性食考

  • 岩波書店 (2017年7月27日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (352ページ) / ISBN・EAN: 9784000612074

みんなの感想まとめ

食べること、交わること、そして殺すことの関係を民俗学の視点から深く考察した本であり、読者に新たな視点を提供します。様々な文献を引用しながら、食欲と性欲の交錯や、愛情が食欲に変わる理由についても探求して...

感想・レビュー・書評

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  • 食べる/交わる/殺すことの間にある関係について、民俗学の観点から考察している本。
    色々な文献を用いてそれらの関係に迫っていて、私にはそれが真理なのかは分からないけど、中にはへえーなるほどそういう捉え方ができるのか、と単純に面白く感じることもあった。
    特に童話や民話の考察が興味深い。
    昔話「猿婿入り」は猿に対してひどくない?と思っていたので、「野生との存在を賭けた厳しい戦い」との説明に、そういうことかと納得した。
    さらに、世界には色々とすごい神話があるものだ。ハイヌウェレ神話やそれに近い作物起源神話は、ちょっと衝撃だった。

    でも考察より何より、ヘレン・マクロイのSF小説「ところかわれば」がいちばん気になっている。
    火星人は食事に二種類の生物を必要とし、生殖は単体で行うという設定らしい。読んでみたい。

  • 東北学を生み出した赤坂憲雄の挑戦的な考察ーいのちの根源。
    なんと刺激の強い本だろう。これが、お堅い岩波書店から出ているので、襟を正して読まなければならない。「食べる。交わる。殺す。」の三角関係について、赤裸々に語られている。
    そして、総合的、俯瞰的なユニークないのちの根源の概説となっているのである。
    食べることは、交わることにつながる。食べることは、殺す行為によって成立する。
    交わることと殺すことは、カマキリのような人生だ。
    確かに、食べることは、交わることの同じ神経回路の中にあり、興奮するのだと思う。
    芥川龍之介が「ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします」と言ったという。「食べちゃいたいほど可愛い」って、私も言ってみたい気もするが、無理だよなぁ。
    「内なる野生の叫び声」としたら、体の中に別の生き物がいるに違いない。
    「異類婚姻譚」は、神話、童話、民話や昔話に当たって、縦横無尽の言葉狩りをして、一つのあり様を成立させる。「ぬいぐるみ」に、そんな深い意味があったとは、人間の持つ変身願望を表現する方法だったのだ。
    姫様が 泉にマリを落として困っていると、カエルがとってきてやるから、一緒にメシを食べ、ベットインしようぜという。そんなにマリが大切だったのだ。そして、とってきてもらって、メシは一緒に食べるが、ベットインまでできない。王様に相談したら、「恩返ししろ」とまるで、大和田常務だ。姫は、怒って、カエルを壁にぶつけたら、王子様になって、結婚したという。なんともハッピイな話だが、そんな筋たての話は、恩返しの内容が、等価交換ではないような気もする。少なくとも、倍返し以上だ。まぁ。カエルの逆玉現象ですね。よく考えれば、鶴の恩返しも良くにてる。蛇と交わるというのも、神との関係でいくつもの物語がある。なるほど、そんな風に、身分違いの結婚というのが、異類婚姻に発展して行くのですね。
    食べることと交わることは、つながって行くのだが、殺すことなくして、食べられないというどうしても避けられないことについての関係は、宮沢賢治の「注文の多いレストラン」で見事に表現している。食べようとして、食べられてしまう。
    それにしても、童話や絵本には、赤ずきんちゃんも含めて、食べられてしまう話が多いのは、物語の始まりは、いのちのあり様から始まるからかもしれない。ぐりとぐらも、たまごでケーキを作ることから始める。唐揚げを作らないところが、ミソとは思わなかったなぁ。問題は、日本人が江戸から明治に変わるときに、肉食に食文化が変わったときに、どのような納得があったのかが知りたい。
    猿に近親相姦(インセントタブー)をしないルールやペットを食べないルールが確立したにも関わらず、豚だけは食べるためだけに育てるという食文化の形成が面白い。
    始まりの神話においては、太古の海から、性の出現によって、性が死を引き寄せ、死が性とともに顕われた。性こそが世界に多様化をもたらした。
    レヴィストロースの料理の三角形は、「生のもの」「腐ったもの」「火にかけたもの」となっているが、「発酵」が腐ったものに対峙していないのが残念だ。そして口と肛門の関係を語る。
    生け花が生贄につながる考察は、面白い。
    性欲、権力欲、食欲のそのいのちの根なるものを紐解いて行くことで新しい分野が広がる。

  • 「たべちゃいたいほど、かわいい」確かに良く聞く言葉であるし、なんなら自分の子どものことも可愛すぎて食べちゃいたい。でもそれはカニバリズムでも性的欲求でももちろんない。愛情がなぜ食欲になるのか。「食べ物を食べている夢を見るのは欲求不満だからだ」とも聞いたことがある。満腹だと性欲が薄れるのか?しかし空腹の方が逆に性欲から食欲に頭が支配されてしまう例も紹介されている。愛する人を食すということを考えたり、食べる立場から食べられる立場になること、異類婚姻譚など様々な点での食、欲に関する事柄が載っており非常に興味深かった。
    面白い。

  • 東日本大震災後、沿岸で漁師が捕った魚やタコの中からひとの髪の毛や歯で出てきたことがあったらしい。食べられないと言う人が多い中、漁師はだからこそ食べるんだと言って食べていた。このエピソードを知れただけでも読む価値があった。

  • テーマはとても興味深いテーマなのだけど、いかんせん論考自体があっち行ったりこっち行ったりで、また文章も個人的な好みとしては読みづらいところも多く、せっかくのテーマ、もう少し深く切り込めるんじゃないかと思い続けてしまった。とりあえず読み終わるほどには面白かったんだけれど。自分自身が実感を持って興味があるテーマなので、この本も参考にしながらいくつか考えてみたいと思ったり。

    …いわば、嘗める行為が、傷を癒すことから、殺すこと、食べることへと深化してゆくプロセスが、ここには描かれていたのである。しかも、トカゲのひと連なりの姿は、舐められながら、どこか性的なエクスタシーへと押しあげられてゆくような気配を、濃密に、漂わせている。その恐怖にまみれた快楽の果てには、永遠の切断としての死が訪れているのである。…(p.95)

    …食べることは、「他者を自己に取り込む行為である」からだ。それはまた、自己や他者や、異質な集団や世界に取り込まれることでもある。…
    子どもの本における<食>は、おとなの文学における<性>の代替であるといわれることが多い。食べる行為は、セクシュアリティを強く想起させ、これもまた身体の意識につながっている。…(川端有子) (p.101-2)

    …なぜ、食は性の代替物や比喩の拠り所になりえたのか。大平は、構造がよく似ているからだ、という。ひとつは、どちらも交流性・一体化/攻撃性・被攻撃性の領域に別れていることであり、いまひとつは、ともに愛というテーマに仲立ちされていることである。むろん、相違はある。性が直接的な身体の関係であるのにたいして、食はかならず食べ物の媒介を必要とするのである。その例外がカニバリズムである、という指摘を記憶に留めておきたい。…さらに、そこには、殺す/殺されるという根源的な暴力の問題がかぶさってくる。(p.104)

    食べ物を用意して食べさせることに途方もない満足度を覚えることがあり、それは自分を取り込んでもらうことの擬似体験として快感を覚えているのだなと思う。一方で相手のことを食べてしまいたい、と思ったことは、多分なく、「食べてしまいたいほど可愛い」の心理がどのようなものかいまいちピンとこない。でも知りたい、と思っているわけだが、これは"男性"から"女性"への欲求としてしか発露されないのだろうか。頭からバリバリ貪り食べ尽くしてしまいたい、と思うのはどのような感覚なのだろうか?ライオンがガゼルを仕留めて食べる感覚とは?そういった表現は、「それやったら死ぬ」わけで、いくら強度を伝える比喩といえ、それにより相手を消滅させることのニュアンスも含んでいるのではないか、と思ったりする。そのことについてはどう思うんだろう?一体化してしまいこんでしまえば誰にも取られることはないという究極の安心感を得られるとして、延長線上につながっている感覚なのだろうか。

    タブーとは、言語によって構築されている見えない分類の体系のなかで、両儀的な、例外的なカテゴリーとして発生する。タブーとされるものはすべて、聖性や価値・重要性・力・危険を抱いており、「不可触で汚らしくて口に出せないもの」だ、とリーチはいう。何を抑圧し、禁止しているのか。たとえば、身体からの分泌物、つまり糞便・尿・精液・月経血・切った髪や爪・垢・吐いたつば・母乳などは、たいてい厳しいタブーの対象となる。それらはいわば、わたしであって/わたしでないモノであるがゆえに、タブーの対象とならざるをえない。唯一の例外は、涙であったか。涙にはケガレを浄化する力が宿ると信じられていることが多い。ともあれ、身体の内/外が交わり、隔てられる曖昧模糊とした領域に、身体にまつわるタブーが生成を遂げるのである。(p.111)

    サルトルの<穴の実存主義的精神分析>(『存在と無Ⅲ』)
    …女の性器の猥褻さは。すべて口のあいたものの猥褻さである。それは、他の場合にすべての穴がそうであるように、一つの「存在ー呼び求め」である。それ自身において、女は、侵入と溶解とによって自分を存在充実へと変化させてくれるはずの、外からやて来る一つの肉体を呼び求める。…

    …そこでは、食物は口をふさいでくれる詰めものである、と断言されていた。そうして食べることは交わることへ、性欲の問題へと移行してゆく。女の性器の猥褻さは、「口のあいたものの猥褻さ」であり、みずからの穴への侵入と溶解によって存在の充実をもたらしてくれる、外からやって来る肉体を呼びもとめるのである。いずれにせよ、サルトルにとって、女の性器は口であり、しかも、「ペニスをむさぼり食う貪欲な口」である。そうして、性愛は男には去勢の現場とならざるをえない。それはなによりもまず、女の性器が穴であるからだと、サルトルはどこか苦々しげに、悲壮感すら滲ませながら書いたのであった。(p.139)

    …性がこうして、グラデーションとしてしか語りえぬ時代を、きっとわれわれは生かされている。世の中の性をめぐる秩序は、「女」か「男」かというふたつの性だけで構成されているわけではない。この二分法が強固であればあるだけ、そこからの逸脱が否応なしに析出される。西洋のロゴスに根差したデジタル型思考は、どちらにも属さぬ第三項としての両儀的な境界領域を避け難く必要としている、といってもいい。山内がそれに対置させようとした東洋のレンマにおいては、自己/自己ではないが自己に近いもの/他者に近いが他者ではないもの/他者といった差異のグラデーションを前提として世界に向かいあおうとする。あいまいに重なりあう境界領域にタブーの根源をもとめる思考からの離脱が、いま必要とされているのではないか。(p.149)

  • 震災後、人の一部を食べたかもしれない魚を積極的に食べようとする漁師。「だから、俺は喰うんだよ」

    レヴィストロース 子どもの心に人間と動物たちの連続性を教えこもうとするためのぬいぐるみという存在。「原初の連帯」を回復するための手続き説。

    日本やエスキモー、インディアンの物語において、動物が動物として人間と婚姻関係を結ぼうとする。異類婚姻譚もまた、「原初の連帯」を回復するためよ文化の仕掛け説。

    動物でありながら/動物であることを拒み、そこから逃走する、という逆説こそが、ヒトの人間としての条件?

    性と死は同時に登場したもの。単細胞生物には「死」という概念はない。「死」の対極は「生」ではなく「性」。

  • 日本や世界の神話、民話、果てはSF小説まで、生と性と食に関わる事を集めてある。論文なのかエッセイなのか。

    千早茜さんの本を読まなかったらこの本の存在自体知らなかったはずなので、千早さんに感謝。

  • ほんタメ!より。性と食について。テーマは面白いはずなのに思っていたものと違った。昔話を用いて作者の考えを綴った本。少し読みにくさも感じる

  • や~、おもしろかった。
    世界中の民族文化や神話から導き出される、性と食についての考察。食べることは生きること、なんてよく言われるけど、知らず知らずのうちに、セックスも生きることなのにそれは退けられてる。でも、読めば読むほど、言われてみりゃー両者の共通点が山ほど・・・普段意識しないけど縛られているタブーの感覚にも気づかされ。「文化的」に生きてるけど、やっぱりもっと自然に戻りたいし野生にあこがれる。・・・それにしても、こういう人類学やら民俗学やらって、なるほど~そういう考え方もできるネ~!っておもしろいけど、真実かどうか確かめようがないし、やっぱり解釈の問題って気がするけど、そしてこの著者の「こうなんじゃないの~?」っていうあーだこーだの思索を、これだけ面白く、しかも「文化的に」「もっともらしく」読ませる、なんかズルいわ。楽しい仕事だね。。。

  • 昨年末のBRUTUSの読書特集で取り上げられていて気になった本。
    「食べちゃいたいほど、可愛い。」この言葉の意味は?
    最初は、食事に誘えば、その後もセットだぐらいの下世話な話かなと思ったけど、そうではない。食と性と排泄、そして生と死を巡る偉大なる考察。
    参考文献に、古事記や日本書紀に始まり、折口信夫、柳田国男、そしてグリム童話や宮沢賢治と種々の文献がずらっと並んだ読み応えのある比較文化論。
    口も奥が深いねぇ。

  • 読み終わったというか、百ページほどで読むのを拒否。断固拒否。
    もともと連載だったのを一冊にまとめたらしいけれど……
    楽しみにしていただけに、単刀直入に、期待はずれだった。
    食べる/交わる/殺す
    野生の思考および子供の思考においてこの三者は曖昧に結びついている。それは、本書がわざわざ指摘するまでもない。
    著者は民俗学者だそうだが、上に挙げた暴力の三つの様相を順列組み合わせにし、途中、311の震災を挟みながら、それらにまつわる文献、エピソードを軽く、だらだらと紹介しているだけで、議論はなかなか深まっていかない。けっきょく、レヴィ=ストロースの著述の再確認だけではないか。
    それが特に露呈したのは、「たまたま」手元にあった絵本のあらすじを紹介しているくだり。片山健の絵本。美味しそうな少年の体を、森の動物たちがそっと舐めたり、甘噛みしたりする。この「たまたま」の偶然の出会いを、著者は無駄にしてはいないだろうか。チャンスを逃してはいないだろうか。本書一冊より片山健の薄い絵本がよほど豊かなものであることはまず明らかだ。
    そう、自分の不満のありかにいま気がついた。本書には誠実さが足りないのだ、「偏り」や「過剰」といった誠実さが。そして、いささかセンチメンタルでついていけないのだ。

  • ・あるいは、変身について。マックス・リューティーは『昔話の本質』のなかに、「人間はときどき動物に変えられる、それどころか自分から動物に変わる」と自然民族は信じている、と書いていた。昔話における重要なモチーフとしての変身をめぐって、西洋/日本のあいだには本質的な差異が見いだされてきた。「鶴女房」をはじめとして、「狐女房」「蛇女房」「鮭女房」など、日本の異類婚姻譚に普遍的に見られるのは、<異類→人間→異類>という変身である。変身する主体はつねに異類なのである。これにたいして、ヨーロッパの昔話では、変身する主体はつねに人間であり、「蛙の王さま」における変身は<人間→異類→人間>という方位をもつ。動物観として眺めれば、日本では鶴・狐・蛇などの動物が人智を超える不思議な力をもって、ときには人間に変身するのにたいして、ヨーロッパでは動物には霊的な力が認められていないから、人間に変身することは考えられない。そこではただ、人間がときに魔法によって動物に変身させられるだけのことだ(高橋亘勝「昔話の比較」)。

    ・山はアジールであり、死者たちの還ってゆく他界でもあった。

    ・小澤は、日本の昔話のもつおとぎ話性は「現実に近いところに成立している」という。魔法や愛情といっためくらましに身を預けることは許されず、異類との、野生との存在を賭けた厳しい戦いを真っすぐに引き受けるしかない。ヨーロッパの研究者たちの眼には、「日本の昔話は動物に対して残酷だ」と映るらしいが、その理由はこのあたりに潜在していると、小澤は考えている。

    ・このエスキモーの異類婚姻譚について、小澤は大変興味深い解釈を示している。そこでは、ほかのいかなる民族の場合よりも、人間と動物の関係が近い。これは異類婚ですらないのかもしれない。人間の娘とかにの結婚ではあるが、異類のあいだの結婚ではなく、同類としての人間とかにの結婚といったほうがいい。これはきっと、「人間をほとんど動物のひとつと考える思想」に支えられている。もはや、神としての動物でも、人間から拒まれる動物でもない。人間の同類としての動物である。エスキモーの古老がいうように、ここでは「生き物はみな人間の姿と形になることができる」のである。

    ・ここではない、どこか異世界へと境を越えてゆくためには、なんらかの通過儀礼が必要である。そこに食べ物をめぐるテーマがともなうことは多い。境を越える道行きは不安にとりまかれている。そこでの食もまた、思いがけず危険な行為である。なぜなら、食べることは「他者を自己に取り込む行為である」からだ。それはまた、自己が他者や、異質な集団や世界に取りこまれることでもある。

    ・清潔に整えられた社会に生きる、私たちから遠ざかりつつあるもの。肉体の存在感、手触り、におい、痛い、冷たい、寒い、暑い、食べる事、排泄すること、与えられた生の時間に対する敬虔な気持ち、喜び、規則的に鼓動する心臓の奇跡、そして言葉では捉えきれないたくさんの感情が、現代の九相図を見ているとあふれてくる。なんとあやうい容器に、私たちの命は入っているのだろう。

    ・さらに、消化とはなにか、排泄とはなにか。文化人類学的な問いの磁場のなかで、レヴィ=ストロースが意表を突くかたちで取りあげるのは、口や肛門の不在という負の状況である。不在こそが隠された真実をむき出しに顕わす。

    ・穴は確かに、身体の内/外にまたがる両義的な場所である。そこから分泌される唾液・鼻水・耳垢・糞尿・精液・経血などはいずれも、危険なタブーの対象とされることが多かった。そのなかで、くりかえすが、口と肛門とが食物の料理・摂取/消化・排泄というプロセスの起点と終点にあって、特別な役割を果たすのである。自然から文化へ/文化から自然へ、という対称性を確認しておくのもいい。この口という穴が昔話の中で演じる、もうひとつの特異な位相にはあらためて触れてみたい。

    ・それから、盛大なマロ舞踏が催される。ハイヌウェレは広場の中央に立って、踊り手の男たちにさまざまな宝物を与えるが、それが逆に、ハイヌウェレを不気味な存在へと追いやり、嫉妬を呼び覚ますことになる。男たちはハイヌウェレを殺すことに決める。マロ舞踏の第九夜、舞踏が螺旋状に旋回するなかで、男たちはハイヌウェレを広場に掘った深い穴へと追いつめ、ついに投げこんでしまう。けたたましいマロ唱歌が少女の叫び声を掻き消す。男たちは土をかぶせ、舞踏のステップを踏みながら穴のうえの土を固めてゆく。そうしてハイヌウェレは殺害されたのである。

    ・いわば、自然のモノを文化の側に引き寄せる料理という行為のなかに、タブーが潜んでいるのではなかったか。っそこには、避けがたく野生の獣や魚貝から命を奪うプロセスが含まれている。それが「汚いまね」の隠された本体であったかもしれない。むろん、尻が強調されていることと無縁ではありえない。オホゲツヒメが尻からうまいモノを取り出したように、ハイヌウェレが宝物を大便として排泄したように。ともあれ、男はスサノヲと同様に、料理それ自体を「穢汚して奉進る」行為として忌避したのである。しかし、女を殺すことはなかった。最後に、女は魚にもどって水中に姿を消し、あとには金銀の宝物の入った漆塗りの手箱が残されるのである。

    ・そして、マルノゲレがこの猪を生け捕りにするように依頼したにもかかわらず、人間は猪を屠殺する。そのために、すべての人間が死なねばならなくなった、という。死の起源譚である。それから、マルノゲレは女たちの生殖器を作ってやり、人間に生殖行為を教えた。月経は、マルノゲレが女の性器を殺された猪の血で手当てしたことに始まった、という。月経のときには、「女が月と交合する」とも語られている。

    ・おそらく、饗宴といった特異な場においてだけではなく、食べること/死ぬことは、ある根源的な連関を示すのではなかったか。たとえば、死ぬことは飲みこまれ、食べ尽くされることである、といった具合に。むろん日常的には、「食べることは生きること、生きることは食べること」という表層のテーゼが、ぼんやりと意識されているだけだ。しかし、その裏側にはきっと、死ぬとは飲みこまれ、食べ尽くされることだという、もうひとつのテーゼが張り付いているにちがいない。食べることは生きること、生きることは食べること、そして、死ぬことは食べ尽くされること、といってみる。

    ・こうして戦場の、ときには看取りの場でもあったはずの時空で語られた、性愛と死にまつわる昔話として読み解かれてみると、最上級の「鳥食い婆」の昔話は、なかなかに心惹かれるものだ。なぜ、年老いた婆たちは、わざわざ陰部や股の肉を切り取って料理したうえで、夫に提供するのか。
    あの、死ぬとは飲みこまれ、食べ尽くされることであるというテーゼは、ここにも生きているというべきだろう。食べ尽くされることにおいて、性愛は死とひとつになる。なにか、捨て身の、最後の性愛の企てのようにも感じられる。やはり、食べること/交わることは、ここでも秘められた隠微な交歓のドラマを取り結んでいたのではなかったか。

    ・食べるとはなにか、という問いにたいする、なんとも魅惑的な応答である。バフチーンによれば、人の肉体はみずからの内に完結することなく、世界に向けてかぎりなく開かれながら、その世界との相互依存性を生かされている。それを思えば、たとえば肉体の表層を覆った皮膚を、自己と世界とを分かち隔てる境界と見なす思考の、なんと皮相なものであることか。皮膚とはそもそも、多孔質の、つねに外なる世界によって浸透されている、呼吸する境界ではなかったか。

    ・食べるとは、破壊によって我がものにすることであり、それと同時に、或る種の存在で自分の口をふさぐことである。しかも、この存在は、温度と密度といわゆる風味との一つの綜合として与えられる。要するに、この綜合は、或る種の存在を意味している。われわれが食べるとき、われわれは、味わいによって、この存在の若干の性質を認識するだけにとどまるものではない。それらの性質を味わうことによって、われわれはそれらを我がものにするのである。味わいは同化作用である。歯は、噛みくだくという行為そのものによって、物体の密度を顕示し、これを食塊へと変ぜしめる。それゆえ、食物についての綜合的な直観は、それ自身において、同化作用的な破壊である。この直観は、私がいかなる存在を以て私の肉体を作ろうとしているかを、私に顕示してくれる。(略)食物の全体は、私が受けいれる存在、もしくは私が拒否する存在の、或る種のありかたを、私に提示する。

    ・いけばな、という。花を生ける、という。人はなぜ、死者に花を手向けるのか。はるかな昔のこと、ネアンデルタール人と呼ばれた旧人類も、死者に花を手向けたといわれている。枕辺から、たくさんの花粉が検出された。その血は性の交わりによって、われわれのなかにもわずかに流れ込んでいるらしい。東日本大震災のあとに、津波に流された村や町を、たくさんの花のある光景にゆき逢いながらたどった。家の跡に花を見かけると、車を降りて、ただ膝を折り、手を合わせた。花を供える、花を生けることの意味を問わずにはいられなかった。
    『Sacrifice』は、たとえば花を生けるという行為の根源に降り立った、稀有なる一篇の記録である。片桐はある時期、福島県の南相馬市に暮らしながら、警戒区域に囲いこまれた被災地のそこかしこを訪ね、野の花を生けてあるいた、という。そして、花のある情景を写真に収めることをくりかえしたのである。そんな写真の一枚に出会ったときの、鈍い衝撃を忘れることはない。

    ・『暴力と聖なるもの』のなかで、ジラールはくりかえし書いていた。たとえば、文化秩序の起源には、つねにだれか人間の死があり、その決定的な死は、その共同体に帰属するひとりの成員の死である、と。あるいは、共同体の構造には、すべてがそこから放射している中心点があり、いつだって集団的な統合の象徴的な場所となっているが、それはあの贖罪の生け贄が非業の死を遂げた場所を示している、と。桟敷において、贄棚において、生け贄に加えられた根源的な暴力の記憶はやがて、その場所への繋留をほどかれて、語り物や説経節や能や歌舞伎といった芸能のなかに受け継がれてゆくのかもしれない。

  • 民俗学者の赤坂氏による、食べること/交わること/殺すこと、をめぐる論考。世界中の民話や寓話、フロイト、レヴィ=ストロース、果ては現代のSFまで、広大な思想の海で食と性を考える。

  • 心底イヤになる出だしですが、文学好きのための文化人類学といった趣き。

  • 2025/09/13

    読むの疲れた。題材をコネコネしてる本を久しぶりに読んだ。「もの食う人々」ににてるなって思ってたら出てきてびっくりした。

    p5
    東日本大震災が始まった年の夏から秋にかけて、「魚や蛸を食べる気になれない」という人が少なからずいた。被災地に近い、例えば岩手県遠野市では、捕れた地魚をさばくと、内臓の中から人の爪や歯が出てきた。蛸の頭のなかに髪の毛が絡まっていたといった真偽を確かめようのない噂がしばしば聞かれたのであった。

    p6
    かれら(都会のハンター)にとって、狩猟とは殺すために殺す遊びに過ぎなかった。東北の狩人たちは、食べるために、生きるために野生の獣たちを殺すのであり、そこが決定的な分岐点となる。

    p8
    ひとりの三陸の猟師が、震災後、鹿猟をやめて、ついに鉄砲も返却したのである。起点にあったのは、震災の年の秋に獲った鹿の肉から放射性物質が検出された、ということだ。

    ここではあきらかに、「食べられないなら、殺さない。殺したくない」ということにこそ、重心があるはずだ。

    いま・そこで、東北の伝統的な狩猟の世界が震災のもたらした影のもとで、ひっそりと幕を閉じようとしている。食べるために、生きるために、狩人たちは野生の獣たちを殺してきた。

    それはおそらく、東日本の自然生態系にたいして、深刻な影響をもたらすことになるだろう。

    p10
    東北の狩猟者たちはすでに、高齢化と人口減少という問題に直面していた。震災によって、狩猟が狩猟として成り立たない状況が生まれたために、それは加速度的に深刻なものになろうとしている。

    p11
    中尊寺建立供養文を想起したのであった。
    「この鐘の音は、あらゆる世界に響きわたり、誰にでも平等に、苦悩を去って、安楽を与えてくれる。攻めてきた都の軍隊も、蝦夷とさげすまれ攻められたこの地の人たちも、戦いにたおれた人は昔から今まで、どれくらいあっただろうか。いや、人間だけではない。動物や、鳥や、魚や、貝も、このみちのくにあっては、生活のため、都への貢ぎもののために、数え切れない命が今も犠牲になっている。その魂はみな次の世界に旅立っていったが、朽ちた骨は今なおこの地の塵となって、うらみをのこしている。鐘の声が大地を響かせ動かす毎に、心ならずも命を落とした霊魂を浄土に導いてくれますように。」

    p33
    昔話における重要なモチーフとしての変身をめぐって、西洋/日本のあいだには本質的な差異が見出されてきた。鶴女房など日本の異類婚姻譚に普遍的に見られるのは〈異類→人間→異類〉という変身である。変身する主体はつねに異類なのである。
    これにたいして、ヨーロッパの昔話では、変身する主体はつねに人間であり、「カエルの王様」における変身は〈人間→異類→人間〉という方位をもつ。動物観として眺めれば、日本では鶴・狐・蛇などの動物が人智を超える不思議な力をもって、ときには人間に変身するのにたいして、ヨーロッパでは動物に霊的な力が認められてないから、人間に変身することは考えられない。そこではただ、人間がときに魔法によって動物に変身させられるだけのことだ

    p111
    例えば身体からの分泌物、つまり糞便・尿・精液・月経血・切った髪や爪・垢・吐いた唾・母乳などは、たいてい厳しいタブーの対象となる。それらはいわば、わたしであって/わたしではないモノであるがゆえに、タブーの対象とならざると得ない。唯一の例外は、涙であったか。涙にはケガレを浄化する力が宿ると信じられていることが多い。ともあれ、身体の内/外が交わりら隔てられる曖昧模糊とした領域に、身体にまつわるタブーが生成を遂げるのである。
    →『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』 箕曲在弘著にも同じことがかいてあった。その時はヨーロッパ人と日本人の家はどこまでが内なのかというもの絡められていた。これは面白いな。涙に関しては確かに!ってなった。なぜが清らかなものになってるよな。

    p275
    辺見庸の「もの食う人々」の
    →題材が似てるなと思ってたから出てきた瞬間テンションあがった。

  • 島本理生が紹介しているのを見て読んだ本。それで読んだこの本の参考文献の『アンパンマンの遺書』も興味を持って読んだ。
    こうやって好きなものがつながって、新たな興味がわくのが楽しい。
    食べちゃいたいほど、可愛い。
    そんな言葉を起因に深掘りしていく過程が面白い。

  • 表紙とタイトルに惹かれて借りました。

    民俗学・文化論の学者さんが書いている本なので、興味のある人ない人の差が激しいかなと思います。(私は興味が無い人でした)

  • 100ページまで読了。今年の課題図書。

  • 2023-11-11
    学術書とエッセイの中間くらいの感触。生と性と死が分かちがたいものであるという何となく思っていた感覚の傍証がこれでもかと集められている。ストロースの言及など、なるほどと思うものも多い。でもこれといって目新しい所に焦点がないのがエッセイっぽい。

  • 古今東西の性、食、死などに関するエピソードを取り上げ、筆者なりの解説(ただし論拠が希薄)を加える内容。ボリュームがあって読み応えはあります。が、これはほとんどエッセイに近い。民俗学のジャンルになると思いますが、構造化された独自の分析はあまりなく、異類婚姻譚の類を詰め合わせた「昔話集」と捉えるのが正解かもしれません。

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著者プロフィール

赤坂憲雄(あかさか・のりお):1953年生まれ。学習院大学教授。福島県立博物館館長。東北学を提唱し、九九年『東北学』を創刊。『柳田国男を読む』『排除の現象学』『異人論序説』『遠野物語へようこそ』『結社と王権』『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』『岡本太郎の見た日本』(ドゥマゴ文学賞・芸術選奨文部科学大臣賞受賞)『東西/南北考』3・11から考える「この国のかたち」』(新潮選書)等著書多数。

「2024年 『柳田國男全集 別巻2 補遺』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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