性食考

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000612074

作品紹介・あらすじ

「食べちゃいたいほど、可愛い。」このあられもない愛の言葉は、"内なる野生"の呼び声なのか。食べる/交わる/殺すことに埋もれた不可思議な繋がりとは何なのか。近代を超え、人間の深淵に向かい、いのちの根源との遭遇をめざす、しなやかにして大胆な知の試み。

感想・レビュー・書評

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  • ・あるいは、変身について。マックス・リューティーは『昔話の本質』のなかに、「人間はときどき動物に変えられる、それどころか自分から動物に変わる」と自然民族は信じている、と書いていた。昔話における重要なモチーフとしての変身をめぐって、西洋/日本のあいだには本質的な差異が見いだされてきた。「鶴女房」をはじめとして、「狐女房」「蛇女房」「鮭女房」など、日本の異類婚姻譚に普遍的に見られるのは、<異類→人間→異類>という変身である。変身する主体はつねに異類なのである。これにたいして、ヨーロッパの昔話では、変身する主体はつねに人間であり、「蛙の王さま」における変身は<人間→異類→人間>という方位をもつ。動物観として眺めれば、日本では鶴・狐・蛇などの動物が人智を超える不思議な力をもって、ときには人間に変身するのにたいして、ヨーロッパでは動物には霊的な力が認められていないから、人間に変身することは考えられない。そこではただ、人間がときに魔法によって動物に変身させられるだけのことだ(高橋亘勝「昔話の比較」)。

    ・山はアジールであり、死者たちの還ってゆく他界でもあった。

    ・小澤は、日本の昔話のもつおとぎ話性は「現実に近いところに成立している」という。魔法や愛情といっためくらましに身を預けることは許されず、異類との、野生との存在を賭けた厳しい戦いを真っすぐに引き受けるしかない。ヨーロッパの研究者たちの眼には、「日本の昔話は動物に対して残酷だ」と映るらしいが、その理由はこのあたりに潜在していると、小澤は考えている。

    ・このエスキモーの異類婚姻譚について、小澤は大変興味深い解釈を示している。そこでは、ほかのいかなる民族の場合よりも、人間と動物の関係が近い。これは異類婚ですらないのかもしれない。人間の娘とかにの結婚ではあるが、異類のあいだの結婚ではなく、同類としての人間とかにの結婚といったほうがいい。これはきっと、「人間をほとんど動物のひとつと考える思想」に支えられている。もはや、神としての動物でも、人間から拒まれる動物でもない。人間の同類としての動物である。エスキモーの古老がいうように、ここでは「生き物はみな人間の姿と形になることができる」のである。

    ・ここではない、どこか異世界へと境を越えてゆくためには、なんらかの通過儀礼が必要である。そこに食べ物をめぐるテーマがともなうことは多い。境を越える道行きは不安にとりまかれている。そこでの食もまた、思いがけず危険な行為である。なぜなら、食べることは「他者を自己に取り込む行為である」からだ。それはまた、自己が他者や、異質な集団や世界に取りこまれることでもある。

    ・清潔に整えられた社会に生きる、私たちから遠ざかりつつあるもの。肉体の存在感、手触り、におい、痛い、冷たい、寒い、暑い、食べる事、排泄すること、与えられた生の時間に対する敬虔な気持ち、喜び、規則的に鼓動する心臓の奇跡、そして言葉では捉えきれないたくさんの感情が、現代の九相図を見ているとあふれてくる。なんとあやうい容器に、私たちの命は入っているのだろう。

    ・さらに、消化とはなにか、排泄とはなにか。文化人類学的な問いの磁場のなかで、レヴィ=ストロースが意表を突くかたちで取りあげるのは、口や肛門の不在という負の状況である。不在こそが隠された真実をむき出しに顕わす。

    ・穴は確かに、身体の内/外にまたがる両義的な場所である。そこから分泌される唾液・鼻水・耳垢・糞尿・精液・経血などはいずれも、危険なタブーの対象とされることが多かった。そのなかで、くりかえすが、口と肛門とが食物の料理・摂取/消化・排泄というプロセスの起点と終点にあって、特別な役割を果たすのである。自然から文化へ/文化から自然へ、という対称性を確認しておくのもいい。この口という穴が昔話の中で演じる、もうひとつの特異な位相にはあらためて触れてみたい。

    ・それから、盛大なマロ舞踏が催される。ハイヌウェレは広場の中央に立って、踊り手の男たちにさまざまな宝物を与えるが、それが逆に、ハイヌウェレを不気味な存在へと追いやり、嫉妬を呼び覚ますことになる。男たちはハイヌウェレを殺すことに決める。マロ舞踏の第九夜、舞踏が螺旋状に旋回するなかで、男たちはハイヌウェレを広場に掘った深い穴へと追いつめ、ついに投げこんでしまう。けたたましいマロ唱歌が少女の叫び声を掻き消す。男たちは土をかぶせ、舞踏のステップを踏みながら穴のうえの土を固めてゆく。そうしてハイヌウェレは殺害されたのである。

    ・いわば、自然のモノを文化の側に引き寄せる料理という行為のなかに、タブーが潜んでいるのではなかったか。っそこには、避けがたく野生の獣や魚貝から命を奪うプロセスが含まれている。それが「汚いまね」の隠された本体であったかもしれない。むろん、尻が強調されていることと無縁ではありえない。オホゲツヒメが尻からうまいモノを取り出したように、ハイヌウェレが宝物を大便として排泄したように。ともあれ、男はスサノヲと同様に、料理それ自体を「穢汚して奉進る」行為として忌避したのである。しかし、女を殺すことはなかった。最後に、女は魚にもどって水中に姿を消し、あとには金銀の宝物の入った漆塗りの手箱が残されるのである。

    ・そして、マルノゲレがこの猪を生け捕りにするように依頼したにもかかわらず、人間は猪を屠殺する。そのために、すべての人間が死なねばならなくなった、という。死の起源譚である。それから、マルノゲレは女たちの生殖器を作ってやり、人間に生殖行為を教えた。月経は、マルノゲレが女の性器を殺された猪の血で手当てしたことに始まった、という。月経のときには、「女が月と交合する」とも語られている。

    ・おそらく、饗宴といった特異な場においてだけではなく、食べること/死ぬことは、ある根源的な連関を示すのではなかったか。たとえば、死ぬことは飲みこまれ、食べ尽くされることである、といった具合に。むろん日常的には、「食べることは生きること、生きることは食べること」という表層のテーゼが、ぼんやりと意識されているだけだ。しかし、その裏側にはきっと、死ぬとは飲みこまれ、食べ尽くされることだという、もうひとつのテーゼが張り付いているにちがいない。食べることは生きること、生きることは食べること、そして、死ぬことは食べ尽くされること、といってみる。

    ・こうして戦場の、ときには看取りの場でもあったはずの時空で語られた、性愛と死にまつわる昔話として読み解かれてみると、最上級の「鳥食い婆」の昔話は、なかなかに心惹かれるものだ。なぜ、年老いた婆たちは、わざわざ陰部や股の肉を切り取って料理したうえで、夫に提供するのか。
    あの、死ぬとは飲みこまれ、食べ尽くされることであるというテーゼは、ここにも生きているというべきだろう。食べ尽くされることにおいて、性愛は死とひとつになる。なにか、捨て身の、最後の性愛の企てのようにも感じられる。やはり、食べること/交わることは、ここでも秘められた隠微な交歓のドラマを取り結んでいたのではなかったか。

    ・食べるとはなにか、という問いにたいする、なんとも魅惑的な応答である。バフチーンによれば、人の肉体はみずからの内に完結することなく、世界に向けてかぎりなく開かれながら、その世界との相互依存性を生かされている。それを思えば、たとえば肉体の表層を覆った皮膚を、自己と世界とを分かち隔てる境界と見なす思考の、なんと皮相なものであることか。皮膚とはそもそも、多孔質の、つねに外なる世界によって浸透されている、呼吸する境界ではなかったか。

    ・食べるとは、破壊によって我がものにすることであり、それと同時に、或る種の存在で自分の口をふさぐことである。しかも、この存在は、温度と密度といわゆる風味との一つの綜合として与えられる。要するに、この綜合は、或る種の存在を意味している。われわれが食べるとき、われわれは、味わいによって、この存在の若干の性質を認識するだけにとどまるものではない。それらの性質を味わうことによって、われわれはそれらを我がものにするのである。味わいは同化作用である。歯は、噛みくだくという行為そのものによって、物体の密度を顕示し、これを食塊へと変ぜしめる。それゆえ、食物についての綜合的な直観は、それ自身において、同化作用的な破壊である。この直観は、私がいかなる存在を以て私の肉体を作ろうとしているかを、私に顕示してくれる。(略)食物の全体は、私が受けいれる存在、もしくは私が拒否する存在の、或る種のありかたを、私に提示する。

    ・いけばな、という。花を生ける、という。人はなぜ、死者に花を手向けるのか。はるかな昔のこと、ネアンデルタール人と呼ばれた旧人類も、死者に花を手向けたといわれている。枕辺から、たくさんの花粉が検出された。その血は性の交わりによって、われわれのなかにもわずかに流れ込んでいるらしい。東日本大震災のあとに、津波に流された村や町を、たくさんの花のある光景にゆき逢いながらたどった。家の跡に花を見かけると、車を降りて、ただ膝を折り、手を合わせた。花を供える、花を生けることの意味を問わずにはいられなかった。
    『Sacrifice』は、たとえば花を生けるという行為の根源に降り立った、稀有なる一篇の記録である。片桐はある時期、福島県の南相馬市に暮らしながら、警戒区域に囲いこまれた被災地のそこかしこを訪ね、野の花を生けてあるいた、という。そして、花のある情景を写真に収めることをくりかえしたのである。そんな写真の一枚に出会ったときの、鈍い衝撃を忘れることはない。

    ・『暴力と聖なるもの』のなかで、ジラールはくりかえし書いていた。たとえば、文化秩序の起源には、つねにだれか人間の死があり、その決定的な死は、その共同体に帰属するひとりの成員の死である、と。あるいは、共同体の構造には、すべてがそこから放射している中心点があり、いつだって集団的な統合の象徴的な場所となっているが、それはあの贖罪の生け贄が非業の死を遂げた場所を示している、と。桟敷において、贄棚において、生け贄に加えられた根源的な暴力の記憶はやがて、その場所への繋留をほどかれて、語り物や説経節や能や歌舞伎といった芸能のなかに受け継がれてゆくのかもしれない。

  • 民俗学者の赤坂氏による、食べること/交わること/殺すこと、をめぐる論考。世界中の民話や寓話、フロイト、レヴィ=ストロース、果ては現代のSFまで、広大な思想の海で食と性を考える。

  • 食べてしまいたいほど可愛い、古くからいろんな所で用いられている愛の表現に含まれるものは何だろうか?

    食べること、交わること、ころすことは密接不可分、
    人間の深淵に向かい、命の根源との遭遇を目指す、

    古事記、宮沢賢治、異類婚姻譚、食と性と暴力、肉食をめぐる問い、神話の世界の性、生け贄、愛の倒錯、

  • 食べる前の食べ物=他者

    食べる=同化、一体化

  • 昨年末のBRUTUSの読書特集で取り上げられていて気になった本。
    「食べちゃいたいほど、可愛い。」この言葉の意味は?
    最初は、食事に誘えば、その後もセットだぐらいの下世話な話かなと思ったけど、そうではない。食と性と排泄、そして生と死を巡る偉大なる考察。
    参考文献に、古事記や日本書紀に始まり、折口信夫、柳田国男、そしてグリム童話や宮沢賢治と種々の文献がずらっと並んだ読み応えのある比較文化論。
    口も奥が深いねぇ。

  • 脱線が多く所々読みづらい所もあったけれど、様々な国の民話の共通点が指摘されていて面白かった
    フロイトの説明にマッドマックス怒りのデスロードが使われているのには驚いたけど分かり易かった
    どこの国の風習や伝承は男視点のものが殆どという印象を受けた

  • 読み終わったというか、百ページほどで読むのを拒否。断固拒否。
    もともと連載だったのを一冊にまとめたらしいけれど……
    楽しみにしていただけに、単刀直入に、期待はずれだった。
    食べる/交わる/殺す
    野生の思考および子供の思考においてこの三者は曖昧に結びついている。それは、本書がわざわざ指摘するまでもない。
    著者は民俗学者だそうだが、上に挙げた暴力の三つの様相を順列組み合わせにし、途中、311の震災を挟みながら、それらにまつわる文献、エピソードを軽く、だらだらと紹介しているだけで、議論はなかなか深まっていかない。けっきょく、レヴィ=ストロースの著述の再確認だけではないか。
    それが特に露呈したのは、「たまたま」手元にあった絵本のあらすじを紹介しているくだり。片山健の絵本。美味しそうな少年の体を、森の動物たちがそっと舐めたり、甘噛みしたりする。この「たまたま」の偶然の出会いを、著者は無駄にしてはいないだろうか。チャンスを逃してはいないだろうか。本書一冊より片山健の薄い絵本がよほど豊かなものであることはまず明らかだ。
    そう、自分の不満のありかにいま気がついた。本書には誠実さが足りないのだ、「偏り」や「過剰」といった誠実さが。そして、いささかセンチメンタルでついていけないのだ。

  • 請求記号:380.4/Aka
    資料ID:50088150
    配架場所:図書館1階東館 め・く~る

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著者プロフィール

1953年、東京生まれ。専攻は民俗学・日本文化論。学習院大学教授。福島県立博物館館長。東京大学文学部卒業。2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞。
『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫)、『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』『東北学/もうひとつの東北』(いずれも講談社学術文庫)、『北のはやり歌』(筑摩選書)、『岡本太郎という思想』(講談社文庫)、『ゴジラとナウシカ』(イースト・プレス)、『司馬遼太郎 東北をゆく』(人文書院)、『性食考』(岩波書店)など著書多数。

「2018年 『日本という不思議の国へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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