないし!だそうで。
確かに、日本も今更サムライハラキリで何でか中国風の飾り付け、なんて映画を見たら叩きまくるだろう。
むしろ、アニメの幻想だけでそれを求めて観光に行くのがちょっと幼稚なのかも…いや、私も知らなかったら見たいと思うけど。
ところで、かなり強いこのタイトル、あまり内容に合っていない気が…。
最後の日本の方の解説には沿ってたけど。
この解説が私には一番面白かった。
ハッピーエンドに改変した翻訳もあったとは! -
フランダース出身の著者が、実際のフランダース地方と作品の中で描かれるフランダース地方の違いをひたすら指摘する内容。
原作と、アメリカ映画や日本のアニメのストーリー展開の違いにもかなりのページを割いている。
タイトルと内容が乖離しすぎていて残念でした。
誰がネロとパトラッシュを殺すのか。
わたしは大衆と読者だと思います。 -
自分の文化が海外からどの様に見られているかを目の当たりにすることは,心地よいことも心地悪いこともあって,外国の人からしたら「賞賛」の対象でも,自国民としては「それはちょっと…」って事は当然あって,「フランダースの犬」が,まさにフランダースの人々にとっては触れてほしくない,あるいは見て欲しくない姿なのだろうとは容易に想像がつく.日本人だっていつまでも「スシ,ゲイシャ,ハラキリ,サムライ」では,「そりゃちょっと…」となるだろう.
とはいえ,フランダース地方を訪れた経験からすると,アントワープは,大変友好的だったと言う印象しかなくて,日本で11年働いていたと言うウェイターに,日本語で見所を教えてもらい,ノートルダム大聖堂では,後ろから「日本の方ですか?」ときれいな日本語で話しかけられ,振り向けば青い目の金髪の青年が,日本語のパンフレットを手渡しながら「今日はオフィシャルな日本語ツアーがない日なんですが,私で良かったら案内します」と,ガイドを引き受けてくれたり,Dekonink目当てに入ったビアバーでは,周囲の皆さんから「日本から来たのかぁ!」と歓迎してもらい…フランダースの犬なんか無くても1000%楽しめたわけで,筆者が言うほど,日本人はアントワープに失望してないですよ,とは伝えておきたい. -
自分が日本文化の価値観の中で生きてて、でも外国は違ってて多様なんだよ、って言葉では軽く言っちゃうけど、実感できるレベルに具体的に落とし込んだら、例えばこれです、みたいな。
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フランダース人(ベルギーのフランダース地方に住む人々)によるドキュメンタリー映画の取材をもとに書かれた本。フランダース人の知らないフランダースのイメージがどのように作られたか、『フランダースの犬』をめぐる、イギリス、アメリカ、日本、ベルギー、それぞれの文化比較論ともなっていてとてもおもしろかったです。
たとえば、原作ではパトラッシュの元の飼い主は酔ったうえでケンカして死亡。アメリカ映画版ではパトラッシュをとりかえしにくるが、吠えるパトラッシュに驚き崖から転落して死亡と、勧善懲悪。
それが日本アニメ版では、おじいさんがパトラッシュを買い取ることを提案するが、残金が払えなかったため、パトラッシュを連れ去る。しかし、パトラッシュが紐を噛み切りネロのもとへ帰るのを見て犬をあきらめる、という白黒をつけない話に。
そのほか、いろいろびっくりする話がいっぱい。
・著者ウィーダは「センセーション・ノヴェル」と呼ばれる、おそらくハーレクイン的なロマンス小説のベストセラー作家だった!
・彼女は若くして財をなすが、ロンドンではホテルに住み、イタリアでは邸宅を借りるなど贅沢な暮らしをした結果、晩年は窮乏し、メイドの実家に身を寄せて暮らすことになり、イギリスの新聞がこれを取り上げたことで救援の手が差し伸べられるものの、1908年、肺炎で死亡。
・ウィーダの死亡記事を目にした日本人外交官が『フランダースの犬』英語版を日本に送り、翌年、日本語訳が出版される。
・日本のアニメ版では「原作 ルイズ・ド・ラ・ラメー」と表記されている。
・アメリカで制作された実写映画版はどれもハッピーエンド!
・ウィーダはもともとそれっぽい固有名詞やイメージをうまく使って作品をつくっており、フランダース地方を旅しているものの、風景描写などは1872年のものとしても正確ではない。
(これがのちにネロの住んでいた村はどこがモデルなのかという話になる。)
・フランダース地方では雪はめったに降らない!(クリスマスに雪が降ったら奇跡)
・日本のアニメ版監督黒田昌郎はアントワープをロケしているが、工業化されたフランダースには原作の面影はなく(もともとちょっと違うし)、原作を知らない現地の人が助けてくれることもなく、アントワープに近いオランダのイメージがアニメ版の風景となった。
(しかし、これはフランダース人には看過できない混同であった。)
・アニメ版の跳ね橋はゴッホが描いたフランスの橋がモチーフ。
・ご当地ベルギーでは日本人観光客によって原作の存在を知り、1985年になってオランダ語版が出版。しかし、彼らにとってそこに描かれたフランダースは受け入れがたい。
・ネロの村のモデルとしてホーボーケンが名乗りを上げ、ネロとパトラッシュの像を立てる。水車小屋の再建、散歩道の作成案があったが実現せず。
・ルーベンスの絵があるアントワープには記念碑が作られたが、車がぶつかった傷があり、修復されないまま。
現在、フランダースの地は、原作と日本のアニメが作り上げた、どこにも存在しないフランダースのイメージをそのまま受け入れることもできず、観光資源として活かすこともできず、日本人観光客は作品の現地での扱いに失望するという状態になっているようです。
以下、引用。
なぜ日本人はこの物語を好意的に受け止めるのかという問いは、そのまま日本の特異性を問うことにつながる。
ウィーダは、同時代に活躍した女性作家と同じく、読者の期待に応える架空の作家像を作り上げることに成功した。当時の女性作家は、メディアと読者層に向けて自ら発信するイメージについて、とりわけ慎重に対応しなければならなかった。読者や批評家は作家とその作品を同一視し、悪いうわさがたった作家の作品は読まれなくなった。したがって女性の作家としては、当時の理想像ーー清らかさ、美しさ、若さ、そして願わくは処女性を兼ね備えた女性ーーにあわせて自分のイメージを調整する必要があった。
ウィーダの作家像は、ほとんどすべてが作り話だった。例えば、ウィーダはフランスとイギリスの二重国籍を持っているふりをした。さらに、実の姓ラメを「ド・ラ・ラメー」と変えて、フランス貴族の血を引いているように装っていたが、これは重大な事実の歪曲だった。
ウィーダは「現代生活の憂鬱」と題する評論で、人間の醜さの改善策として、フランス人の妊婦が賢明にも芸術作品をじっくり鑑賞するためにルーヴル美術館に出かけたという例を挙げている。ウィーダは本気でーー当時の時代精神、すなわち新しい芸術至上主義にのっとってーー人は美しいものに囲まれているべきだと考えていた。
「どんな名前で呼ぼうと薔薇は薔薇だというが、本に登場する人物にとって名前はひじょうに重要だ。それに、心地よい響きの名前は世界にごまんとあり、ばかげた名前やひどい名前をつけることは許されるものではない」
本書で取り上げるハイブリッドな映画作品は、ウィーダの原作と同じく、ほとんどの部分が一八七二年のフランダースにかかわりがないばかりか、今日のフランダースとはまったく無関係である。
フランダース人がそれを快く思うか否かはともかく、フランダースとは「他者」が形づくるものでもあるからだ。
読者、あるいは映画の鑑賞者が、物語を自分の国ではなく、ほとんど知られていない「遠くの国」フランダースに設定したがるのは、ウィーダの物語の底流にある辛辣な社会批判のせいである、と。
これらアメリカの映画のなかで、本当の意味での貧困を表現したものは一作もない。『オリヴァー・ツイスト』の映画化作品と同じように、貧困とは、顔が汚れていたり、りんごを一個盗んだりすることにすぎないのだ。
このテレビシリーズで放送された数々の作品は、一九七九年以降「世界名作劇場」という総称で呼ばれるようになり、最近も新作が制作されている。おかしなことだが、ディズニーが支配する子ども向けマーケットに慣れている者からすると、これらの作品はむしろ、ごく限られた地域限定の無名の物語を並べたのではないかという印象である。
当時のカルピス社の社長は熱心なキリスト教信者で、シリーズを単なる娯楽ではなく、キリスト教とそれがよって立つ価値観を日本の若い世代に広める絶好の機会だと考えたのだった。
この作品は、全体としては日本の神道と欧米のキリスト教という二つの世界観が独特に混じり合ったものになっている。
フランダースがオランダのように見えるというのは、大勢のフランダース人にとって我慢ならないことだ。フランダース人をオランダ人と混同する、あるいはフランダースの風景をオランダのものだとみなすーーわずかな違いとはいえ、デリケートな問題であることははっきりしている。これはもしかすると、イギリス人をアイルランド人と、スペイン人をカタロニア人と、日本人を中国人と混同することに近いかもしれない。
ほかの芸術家たちは、多くが日本の道具を作品に描き込むだけにとどまったが、ゴッホはこの技法を理解し、それを自分の生活で実際に目にするものに応用しようとした。変わって現代では、ゴッホの絵に惹かれる日本人が多い。それは、欧米の風景や事物・人物を描いているにもかかわらず、紛れもなく日本の芸術精神を内包しているからだ。
オープニングテーマのオランダ語パートを歌ったのは、アントワープ郊外ピューアスの子ども合唱団だった。
童謡の作曲家ティティーネ・スヒャイヴァンスは、当時レコードもたくさん出していた。一九七四年に在ベルギー日本大使から連絡があった。何曲か歌を吹き込んでもらえないだろうかーーすぐに結成された合唱団のメンバーは、ティティーネの子どもとその友達・地元の乗馬学校の仲間だった。四曲の録音は小一時間で終わり、子どもたちの手間賃は日本の切手で支払われた。ラジオ経由で筆者らと連絡を取るまで、ティティーネも、大人になった団員たちも、ネロとパトラッシュについてはもちろん、自分たちの即興の歌声が日本でヒットしたことを知らずにいた。
ネロとパトラッシュの最期に流れる詩と曲がキリスト教の賛美歌『主よ御許に近づかん』のものであることは事実である。
この曲が選ばれた純粋な理由は、もちろんその詩にある(といっても、エピソードのなかではほとんど聞こえないのだが)。しかし、雰囲気がぴったりで、キリスト教の信者ではない者(日本人)にとってもヨーロッパ風に聞こえ、なおかつなじみのある曲だというのも確かだ。しかもこれは、一九一二年四月一四日に沈みゆくタイタニック号の中でウォレス・ハートリー率いる伝説の楽団が最後まで演奏した曲でもある。
グリーンゲイブルズに立ち寄ったある日本人女性は、石炭入れはどこかとスタッフに尋ねた。本に書いてあったのに見当たらないというのだった。
『フランダースの犬』の物語は、一方ではフランダース人を引きつけることができず、また他方では日本人が、フランダース人が抱く物語のイメージに失望を味わう。
このアニメで描かれるフランダースは、フランダース地方には存在しない。日本人の訪問者の頭の中にあるだけだ。フランダース人はそれゆえに、この日本人が抱くイメージを認めることができない。
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米国で映画化された際の話の結末や、フランダース地方における物語の受け入れられ度合いと、それによる日本人観光客が現地を訪れた際の状況など、それぞれの視点からの話があり、とても面白く、歯がゆさを表現した内容であった。